2023-12-17

"日本美術応援団オトナの社会科見学" 赤瀬川原平 ☓ 山下裕二 著

小雨降りしきる中、古本屋で宿っていると、冒頭の一文に誘われる。凡人は、日常の幸せにも気づかないもの。観察力を研ぎ澄まし、情緒を感じながら... そんな生き方をしたい、と思いつつも...

「日本美術応援団の対象とするものは、その名の通り日本の美術である。それがなぜ社会科見学なのか。それは、時として社会も美術だからである。たとえば国会議事堂というもの。その中では与党と野党が口角泡を飛ばして論争をしている。その論争の陰で、居眠りしているものもいる。それを報道陣が撮影していて、書記官は書記官でせっせと記録をとったりしている。そんなリズムの響き合いに、美術の可能性が秘められている。かどうか、とにかくそのみんなに共通していることは、給料をもらっているということである。金のためだけではない、ということはあっても、この世で金は重要である。それが社会というもので、その社会のてっぺんにある国会議事堂、これがふと、雪舟の水墨画に見えることはないだろうか...」

アリストテレスは、人間を「ポリス的動物」と定義した。ポリス的という言葉は、様々な解釈を呼ぶが、精神的に最高善を求める共同体、その一員としての合目的的な存在といった高尚な意味も含まれよう。
しかし、人間ってやつは、どんな社会であろうと、その集団性と無縁で生きられるほど強くはない。社会と何らかの関係を持ちながら生きているとすれば、日々社会勉強ということになる。これぞ、オトナの社会科見学!
そして、介護士の振る舞いや理学療法士の身体の使い方にも、美術を観る眼が養われるやもしれん。ひょっとしたら、御老体の排便姿に向けた怒りの眼差しにも...

日本美術応援団を結成するのは、この二人。超前衛派を自称する美術家赤瀬川原平と、美術史家山下裕二。現実主義者は、何事も手に触れてみないと気が済まないと見える。そのはぎゃぎ様はまるで修学旅行!それで、暗黙に節度を守りなさい!というのが、オトナの態度というものか。
しかし、童心に返らないと、純真な美術鑑賞は難しい。ましてや脂ぎったオトナには...

本書は、国会議事堂に近代美術を見、東大総合研究所博物館に文化資源廃棄物を見、東京国立博物館に侮れない常設展を見る。ド素人の美術鑑賞家は、大々的に宣伝される展示会の方に目がいってしまうが、真の美術鑑賞家は日頃の展示品に愉悦を覚えるらしい。
そして、観光客で賑わう鎌倉ではあえて一歩路地に入って静寂に浸り、長崎では歴史と商業のチャンポン都市を探訪し、奈良では世界遺産の宝庫ぶりを堪能する。美術の眼で眺めると、当たり前のように見えた社会も面白く見えるから、摩訶不思議!

しかしながら、すべてを肯定的に観るのでは、芸がない。現物主義なら予備知識なしで臨みたいが、新進気鋭の作風だから注目を、最新の理論だから勉強を、というのでは、せっかくの好奇心も萎える。国宝などと言われて臨む態度もあろうが、天邪鬼な性癖が条件反射的に漏らす。なんで、こいつが国宝なの?って。義務教育で教わった歴史建造物にも疑いの眼が...
例えば、世界遺産に登録される法隆寺は、長安からの直輸入品だそうな。こいつを、日本の心!などと崇めれば、くすぐったくもなる。戦時中、坂口安吾はこう漏らしたそうな。「法隆寺が焼けてしまったら停車場にすればいい。それよりも、バラックに灯るあかりのほうが美しいんじゃないか!」って...
とはいえ、本場中国に遺らず日本に遺ったということは、歴史的建造物であることに違いはない。文化ってやつは、計り知れぬものがある。原産地で評価されないものが輸出先で評価され、逆輸入されることも。輸出先の文化とうまく融合して、独自の文化を育むことも... 

芸術家も計り知れぬ、生き急ぐタイプが多い。だから、自画像を描かずにはいられないのか。芸術作品には、主語が重要だ。いい意味での独裁でなければ...
しかし、やたらと自己アピールし、存在感が強調される社会は、やはり息苦しい。多情多感な芸術家となれば、尚更。
絵を描くことが、極楽となるか、地獄となるか。芸術は長く、人生は短し... と言うが、芸術家も泡沫の如くでなければ、やってられんらしい。
おまけで、本書には「羅漢応援団」も結成されるが、狩野一信の「五百羅漢図」にも芸術家のアドレナリンを感じ入り、生きる勇気を与えてくれる...

ところで、「社会人」という表現は、日本独特のものだそうな。そういえば、英語に訳してもピンとこない。成年や未成年といった用語は、海外でも法律で規定されるが、社会人となると、責任ある立場、自立した個人といった意味も含まれる。それで、すべて自己責任で!と、人のせいにしてりゃ、世話ない。
実際、子供じみた大人もいれば、大人っぽい子供もいる。駄々を捏ねる大人に、成熟した言葉を発する子供に、どちらも見ててくすぐったくなる。
しかし、こうした対照的な立ち位置が逆転しちまうと、それが芸術の要素になるから面白い。もともと芸術とは、人間模様を滑稽に炙り出し、それが芸術の域に達してきたところがある。世阿弥の「花伝書」にしても、モノマネや滑稽芸に日本の伝統芸能の源泉を見る。おそらく人間を自然に描くと、そうなるのだろう。人の心知らずして何が芸術か...

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