2010-08-01

"アナバシス" クセノポン 著

「アナバシス」は、ペロポネソス戦争後の歴史叙述として、なんとなく興味を持っていた。著者クセノポンはソクラテスの弟子であるが、哲学者ではなく軍人である。
ちなみに、クセノポンは別のペンネームを使っていたという説もあるらしい。

時代は、紀元前4世紀。本書は、王位奪還を目指すペルシャ王子キュロスに味方したギリシャ軍が、ペルシャへ攻め上り、キュロスの死でバビロンを目前に敵中に取り残され、敵中突破してギリシャへ帰還するまでの従軍記録である。これは、著者自身の指揮官としての英雄伝と言った方がいいかもしれない。ただ、おもしろいことにクセノポンが書いたとされながら、著者自身を三人称で扱っている。第三者の考察として信憑性を強調しようとしたのだろうか?いや、そんな野心は感じられない。小アジアからアルバニアの山々を越えて撤退しなければならないギリシャ軍の虚しさを伝えながら、自分の立場を理想化しているわけではない。蛮族の方が正しいことも、他国の領土を略奪者の群れが進軍していることも、十分に心得ているかのように映る。そこには、植民地主義的な偽善をまったく感じさせない。淡々と略奪や侵害を描写しているだけだ。
また、ギリシャ軍が様々な兵科の使い方を敵軍から学んでいく様子もうかがえる。お馴染みの重装歩兵を主力とするギリシャ軍が、軽装備の投石兵や少数ながらも騎兵隊を備えていく。これには、後の戦術としても参考にできただろう。なるほど、アレキサンダー大王が愛読したと言われるわけだ。
本書には、たびたび兵士の説得や交渉における弁論が組み込まれる。論理的な思考を根幹とした民主的議論は、いかにもギリシャらしい。これには、歴史家トゥキュディデスの影を感じる。
作品の特徴としては、文章の綴り方に注目したい。あまりに淡々と綴られる様は、文章が絶えず変化し、要点を見出す箇所を見つけるのが難しい。目に見えるような細部や動作が次々と描写され、その移り変わりの早さが、読み終えた時に何を読んだのか忘れさせるような、心地よい疲労感を残す。これは、引用の難しい作品である。悪く言えば、ダラダラとしたアル中ハイマーの文章にも似ているのだが、ダイナミックな点で大きく違う。回想的でありながら臨場感を与えるところに、文学作品となりうるかの境目がありそうだ。

「アナバシス」という言葉には、「上り」という意味があるらしい。また、山登りや乗馬や、河を遡行するという時にも使われるそうな。本書では、弟キュロスが兄アルタクセルクセス2世から王位を奪還すること、あるいは、地方からバビロンへ攻め上ることを意味しているようだ。帰路にあたるところは、むしろ「下り」であるが、雪深いアルメニア山中の難行軍や、ティグリス(チグリス)河の遡行などで苦難を乗り越えるという意味も込められるのだろう。つまり、上りの「アナバシス」と下りの「カタバシス」を合わせ持った意味で使われているのかもしれない。
ところで、本書のお陰で新たに二つの疑問がわいてきた。一つは、ペルシャ王子キュロスとギリシャの間で親交があったこと、二つは、指揮官として従軍したソクラテスの死に関する記述である。これらには、改めて歴史の解釈の難しさを感じる。ソクラテスに関する記述はほんの一瞬で終わるのだが、彼自身が著述を残さなかったために歴史的には貴重なものらしい。

1. バビロンへ進軍(上り)
紀元前401年、アテナイがペロポネソス戦争で敗れた3年後。ペルシャ王ダレイオス2世には二子がいた。兄アルタクセルクセスと弟キュロス。ダレイオスは、自分の死期を悟ると二人を呼び寄せた。アルタクセルクセスはその場に居合わせたが、キュロスは西方の統治領であるカストロス平原(リュディアのサルディス付近の地名らしい)から駆けつける。そのまま、アルタクセルクセスが王位を継ぐ。
ここで、本書のキーとなるティッサペルネスという人物が登場する。キュロスはティッサペルネスを味方だと信じていたが、ティッサペルネスはアルタクセルクセスにキュロスの謀反の志を讒訴する。そして、キュロスびいきの母の嘆願により、特赦を乞い無事統治領へ返される。キュロスは王位を奪還すべく、ギリシャ軍や異民族を集結させる。ギリシャ軍の指揮官の一人に、あの有名な哲学者ソクラテスがいた。
この時、ティッサペルネスを排除するという口実を持ち出して、ペルシャ王を討伐する事は誰にも知らされていない。そして、サルディスからエウプラテス(ユーフラテス)河沿いにバビロンへと行軍する。バビロンへ近づくと、実はペルシャ王を討伐するのではないか、という噂が広まる。ギリシャ軍の中には偉大なペルシャ王への反抗を拒む者も少なくない。キュロスは、王位奪還の意志を表明して、給料の増額などで混成部隊を説得して進軍する。だが、キュロスはバビロンを目前にして戦死する。
ちなみに、本書ではティッサペルネスを陰謀の首謀者としているが、プルタルコスによると、キュロス本人が謀反を計画したという説もあるようだ。となれば、キュロスがティッサペルネスを味方だと信じていたというのは怪しいかもしれない。

2. 逃亡劇(下り)
そもそもペルシャ王を攻めるなどと大それたことを考えていなかったギリシャ軍は、ペルシャ軍と休戦協定を結ぶ。だが、これは偽りの協定で見事に陰謀に嵌ってしまう。ティッサペルネスは、ギリシャ軍の指揮官たちを自分の陣営に招き入れて、そのまま捕らられて処刑する。その中にソクラテスがいた。ギリシャ軍は、指揮官たちが全員捕らえられて指揮機能を失う。
ここから、指揮官の後任に選ばれたクセノポンが登場し、ギリシャ軍の逃亡劇が始まる。彼は、物資の欠乏したギリシャ軍を率いて、遠回りのティグリス(チグリス)河沿いを北上する。ティグリス河沿いには、物資の豊富な村が多いからである。そして、困難なアルメニア山中を抜けて、ティグリス河の遡行など、幾多の苦難を乗り越え故国を目指す。
黒海へ到達すると、そこから西方へ進路をとるわけだが、少し様相が変わる。クセノポンは、黒海沿岸と親交を深め、軍隊が定住できるような町を建設すれば、重要拠点にできると考える。シノペとヘラクレイアの間で海上交通網を構築すれば、後のペルシャ対策にも利用できるというわけだ。ちなみに、シノペは、おいらの好きなディオゲネスが通貨変造事件で追放になったとされる町である。
黒海で船団が準備できれば、ギリシャへの帰路もそう遠くはない。兵士たちも故郷への思いを募らせる。ヘラクレアまでくれば、ギリシャの入口ビザンチオン(現イスタンブール)まであとわずか。クセノポンは、ギリシャ人が友好的であると印象付けるためにも掠奪を禁止する。とはいっても、物資の不足した大軍が宿営するとなると、不埒な輩もいて、掠奪や土地を荒らしたりと揉め事が起こる。おまけに、逃亡中ともなれば、兵士への給料も滞る。現地を征服してしまえば、兵士への給料は一発で解決するが、そうもいかない。命の確保が保証されれば、次は金銭的な欲望へと目移りするのが人間の性というものか...ギリシャ軍が敵中を横断した距離は6000キロに及び、要した年月は上りと下りで一年と三ヶ月だったという。

3. キュロスとギリシャの関係(疑問1)
ギリシャ人の祖先は、ペルシャ王クセルクセスの侵攻を陸海軍ともに打ち破った経緯がある。その頃からギリシャとペルシャには深い怨恨があったことは推察できる。となれば、ギリシャ軍がペルシャ王子キュロスに味方することは奇妙に思える。にもかかわらず、本書はペルシャ王子キュロスの人間的魅力が強調される。キュロスは、以降のペルシア人の中でも最も王の風格を具え、統治者に相応しい人物だったと...幼少の頃から兄弟や子弟と共に教育されるが、すべての点で最も優れていて、最も謙虚で、馬術や武技にも優れていたという。条約や協定では、二枚舌を使うことを嫌い、諸都市からも信頼されていたという。他国であっても、キュロスほど多くの人々に愛された人物はいないとまで褒めちぎる。まるで、多くの都市がキュロスに味方するのも当然と言わんばかりに。普通に考えれば、正統継承者に従うところであろう。血筋からしても兄が継承者となるのが自然である。だが、ペルシャ王側からキュロスの陣営に走った者は多数に上り、キュロス側を去ったものは一人もいなかったと記している。ただ、キュロスは、スパルタ側に肩入れして、アテナイとの対立に積極的に協力した人物と目されていたとも記される。つまり、キュロスはアテナイの天敵とも言える。
当時のアテナイがペロポネソス戦争の敗戦の後遺症を負っていたのは想像に易い。それは、勝利したスパルタ側も含めて全ギリシャに戦争の傷を残していただろう。ギリシャ全土をもってしても、ペルシャの命令に逆らう国力はなかっただろう。言い換えれば、ペルシャの後継者争いが、ギリシャ本土を安泰にしたとも言えるかもしれない。キュロスは、父ダレイオス王から、リュディア、大プリュギア、カッパドキアの総督を任せられ、同時にカストロス平原の総司令官に任命されていた。ギリシャに近い領土において、キュロスとそれなりに交流があったことも想像できるのだが...
ギリシャ軍はキュロスの説得で、ペルシャ王を攻めることに一旦は合意している。しかし、キュロスが死ぬと、ペルシャ王へ逆らう気はないと、あっさりと休戦協定に応じている。こうしたことを踏まえて、キュロスの人物像を美化した記述は、ペルシャ王子キュロスに味方したことへの言い訳にも思える。つまり、この書は、ギリシャ民衆に向かっての弁解の書と考えるのは、行き過ぎた解釈であろうか?

4. ソクラテスの死(疑問2)
ソクラテスは、自分の考えを著述で残さなかったために、その言行を正確に伝えるものがないと言われる。プラトンは、ソクラテスの言葉から自分の考えを著述するが、クセノポンはそのまま著述したとされるので、ソクラテスの言行が正確に再現されるとも言われるらしい。
しかし、本書は、あまりにもあっさりと記述されるところに、むしろ混乱しそうな気がする。クセノポンが従軍したいのは、指揮官や兵士としてではなく、単に古い友人にキュロスに紹介してもらうためだという。ソクラテスは、デルポイへ赴いて神意をうかがうように忠告する。ソクラテスは、クセノポンの従軍に反対していたようだ。だが、神託があったというなら否定することもできない。
クセノポンは、プラトンと同年輩と推測されるらしいが、その交友関係は分からない。いずれにせよ、両者の人生観にソクラテスが大きな影響を与えたのは間違いないだろう。
ところで、ソクラテスの死については、矛盾しているような気がしてならない。プラトン著「ソクラテスの弁明」によると、国家の信じる神々を無視して新たな信仰を持ち出し、青年を腐敗させた罪で死刑宣告を受けたことになっている。つまり、ギリシャ人に裁かれて処刑されたのかと。しかし、本物語では、指揮官として従軍したソクラテスは、ティッサペルネスに捕まって処刑されたことになっている。享年30代半ば。捕まった指揮官全員が処刑されたかは定かではないが、ペルシャ王への反逆罪としてペルシャ側に裁かれたような印象を受ける。無理やり辻褄を合わせるならば、後にギリシャへ帰還できたとして、ペロポネソス戦争の敗北や、その後のペルシャに敗北したことに対して、軍人として戦争責任を負ったと解釈することもできるかもしれない。
プラトンのソクラテス伝は、彼を崇めるための行き過ぎた創作なのか?確かに、ソクラテス伝については、クセノポンは哲学者として理解が浅いと評される場合もあれば、プラトンは自分の考えが強すぎると評される場合もある。偉大な哲学者の死に相応しいという意味では、プラトン説に軍配が上がるのだろうが...

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