2007-04-22

"グーグル・アマゾン化する社会" 森健 著

本書は、Web2.0を情報化、多様化が進む社会現象と結びつけ、経済界、自然界、あるいは心理学的にアプローチしたものであり、なかなか興味深く読めるのである。
情報化、多様化が進む社会において、Web2.0的企業は果たして偶発的なものなのか?情報化、多様化が進むと、逆に一極集中する現象が起きるのはなぜか?現在の社会が、格差社会を助長させるのではないか?という問いに対して話が展開する。Web2.0をユーザ参加型という世間の論調があるが、まさしくユーザ依存型であると定義している。

まずは、Web2.0的企業としてアマゾンとグーグルが紹介される。
アマゾンと言えば、ロングテール戦略で成功した企業として真っ先に名前が挙がる。売上の3分の1は、売上順位15万位以下の"死に筋"商品から成り立っている。これは、商品の展示コストを限りなく0にすることで実現できる。
グーグルと言えば、真っ先に検索エンジンが思い浮かぶ。その主力技術である検索連動広告の「アドワ-ズ」と「アドセンス」を紹介している。前者は検索キーワードに連動した広告表示、後者はブログに含まれる文字と関連キーワードに連動した広告配信、そして多数の小額広告料により収入を巨大化する。
双方とも巨大なデータベースを武器に、アマゾンは誘導的に、グーグルは半強制的にユーザのWeb活動を取り込むことに成功している様が語られる。

情報化、多様化が進むと、結果として一極集中が招かれるのはなぜだろう?
ロングテールを美化する世間の論調があるが、実際にWebを利用した小売で生き残れるのは、在庫スケールをもつトップ企業だけである。つまるところ物量作戦の恩恵である。
こうした現象は、Web業界だけにとどまらず、金融、経済、政治にも顕著に現れる。本書では、社会現象の例としてミリオンセラーの発生頻度を挙げている。映画の劇場総動員数、音楽CD、書籍などは、産業としては下降状況にあるにも関わらずミリオンセラーは、かつてない勢いで登場するようだ。これも多様化から一極集中で勝ち組みを助長する現象であるという。
インターネットは分散的で各サイトはフラットに存在する。しかし、人が集まるサイトは分野別に固定化され一極集中が起きる。「群集の叡智論」で多くの人が意見を述べ、集団でまとめられる意見が最適な解であるならば、理想的な社会へ向かっていると言えよう。これはグーグルの理念とも一致する。ただ、ページランクの主旨はリンクが多ければ重要度が高い、という解釈は真理だろうか?

複雑系とネットワーク理論における「スケールフリー・ネットワーク」現象について科学している。
「六次の隔たり」という仮説は、おもしろいので記しておこう。
どんな人でも6人も介せば世界中の誰とでもつながる。
社会学者スタンレー・ミルグラム博士が唱えた説である。
例えば、一人に50人の知り合いが居るとすると、それぞれ50人の知り合いが2500人となる。これを5回続ける6人目に至るときは150億人を超え、かるく世界人口を上回る。
本書は、このネットワークはランダムネットワークではないと指摘する。
「人の知り合いも特に要職にあるものなど顔の広い中心人物を介する。神経細胞ネットワークも、ニューロンは局所的に集中してつながる部分とそうでない部分がある。物流におけるハブ空港やハブ港からインターネットのアクセス網に至るまで。こういった仕組みは自立成長を成す。また、効率的観点から優先的選択が起きる。」
産業分野では、先行者利益や、一番でないと意味がない、という物言いがある。これも「スケールフリー・ネットワーク」がもたらす現象だと述べている。
しかし、グーグルは後発参入組みではないか。YouTubeや、mixiも。
これに対する答えは、以下のように述べている。
「後からでも結節点に適応性があれば、優先的選択が起きてハブができる。適応性とは、利便性、操作性、技術、コストなどで、イノベーシュンにより参入する余地である。」

Web2.0時代の特徴としてオープンソースが語られる。
「Webサーバの3分の2を占めるApacheはオープンソースである。サーバ構築で最もよく用いられるLAMP(Linux, Apache, MySQL, PHP)は全てオープンソースである。こうした流れは、企業の知的財産保護に真逆にある。」
オープンソースのコミュニティにはボランティア精神が受け継がれる。知的挑戦を目的とした真の研究者の財産と言えよう。こういうコミュニティに参加できるということは、それだけの技術レベルを持った証拠であり、金銭的な報酬がなくても精神的に満足できる。ただ、こうした財産を武器に巨大なマーケットを手中に治める企業が現れるのも事実である。

「金持ちほどますます金持ちになる現象」について群集心理を分析している。
最初は支持者が少なくても、ある限界点を超えると突然殺到する様を、従来のマーケッティング例や、心理学から弁明している。ある限界点を過ぎると、下降せず一定の力を持ちつづけるともある。つまり、富を持つ者は増やし続けられ、富を持たざる者はいつまでも持てないという真理である。日本でも格差社会と言われはじめているが、加速するまでの臨界点にきているのかもしれない。

パーソナライゼーションは一見、個性、多様性の重視として持てはやされているが、その危険性についても語られる。
パーソナライゼーションは、過去の行動履歴をコンピュータが記憶するという手段で実現される。行動履歴とは、意味を持つ言葉としての最小単位である単語を累積することである。
「最小単位の単語は、サイエンスが万物を極限まで分類する性格からしても合理的な流れである。しかし、顧客のマーケッティングに有効な情報が得られる一方で、完全に個人の世界が出来上がる。結局親しみのある連中の世界が形成され、類は友を呼ぶ現象となる。」
集団分極化が進むと考えが異なる別の集団の意見を排除し、同じ集団で考えが極端に偏る傾向を指摘している。集団分極化は、むしろ情報を任意に取得しコントロールできる空間に発生しやすいという。人間は心地よい意見を多く聞きたいものである。特に社会不安に直面すると顕著である。世界でナショナリズムが進む傾向もこれに似た現象と捉えている。このあたりは、SNSが勢いを増す現象と照らして、その典型であるmixiを攻撃しているがごとく語られている。

本書は「一極集中化が進む社会にあって、いかに多様性や異質性を汲み上げるかが問題であり、その問題を踏まえた上で主体的志向を貫けるか、群集の叡智は真価を問われている時代である。」と締めくくる。
読んでいて、昔から持っている疑問を思い出す。自分自身に主体はあるか?
自分の意見を主張しているつもりでも情報操作がなされ、その罠に自分自身が嵌っているのではないか。更に、それすら気づかないでいるのではないか。という仮説である。
科学者ならば、発明することにより実感できるかもしれない。しかし、それも人間の進化の過程でたまたまその人に巡ってきた幸運かもしれない。
自動的に特定方向に誘導していくパーソナライゼーションは専門性を高めるが情報ベクトルは狭められる。個人の自主的選択とは、実は強大な力に屈しているだけかもしれない。主体性があるかどうかも把握できないのに、主体性を主張しているかのように錯覚しているだけかもしれない。Web2.0は、それを後押しするツールなのかもしれない。
今日のインターネットを中心とした情報化社会における利便性は高く評価できる。ここでで述べられる社会現象は、良い社会へ進むための過渡期なのかもしれないし、悪い社会への前兆なのかもしれない。
アル中ハイマーは、自分の意見に酔っていると主張するが、実は酒に酔っているだけかもしれない。そして、遠隔操作され、いつのまにか夜の社交場に居ることはよくある。
更に、お姉さんに意見操作され、いつのまにか朝まで飲んでいる。
こうなると自分自身はどこに存在するのかも疑わしい。
ついに、アル中ハイマーは酒樽の中に存在すると主張する有様である。

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