2021-01-24

血は水よりも濃い... 政治 vs. 宗教

血は水よりも濃い... と言うが、繋がりが断ち切れなければ、憎さも倍増する。人間の本質が自由精神にあるとすれば、政治の第一の目的は、まずもって個人の自由と安全を保障することになる。だが自由は、しばしば集団暴走の火種となり、社会の安全と相い反するところがある。それゆえ、個々を屈服させることが政治の手段となる。
ただ、手段ってやつは、そのまま方法論となるばかりか、これに固執すると、目的化してしまう性質がある。手っ取り早く集団の意思を操作する方法は、思想観念を叩き込むこと。その意味で、政治と宗教は原理的にすこぶる似ている。どちらも民衆の精神を支配しようというのだから。目的が同じならば、互いに手を結びやすい。まさに血を分けた兄弟!
なるほど、政教分離をやらなけば危険だというのも一理ある。

西洋史は、宗教と政治の精神的支柱をめぐっての争いの歴史とも言えよう。古代エジプトの王ですら神託には逆らえなかったし、キリスト教世界における皇帝と教皇の力関係の逆転は、聖職叙任権をめぐるいざこざに見て取れる。こうした信仰原理には、「人間は神がこしらえたもの」という大前提がある。どんなに図々しい皇帝でも、神を無視するのは、なんとなく後ろめたいところがあると見える。つまりは、気分の問題か...
ならば、こう問わずにはいられない... なぜ万能な神がこんな不完全な存在をこしらえたのか?それは、単なる気まぐれか?それとも、完全な存在の有り難さを知らしめるためか?... と。すべてが完全ならば、不完全を認識する必要もなければ、完全という概念も無用。だから、滅びゆく運命にある存在も必要だというのか...
神は、単純な宇宙法則をこしらえておきながら、それによって生じるカオスな現象にまで責任を負う気はないと見える。いや逆に、「神は人間がこしらえたもの」とすればどうであろう。その方が筋が通る。少なくとも聖書は人間がこしらえた。神の意志が、これを書かせたと主張する者もいるが、絶対なる完全者の意志を不完全者が汲み取ることができるなんて、なんとおこがましいことか。これこそ神の冒涜!

現代社会は仮想化社会と言われるが、すでに仮想化は、神の偶像化によって成熟している。お釈迦様が気の毒なのは仏像として拝まれることだ。偉大な釈迦がそんなことを望むはずがない。ナザレの御仁も再臨すれば、キリスト教なんぞ知らん!と突き放すかもしれない。偉大な魂の持ち主であったからこそ黙って十字架に晒されたのであろうし。
いまや世界中で偶像崇拝が蔓延る。偶像を完全に放棄しているのは、科学と呼ばれる宗教ぐらいなものか。いや、仮説という偶像をまとえば同じこと。科学に宗教を説得する力はないし、政治にいたっては銅像になりたがる輩が蔓延る。望み通り生き埋めにしたら...

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