2025-08-31

"破壊(上/下) - 人間性の解剖" Erich Seligmann Fromm 著

かつて、アインシュタインはフロイトに問うた。「ヒトはなぜ戦争をするのか?」と...
それは、憎悪と攻撃性という人間本性を巡るもので、そこに物理学者と精神科医の対決を見た。一つの答えは、人間はもともと獣であったというもの。他の動物も、自己防衛のために攻撃的になるし、相手を敵と見なす意識は本能的に備わっている。
しかし、だ。空腹でもないのに快楽のためだけで殺すような動物が、他にいるだろうか。しかも、同じ種を。生物学的に同じ種でも、人間の意識は違う。とはいえ、人間は生まれつき殺し屋というわけでもあるまい。
では、何が人間をそうさせるのか。社会の集団性が、そうさせるのか。高度な文明が、そんな意識を覚醒させちまったのか。人間はパンドラの箱らしきものを次々に開けちまっているのか。人類は、破壊の種子なのか...

エーリッヒ・フロムは、精神解剖の過程で人間の本性に根ざした残酷性と攻撃性を論じて魅せる。彼は、過酷なナチスの時代を生きた。ユダヤ系ということもあり、思うところがあったのであろう。
本書は、悪性の情熱から、ナルシシズム、サディズム、マゾヒズムなどの性癖を探り、ネクロフィリアにまで至る。ネクロフィリアとは、死体に性愛感情を抱くこと。そして、人間の存在条件とは何か... 人間を人間たらしめるものとは何か... を問う。
尚、作田啓一、佐野哲郎訳版(紀伊国屋書店)を手の取る。

「人間の情熱は、人間を単なる物から英雄に、恐るべき不利な条件にもかかわらず人生の意味を悟ろうと努める存在に変貌させる。自らの創造者となって、自分の未完成の現状をある目的を持った状態に変貌させ、自らある程度の統合を獲得しうることを望む。」

人間が自らの主人であることは難しい。恐怖から逃れるためなら、人はなんでもやる。ドラッグ、性的興奮、集団化... そして、恐怖を襲撃に転化させ、攻撃は自由と結びつく。知能が高くなるにつれ、物事を柔軟に捉え、反射的な反応や本能的な考えが薄れていく。好奇心、模倣、記憶、想像力を合理的に利用し、環境により適合しようとする。自意識を強め、過去と未来、生と死について考え、精神的な抽象作用を働かせ、言葉を操って、道徳、倫理を考える。
人間を動機づける情熱は、愛、優しさ、連帯感、自由など、そして真理を求める努力に多くを傾ける。だが同時に、支配欲、破壊欲、自己愛、貪欲、野望などに心が奪われる。妄想ばかりか、宗教、神話、芸術を材料に...
個人の在り方を問うと耐え難い退屈感が襲い、集団の在り方を問うと耐え難い無力感が襲う。そして、疎外感に見舞われ、仕舞いには自己破壊へ。それは、認識能力を高めていく知的生命体の宿命であろうか...

人間は奴隷を求める。自分の思い通りになる存在を求め、自分の身代わりを求めてやまない。その対象が、人間であろうが、ペットであろうが、ロボットであろうが、それは文明人の特性か。
文明は階級をつくる。そこに秩序が生まれ、安定性が生まれる。これが社会の特性。同時に、階級は腐敗の温床となり、生まれ、家柄、言語、能力、名声、肩書、専門性など様々な優劣関係で不平等契約を強いる。これが社会の現実。
人間は、人の犠牲を強いてまで幸福を求める。都合が悪くなると人のせいにし、組織のせいにし、社会のせいにする。一旦、攻撃性を露わにすると、批評は批判へ、批判は誹謗中傷へ。連中は理性の皮をかぶり、知性を装って論争を仕掛ける。追い打ちをかけるようにマスメディアが餌をばらまき、これに大衆が喰いつく。
情報過剰や人口密集がもたらすストレスは計り知れない。理性も正義もストレス解消の手段に成り下がる。その反動かは知らんが、人間だけがいい加減な動機に誘われて破壊に快感を覚える。コロッセウムでは血臭い演出がなされ、グラディエーターも命がけ。闘犬や闘牛では物足りぬと見える。もはや古代ローマ方式の「目には目を...」という掟を破り、倍返しという理屈で過剰防衛に出ては、攻撃は最大の防御という理屈で無差別攻撃までも正当化する。

「献身の対象への要求には、神や愛や真理への献身によって... あるいは破壊的偶像の崇拝によって... 答えることができる。結びつきへの要求は愛とやさしさによって... あるいは依存、サディズム、マゾヒズム、破壊性によって... 答えることができる。統一と根を下ろすことへの要求には、連帯、同胞愛、愛、神秘的体験によって...、あるいは酔っぱらったり、麻薬にふけったり、人格を喪失することによって... 答えることができる。有能であろうとする要求には、愛や生産的な仕事によって... あるいはサディズムや破壊性によって... 答えることができる。刺激と興奮への要求はには、人間、自然、芸術、思想への生産的な関心によって... あるいは常に変化する快楽を貪欲に追求することによって... 答えることができる。」

権威主義や官僚主義の下では、サディズムとマゾヒズムは、すこぶる相性がいいらしい。
サディズムは、思いのままになる者を愛し、思いのままにならぬ者を抹殺にかかる。この場合の愛し方は命令して従わせることで、権力欲や支配欲との結びつきが極めて強い。
マゾヒズムは、信頼する者や崇拝する者に特別に愛されることを望み、自ら思いのままになろうとする。そのために自己の立ち位置を強く意識し、出世欲との結びつきが極めて強い。

どんな残虐行為も、劣等人種、あるいは人間以下と見做さない限り、やれるものではあるまい。差別好きな人間は、必要な人間と不要な人間とで線引きする。古代都市国家スパルタでは、未熟児や奇形児が廃棄された。優生学との境界も微妙で、他族を劣等種族とみなすカルト教団もあれば、民族優越説を唱えて最終的解決に手を染めた国家もある。連中は歪曲した正義に取り憑かれ、異教徒や異民族の破壊を義務とし、使命を果たす。これは人間特有の性癖であろうか...
おいらだって子供の頃戦争ごっこをやったし、半世紀以上生きた今でも戦争映画を観ては過激な戦闘シーンにリアリズムを求める。人間は飽きっぽい。もっと刺激を求めてやまない。こんな性癖に絶対的な権力が結びつけば、ヒトラーやスターリンのようになっちまうのやもしれん。
となれば、悪の根源は、人間の集団性と権力の在り方ということになろうか。いや、まだ何か足りぬ...

「楽観主義とは疎外された形の信念であり、悲観主義とは疎外された形の絶望である。もし人間とその将来に対してほんとうに反応するなら、すなわち関心と責任を持って反応するなら、信念あるいは絶望によってしか反応できないはずである。合理的信念は合理的絶望と同様に、人間の生存に関連したあらゆる要因についての、最も完全で批判的な知識に基づいている。人間に対する合理的な信念の根拠は、救済の現実的可能性の存在である。合理的な絶望の根拠は、このような可能性が見られないという知識であろう。」

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