2024-11-10

"専門家の予測はサルにも劣る" Dan Gardner 著

ダン・ガードナーという人は、なかなか挑発的なタイトルを掲げる。証券アナリストに対しても、似た表現を見かけるけど...
しかし、賢い専門家もいる。健全な懐疑心を持ち合わせ、無知の原理を心得た専門家もいる。本書の対象は、メディアで露出度の高い専門家だ。有名になればなるほど予測が当てにならないとは、これいかに...
はずしてばかりでは自然消滅しそうなもの。ところが、こと予測の世界ではそうはならない。自信満々に主張するからこそ視聴者は耳を傾け、格好よく断言するからこそ人は信用する。彼らはよく間違えるが、決して曖昧なことは言わない。要するに、当たろうが、はずれようが、どうでもいいってことだ。
聞き手はというと、同調する意見を自信満々に発言してくれれば、それで心地よくなれる。たとえ反対意見でも攻撃対象にすれば、それで心地よくなれる。メディアは視聴率が上がれば、それでいい。そもそもメディアとは、そうしたものだ。
もはや正しい予測は無用!正しく判断できれば、それでいい。だが、それが一番の難題!正しく予測する以上に...
尚、川添節子訳版(飛鳥新社)を手に取る。

「科学の最も重要な産物は知識である。しかし、知識の最も重要な産物は無知である。」
... 理論物理学者デイヴィッド・グロス

わずかでも合理的な懐疑心があれば、占星術や迷信の類いを信じたりはしないだろう。だが、専門家ってやつは優秀で知識の豊富な人種で、その思考法も合理的。少なくとも、そう見える。
聞き手も、正しいことを信じるのではなく、信じたいことを信じる。分かりやすく、ドラマチックな物語に惹かれる。おまけに、何もないところにパターンを見つけ、無作為な結果に意味を与えようとする。いくら自己欺瞞に満ちていようが...
こうした性質は、おそらく本能的なもので自己存在とも深く関わるのであろう。それは、自分の人生に意味を与えようとするのと、同じことやもしれん...

「どのようなケースでも必ず、賛成する理由と反対する理由があり、つまり、どちらを選択してもその反対理由を押し切って選んだことになる。こうなると不協和が生じるため、自分の結論に賛成する要素を過大に評価し、反対する方を小さく見ることで合理化しようとする。」

人間の認知能力には、必ずバイアスがかかる。確証バイアスに、現状維持バイアスに、後知恵バイアスに、ネガティビティバイアスに、利用可能性ヒューリスティックに... 枚挙にいとまがない。それは、心理的に避けられない性癖だ。
政治家の世界では、正しさは重要ではない。重要なのは大衆を確信させること。メディアが欲しいのは正しい意見ではない。専門家の意見がニュースを作成する側と一致しないことは、よくある。どちらにも、どうせ大衆はすぐに忘れてくれる!という思惑が渦巻いている...

「人間は未来が見えないと、待つことしかできないという不安な状態になる。」
... 心理学者ダニエル・ギルバート

人間は、不確実性を嫌う。それは、不安感と同期するからであろう。したがって、あらゆる商売戦略で不安を煽る風潮がある。どんな結果であろうと、未来を予測し、それに対処し、安心を買いたい!ただ、それだけのこと。
しかし、この心理学を人間の愚かさと吐き捨てるわけにはいくまい。迷信や宗教を拒絶し、楽観論や陰謀論を受け入れず、メディアや専門家の意見までも認めないとすれば、あとは何が残るというのか。自己はそれほど信頼に値するのか。自分自身しか信じられないとしたら、それこそ危うい事態だ。
いや、心配はいらん。自己正当化のパターンはいくらでもある。それこそ人類の偉大な創造性であり、進化の産物である。そして、この皮肉に満ちた楽観主義の言葉で終えるとしよう...

「同志たちよ!社会主義の勝利は間違いない。マルクスは時期を外しただけなんだ!」

2024-11-03

"ホモ・ルーデンス - 人類文化と遊戯" Johan Huizinga 著

人類には、「ホモ・サピエンス」という呼び名がある。知恵ある人、賢者といった意味で...
しかしそれは、人類に相応しい呼び名であろうか。金融アナリストが練りに練ったポートフォリオは、おサルさんのダーツ並とくれば、超エリートがこしらえた政策立案はことごとく裏目。ノーベル賞級の経済学者が国際規模の経済危機に陥れ、国家を代表する政治家が政治不信を増幅させる。そればかりか、教育家が教養を偏重させ、愛国者が敵対心を煽り、聖職者が神を擬人化し、博愛者が愛を安っぽくさせる。お節介な有識者どもよ!なに故、こうも社会をいじりたがる。どうやら、そこには見えざる手が働くと見える。

ちなみに、アンリ・ベルクソンは「ホモ・ファベル」という呼び名を用いたそうな。作る人、創造者といった意味で。確かに人類には、そうした一面もある。だが、あらゆる創造性には、どこか心に余裕めいたものがなければ...
そこで、ヨハン・ホイジンガは「ホモ・ルーデンス」という呼び名を用いる。遊び心を持った人、遊戯人といった意味で。まさに遊び心から生まれた用語だ。彼は主張する。「人間は遊戯する存在である。先天的な模倣本能に從って...」と。そして、文化因子としての遊戯を問いながら、人間存在としての遊戯を問う...
尚、高橋英夫訳版(中央公論社)を手に取る。

「抽象観念なら、そのほとんど全部を否定し去ることも不可能ではない。正義、美、真理、善意、精神、神、何でもかまわない。また真面目、真摯というものを否定することもできる。だが、遊戯はそうはいかない...」

遊戯といっても、その定義となるとなかなか手ごわい。少なくとも、単なる遊びを超越している。単純な動機に発する衝動から、有り余る生命力の放出と解釈することもできよう。あるいは、緊張からの解放、克己や自制の訓練のための布石、有害な衝動を無害化する鎮静作用、さらに、自我の存在意義とその確認といった目的めいた解釈もできる。
しかしながら、遊戯の本質は、もっと単純で純真な人を夢中にさせる何か、ということになろうか。気まぐれは偉大だ。子供じみた本能に好奇心や興味といった情念があり、ひらめきや発明といったアイデアはここに発する。ワクワクするような雰囲気に包まれ、ささやかな秘め事を帯び、こうした感性こそ遊戯の源泉。日常や慣習から解き放たれ、もはや掟なんぞの及ぶ領域にない。
ちなみに、イギリスの諺に「好奇心は猫を殺す」というのがある。好奇心過ぎて身を滅ぼすといった意味で。御用心!御用心!

「遊戯とはあるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行なわれる自発的な行為、もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に從っている。その規則は一旦受け入れられた以上は絶対的拘束力を持っている。遊戯の目的は行為そのものの中にある。それは、緊張と歓びの感情を伴い、またこれは日常生活とは別のものだという意識に裏づけられている。」

人類は、長い年月をかけて文化を育み、言語を発明したおかげで、言葉と戯れる性癖を培った。言語によって成り立つ学問も、知と戯れる性癖の一つ。哲学対話も、科学論議も、政治論争も、社交遊戯の類い。
ホイジンガは、政治、法律、祭祀、芸術といったあらゆる文化的要素の源泉を遊戯に求め、人間の本質を遊戯で説明して魅せる。宗教の儀式もお祭りから、「政」の訓読みも「まつりごと」となれば、政治も遊戯。とはいえ、宗教的な残虐行為や戦争までも遊戯の延長とは...

ホイジンガは、ナチスがヨーロッパを席巻した過酷な時代を生きた。平然とやってのける残虐行為を目の当たりにすれば、すべてを道化の行為として説明せずにはいられないのだろう。競争や論争も遊戯の変形か。古代の戦争は、英雄伝を夢見ては名誉を競い合った。そうした競い合いも、互いに戯れ合う延長上にあったのかもしれない。好敵手という言葉もあるように...

だが、近代戦争は非人間化を加速させていく。政治も法律も硬直した理性に支配され、人間味が薄れていく。知性が豊かになると、理性も高まりそうなものだが、実のところ、理性の凶暴化が始まるのかもしれない。ソーシャルメディアには理性の管理人に溢れ、人間社会には誹謗中傷の嵐が吹き荒れる。エイプリルフール禁止令まで見かける始末。現代人は、遊び方を忘れちまったのか。理性の大衆化は滑稽だ。これぞホモ・ルーデンス!

そういえば、世阿弥の「風姿花伝」にも、滑稽が芸術の域に達する技芸が論じられていた。シェイクスピアの四代悲劇にしても、道化に真理を語らせる滑稽劇!滑稽こそ人間の本質か。そして、滑稽を高度に発達させた挙げ句に非人間化を成就させ、逆に、AI が人間化していくのやもしれん...