2023-12-10

"マクロプロス事件" Karel Čapek 著

原題 "Vĕc Makropulos"
Vĕc(ヴィエッツ)という単語には、なんとも掴みどころのない意味が含まれているようだ。翻訳機にかけるとチェコ語で「もの」という訳語がひっかかるが、もっと曖昧で思わせぶりな... あえて訳すなら、マクロプロス家に伝わる、意味ありげなモノ(物)... といったニュアンスであろうか。
これの邦訳版の表題は、いろんなパターンを見かけるが、どうもしっくりこない。秘密、秘法、処方箋... では、あまりに直接的で翻訳しすぎの感もある。分かりやすさを求める風潮では、その方がいいのかもしれんが、せっかくの思わせぶりが... 翻訳界でも悩ましい表題のようである。
本書は、「事件」としている。うん~... これが比較的合ってそうか。
そして物語は、遺産相続事件を発端に、美貌の女性の正体をめぐってサスペンス風に展開され、モノ(封印書)の中身が明らかにされた時、終幕を見る...
尚、田才益夫訳版(八月舎)を手に取る。

時は、三百年ほどさかのぼる。16世紀、神聖ローマ皇帝ルドルフは、侍医に不老不死の秘薬を所望した。侍医が秘薬の完成を告げると、試しにお前の娘に飲ませてみぃ... すると三日三晩、娘は高熱で意識を失い、侍医は皇帝の逆鱗に触れ、投獄されたとさ。それから三百年も生きてきたなんて、どうやって証明するの?
そして、不老不死の処方箋が焼かれた時、やっと死ねるわ!

「老いしもの、もはや来たらず!栄華の夢も、灰燼に帰するなり!」

人類は、何千年も前から不老不死の妙薬を夢見て、迷信とともに様々な処方箋をこしらえてきた。三千年紀が幕を開けた今日でも、長寿で、いつまでも健康でいたいと切望して止まない。人生を十分に謳歌するには、どのくらい生きればいいというのか...
医学は進歩し、寿命は着実にのびていく。幸若舞「敦盛」には、人間五十年... と詠われ、現在は人生百年時代と言われる。健康でいられるなら、いつまでも生きていたい。不老不死なら、これにまさる希望はない。
しかし、だ。長く生きれば、それだけ有意義な人生が送れるだろうか。それだけ幸せな人生が送れるだろうか。それだけ人間というものを悟れるだろうか...

「死後の生、霊魂の不滅への信仰は、人生の短さにたいする激しい不満の表明以外の何でありましょう...」

夭逝した偉人は多い。病死、戦死、刑死、獄中死、自殺... 二十歳で死を覚悟した大数学者は、理論の着想に、僕にはもう時間がない!と走り書きを添えた。
死と向かい合って、ようやく生と向かい合えるということもあろう。生の有難味を、死が教えてくれるということもあろう。生を浪費する人間には、時間と死の概念が必要だ。
セネカは、人間のどうしようもない性癖の一つ「怒り」を抑える方法として、果敢ない死を思え!と説いた。ガンジーは、明日死ぬと思って生きよ!不老不死だと思って学べ!と説いた。死と隣合わせだから、生にも迫力がでてこよう。死を覚悟するから、覚悟した生き方もできよう。

人間社会は、奇妙なものだ。死がありふれれば、生を崇め、生がありふれれば、死に思いを馳せる。生死にも、希少価値という経済原理が働くようだ。
誰とでも繋がろうとするソーシャルメディアが猛威を振るう時代では、むしろ煩わしい関係を徹底的に切っていく方が楽ということもあろう。巷では、孤独死が不幸の象徴のような言われようだが、実は、孤独死こそ理想的な死ということはないだろうか。
老化にも意味がある。死を覚悟する時間を与えてくれるのだから。痴呆症にも意味がある。歳をとる恐怖心を和らげてくれるのだから。
何百年も生きられる時代となれば、人口問題と直結し、少子化問題などと言ってはいられまい。皮肉なことに、戦争や疫病が人口増殖の抑制に寄与している。あとは、安楽死ビジネスが盛況となるか。あるいは、地球外への移住を加速させるか。やがてヒューマニズムが命ずるやもしれん。そろそろ死ななきゃならん!と...

「いいかね、ほとんどの有用な人間の使命は、ひとえに、無知なるがゆえに可能なのだ!」

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