2024-11-03

"ホモ・ルーデンス - 人類文化と遊戯" Johan Huizinga 著

人類には、「ホモ・サピエンス」という呼び名がある。知恵ある人、賢者といった意味で...
しかしそれは、人類に相応しい呼び名であろうか。金融アナリストが練りに練ったポートフォリオは、おサルさんのダーツ並とくれば、超エリートがこしらえた政策立案はことごとく裏目。ノーベル賞級の経済学者が国際規模の経済危機に陥れ、国家を代表する政治家が政治不信を増幅させる。そればかりか、教育家が教養を偏重させ、愛国者が敵対心を煽り、聖職者が神を擬人化し、博愛者が愛を安っぽくさせる。お節介な有識者どもよ!なに故、こうも社会をいじりたがる。どうやら、そこには見えざる手が働くと見える。

ちなみに、アンリ・ベルクソンは「ホモ・ファベル」という呼び名を用いたそうな。作る人、創造者といった意味で。確かに人類には、そうした一面もある。だが、あらゆる創造性には、どこか心に余裕めいたものがなければ...
そこで、ヨハン・ホイジンガは「ホモ・ルーデンス」という呼び名を用いる。遊び心を持った人、遊戯人といった意味で。まさに遊び心から生まれた用語だ。彼は主張する。「人間は遊戯する存在である。先天的な模倣本能に從って...」と。そして、文化因子としての遊戯を問いながら、人間存在としての遊戯を問う...
尚、高橋英夫訳版(中央公論社)を手に取る。

「抽象観念なら、そのほとんど全部を否定し去ることも不可能ではない。正義、美、真理、善意、精神、神、何でもかまわない。また真面目、真摯というものを否定することもできる。だが、遊戯はそうはいかない...」

遊戯といっても、その定義となるとなかなか手ごわい。少なくとも、単なる遊びを超越している。単純な動機に発する衝動から、有り余る生命力の放出と解釈することもできよう。あるいは、緊張からの解放、克己や自制の訓練のための布石、有害な衝動を無害化する鎮静作用、さらに、自我の存在意義とその確認といった目的めいた解釈もできる。
しかしながら、遊戯の本質は、もっと単純で純真な人を夢中にさせる何か、ということになろうか。気まぐれは偉大だ。子供じみた本能に好奇心や興味といった情念があり、ひらめきや発明といったアイデアはここに発する。ワクワクするような雰囲気に包まれ、ささやかな秘め事を帯び、こうした感性こそ遊戯の源泉。日常や慣習から解き放たれ、もはや掟なんぞの及ぶ領域にない。
ちなみに、イギリスの諺に「好奇心は猫を殺す」というのがある。好奇心過ぎて身を滅ぼすといった意味で。御用心!御用心!

「遊戯とはあるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行なわれる自発的な行為、もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に從っている。その規則は一旦受け入れられた以上は絶対的拘束力を持っている。遊戯の目的は行為そのものの中にある。それは、緊張と歓びの感情を伴い、またこれは日常生活とは別のものだという意識に裏づけられている。」

人類は、長い年月をかけて文化を育み、言語を発明したおかげで、言葉と戯れる性癖を培った。言語によって成り立つ学問も、知と戯れる性癖の一つ。哲学対話も、科学論議も、政治論争も、社交遊戯の類い。
ホイジンガは、政治、法律、祭祀、芸術といったあらゆる文化的要素の源泉を遊戯に求め、人間の本質を遊戯で説明して魅せる。宗教の儀式もお祭りから、「政」の訓読みも「まつりごと」となれば、政治も遊戯。とはいえ、宗教的な残虐行為や戦争までも遊戯の延長とは...

ホイジンガは、ナチスがヨーロッパを席巻した過酷な時代を生きた。平然とやってのける残虐行為を目の当たりにすれば、すべてを道化の行為として説明せずにはいられないのだろう。競争や論争も遊戯の変形か。古代の戦争は、英雄伝を夢見ては名誉を競い合った。そうした競い合いも、互いに戯れ合う延長上にあったのかもしれない。好敵手という言葉もあるように...

だが、近代戦争は非人間化を加速させていく。政治も法律も硬直した理性に支配され、人間味が薄れていく。知性が豊かになると、理性も高まりそうなものだが、実のところ、理性の凶暴化が始まるのかもしれない。ソーシャルメディアには理性の管理人に溢れ、人間社会には誹謗中傷の嵐が吹き荒れる。エイプリルフール禁止令まで見かける始末。現代人は、遊び方を忘れちまったのか。理性の大衆化は滑稽だ。これぞホモ・ルーデンス!

そういえば、世阿弥の「風姿花伝」にも、滑稽が芸術の域に達する技芸が論じられていた。シェイクスピアの四代悲劇にしても、道化に真理を語らせる滑稽劇!滑稽こそ人間の本質か。そして、滑稽を高度に発達させた挙げ句に非人間化を成就させ、逆に、AI が人間化していくのやもしれん...

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