2026-01-25

"イブの迷宮(上/下)" James Rollins 著

ジェームズ・ロリンズのシグマフォースシリーズに触れるのは、11 作目。このシリーズの作品番号は 0 から数えるので 10 番目ということになる。最初の邦訳版が刊行されたのが、2005年!20年かけてようやく追いついてきたか...
最先端の科学と古代から語り継がれる歴史を融合させる手腕は相変わらず。翻訳者桑田健(竹書房)との相性も相変わらず。そして、徹夜明けのブラックコーヒーも。今日も仕事にならんことも...

原題 "The Bone Labyrinth"...
Bone とは、アダムのものか、イブのものか。いずれにせよ、ホモ・サピエンスの祖先を巡る旅へといざなう。つまりは、人類の知能の起源を辿る旅へ...
意識という現象は、どのように説明できるだろうか。サピエンスは、ラテン語で「賢い」という意味。ヒト属で現存する唯一の種は、地球上で最も支配的な存在となった。言語能力は知能のバロメータとなり、人間が編み出した学術的論理は、生存競争の勝者を正統化する。小才の利く者が集団の中でうまく立ち回り、人が好く、愚直なだけが取り柄の者は踏み台とされる。これが、賢い種の社会か!狡猾な者が勝ち組となる論理は、市場経済や軍事においても実証済みときた。

人類の脳の発達過程は、約二十万年前のホモ・サピエンスの出現まで遡ることができよう。しかし、約五万年前に突然、武器や道具などの創意工夫、芸術や音楽といった嗜好が生まれ、文明なるものが出現した。脳の大きさや形は、それよりずっと昔からほぼ同じだったにもかかわらず。いや、過去一万年の間に脳のサイズは、むしろ 15% ほど縮小しているらしい。人類は、半導体のように集積度を上げ、よりコンパクトで合理的な構造を獲得しようとしているのか。人類学者は、この進化的な突然変異を「大躍進」と呼ぶ...

「知能の物差しとは変わることのできる能力だ。」
... アルバート・アインシュタイン

本書のテーマは、古代に生じた大躍進の原因を探求し、さらに第二の大躍進が生じる可能性を模索しようというもの。それは、なにが人間たらしめるか、を問うことに要約できる。
物語は、ネアンデルタール人やヒト科の亜種との交雑に始まり、遺伝子の組み換え技術に至る。どちらが亜種かは別としても、人間のゲノムにはネアンデルタール人や複数のヒト科絶滅種のゲノムが含まれていることが、科学的に判明しているという。なるほど、乱交パーティ遺伝子は現代人にも組み込まれていると見える。
ちなみに、チベット族が高地でも生活できるのは、デニソワ人という絶滅種の遺伝子のおかげだとか...

「知能とは進化における偶然の産物であって、必ずしも優位とは限らない。」
... アイザック・アシモフ

生物学には、「雑種強勢」という用語がある。それは、二つの異なる種が交わると、生まれた子供はどちらの親の種よりも形質的に強い特徴を持つというもの。例えば、メスの馬とオスのロバの間に生まれるラバは、空間的知能が馬やロバよりも優れているのだとか。
それで、人類とネアンデルタール人との間に、どんな雑種強勢がもたらされたというのか。ネアンデルタール人は、単なる原始的な穴居人ではない。ある研究によると、虫歯の痛み止めに、鎮痛効果のあるサリチル酸を含む植物や天然の抗生物質であるアオカビを口にしたことが報告されているという。食人の習慣があったことも...

遺伝子の良いとこ取りとくれば、生命体そのものがまるで遺伝子の方舟!
DNA の欠片さえあれば、人間はクローンを創るだろう。いつか必ず!生殖細胞レベルでの制御はドーピング問題も意味をなくすだろうし、放射能下でも生きられる遺伝子までも求めるだろう。
古くから人間は、象や猛獣を兵器とし、ネズミのような小動物を病原菌をばらまく兵器に利用してきた。バイオテクノロジーによる軍拡競争は激化するばかりで、はるかに凶暴な種を創り出しては軍事利用するやもしれん。絶滅種を対象とすれば、ジェラシック・ワールドも現実味を帯びる。そして、遠い昔の偉人たちが蘇るとすれば...

人間の好奇心は、ことのほか手ごわい。純粋な好奇心は、いずれ脂ぎった欲望と結びつく。人間は、自ら編み出した技術によって人間自身をどこへ導こうというのか。進化の歴史は、単純な右肩上がりではなさそうだ。何事も進化の過程には、退化の時期も必要なのであろう。自省の意識を植え付けるためにも... 自浄遺伝子を育むためにも...

「ここに眠りしはアダムの骨、人類の父。永遠(とわ)の眠りを妨げることなきよう祈る... さもなくば、世界は終わりを迎えるだろう。」

2026-01-18

人生という名の雑用...

人生とは、それほど大層なものなのか。雑用に負われる日々を思えば、くだらない疑問に憑かれる。
「この世に雑用なんてものはない。雑な仕事があるだけだ!」とは、誰の言葉であったか。自由なんてものは高等過ぎて、いざ与えられても、何をやっていいのか、よう分からん。才ある者は、雑用までも喜びにしちまうのであろう。雑用はなるべくあったほうがいい。なくしちまうと退屈病に襲われ、痩せ細っちまう...

大人どもは、いつも文句を垂れる。具体的に示せ!と。誰かに当たる性癖は依存症の表れ。政治家に当たってはお前のやり方が悪いと憤慨し、道徳家に当たっては空想論もいい加減にしろと糾弾し、教育家に当たってはお前のしつけが悪いと誹謗中傷を喰らわせ、芸術家に当たっては人類を救え!などとふっかける。

巷にはハウツー本が溢れ、ノウハウセミナーはいつも大盛況。恋愛レシピから幸福術、あるいは人生攻略法に至るまで。移り気の激しい凡人は、洪水のごとく押し寄せる流行りの知識に右往左往するばかり。仕舞には消化不良でゲロを吐き、もっと分かりやすくしろ!と文句を垂れる。

一方、才能豊かな連中ときたら、哲学者の曖昧な言葉を金言にしてやがる。何をヒントにするかは自由と言わんばかりに...
これほど無意識の領域が広大だというのに、なにゆえ自由なんてものが信じられるのか。真の自由なんぞ、この世にありゃしない。あるのは自己満足感だけだ。人生に意味や目的があるのかは知らん。それを求めてやまないのは人生に意味があると信じ、自己存在感を噛み締めたいだけだ。自分の人生が無駄ではないと...

真理を求めるのは、それがないと生きられないからではない。盲目感に耐えられないだけだ。正義感に操られては非難癖がつき、倫理感に憑かれては意地悪癖がつき、理性や知性までもうっぷん晴らしの手先となる。自由に生きるよりも、人のせいにし、社会のせいにし、神のせいにしながら生きる方がはるかに楽ってもんよ。

すべては自己の正当化!凡庸な、いや凡庸未満の酔いどれ天の邪鬼ごときが、自由が欲しい!と大声で叫んでいる間も、才能豊かな連中は静かに自由を謳歌してやがる。どう足掻いても奴隷に成り下がるのであれば、そこから逃げだすさ。どうせ人生なんてものは、雑用よ!

2026-01-11

自己肯定には嘘が欠かせない... 自己責任にも逃げ道がなくっちゃ...

巷では、自己肯定感ってやつがもてはやされる。自己肯定に縋らないと生きて行けないのなら、人生は辛い。実際、こんな感覚は他人否定によって支えられている。
巷では、自己責任論が渦巻く。自己に責任を持てる人間がどれほどいるというのか。既に、こんな言葉はお前が悪いという意味で使われている。

自己を知るには勇気がいる。自ら演じた醜態を遠近法で眺め、羞恥心と距離を置けば、どちらが本当の自分やら。自己肯定感に嘘は欠かせない。自己陶酔に自己泥酔、自己欺瞞に自己肥大、おまけに、自己嫌悪に自己否定とくれば、自我を失うのも容易い。これで自己責任論を免れ、めでたしめでたし!

自己責任ってなんだ。本当に自分に課したものなのか。自己を見つめずして、自己責任もあるまい。それは、何かに依存している自分を受け入れてこそ成り立つ。自己責任を明確にするために、説明責任を自己に課す。そんなことをしても、精神の縄張りを確認するだけ。そう片意地はらんと、自己責任にも逃げ道がなくっちゃ...

誰もが参加できる自由な形態にも、自己責任論が渦巻く。メーリングリストで「コーディング規約に従っていないので修正するように...」などと指摘された日にゃ... 指摘する側が自発的なら、指摘される側も自発的なだけに恥ずかしい思いをする。誰もが自由に参加できる!というのは、実はハードルが高い。実は、権威主義的な監視よりも民主主義的な抑圧の方が、はるかに厳しいのやもしれん。分散型リポジトリとは、自己責任型を言うのか。
確かに、自由な活動は自己肯定感をそそる。これを自己責任で背負うなら、ここにも逃げ道がなくっちゃ...

2026-01-04

すべては神のせい!神様はズボラでなくっちゃ...

不運な境遇を神のせいにすれば、救われるだろうか。重い病を神のせいにするのと運命論で片付けるのとでは、どちらが楽になれるだろうか...

一方で、幸運な出来事には、誰はばかることなく自分の力だ!と断言できる。なんとおめでたいことか。しかし、そうでも考えないと、生きてゆくのは難しい。やはり人間には、神が必要なようだ。しかも、沈黙しておられる。なんて都合のよい存在であろう。神の声が聞こえると主張する者にとっても、神を信じない者にとっても...
神という存在は、迷い心から生じるのか。いや、迷い心を鎮めてくれるものなら、なんでもあり。悪魔の囁きにも耳を傾け、無神論者にもなるさ...

宇宙の摂理は完全かもしれないが、人間が知りうる摂理は不完全ときた!
古代の哲学者たちは、そのことに思いを馳せ、人間は人間自身を知りうるか?と問い続けた。プラトンが、人間は羽のない二本足の動物である... と定義した時、それで人間の正体を確信したわけではあるまい。アリストテレスが、人間は社会的動物である... と定義した時、それで人間社会の実体を確信したわけではあるまい。パスカルが、人間は考える葦である... と定義した時、それで人間の存在意義を確信したわけではあるまい。言葉でうまく説明できないからといって、それをまったく知りえないということにもなるまいが...

デモクリトスが、原子論を唱えた時、そこに実存と空虚の対立を見る。存在認識とは、虚像との対置において成り立つものであろうか。精神や魂も、理性や真理も、徳や正義も、そして、神も...
神が不敬虔者を罰するなら、神にも悪意があるに違いない。神が不完全なら、人間にとっても親近感がわくし、信じる気にもなれる。神様はズボラでなくっちゃ!