2007-07-01

"絞首台からのレポート" ユリウス・フチーク 著

久しぶりに本棚を整理していると、読んだ覚えのない本をたくさん見つけた。本書もその一つである。見つけた場所からして、多分20年ぐらい前に読んだのだろう。一度読んだ本を読み返すなど専門書でもない限り絶対にやらなかったことであるが、気まぐれはよくある。読んだ本を思い出せないとは、なんのための読書かわからない。時々昔の本を読み返してみることにしよう。その時期感じた感覚とは違う発見があるかもしれない。なかなかおもしろそうだ。このような気分になれたのもブログ効果かもしれない。自分の書いたブログも後に読み返せる日がくるのを楽しみにするのである。

著者フチークはチェコのジャーナリストで、ナチス占領下のプラハで政治犯とて捕らえられた。彼は、すさまじい拷問に耐え目前の死に向かいつつも抵抗の記録を書き遺した。本書は、歴史的には政治文書として評価されてきたようだが、アル中ハイマーにはなかなかの文学作品である。まるで詩のようなさわりが、あちこちにちりばめられている。そして、個人の描写が勝っていて政治色などあまり感じられない。
前書きに、ゲシュタポが使っていた屋内拘禁室を「映画館」と、誰が名づけたかわからないが、その中で、著者は「私の生涯の映画を百回も観た」と表現している。アル中ハイマーは、人間の生涯とは映画を観るようなものと語られる、この表現が好きである。
これほどの書物を、一度は読んでいるはずなのに覚えていないとは、アル中ハイマー病に犯されているとはいえショックを受けるのである。

アル中ハイマーは、チェコという国に昔から少々興味があり、一度訪れてみたいと思っている。チェコの作曲家ドボルザークの交響曲「新世界より」は、小学生の頃始めて買ってもらったレコードである。また、リディツェ村の話を知ったのが中学生の頃である。ナチス占領下、ラインハルト・ハイドリッヒ暗殺の代償として、リディツェ村の住民を老若男女問わず殺害され村の存在そのもが抹殺される。そして、戦後リディツェと名のる町があちこちに登場する。ハイドリッヒ襲撃事件については本書でも一瞬だけ触れられる。

本書は、まず尋問に抵抗して拷問されている様を描写する。
まだ自分が死ねないことを母親に丈夫に産んでくれたことを嘆いたり、逆に、限りなく遠いところから愛撫のように気持ちよく、やさしい落ち着いた声が聞こえてくる。など、もうろうとした意識、幻想的な感覚といった、夢でも見ているかのような生々しい表現が続く。また、自分自身の危機に対する描写だけではない。周りの人間が死んでいく様も描いている。自分の人生が無駄ではなかったことを自身で励ますかのように、そして、その終わりを台無しにするようなことはしたくないという誇りと意地を張る様子が語られる。

アル中ハイマーには文学的センスが全くないので文章テクニックはわからないが、本書はいたるところに文学的表現がちりばめられ心を穏やかにしてくれる。その例を一つ紹介しよう。下記は拷問に耐えぬいて、やや気力が戻った時の様子を表現している。ちょっと長いが気に入ったのでそのまま引用する。
「復活とはいささか奇妙な現象である。名状しがたいほど奇妙な現象である。よく眠ったあとの晴れた日、世界は魅力的である。ところが、復活の日には、まるでその日がかつて一度もなかったほどよく晴れわたり、またかつて一度もなかったほどよく眠ったような感じがするものである。あなたは人生の舞台をよく知っているような気がしているかもしれない。ところが復活というのは、まるで照明係りがすべての照明灯に明るいレンズをはめ、あなたの目の前に完全照明の舞台を一度に現出させたようなものである。あなたは自分で目がよく見える、と思っているかもしれない。ところが、復活はまるであなたが望遠鏡を当て、同時にその上に顕微鏡を重ねたようなものである。復活とは春さながらの現象で、ごくありふれた環境にも、思いもかけぬ魅力がひそんでいることを春さながらに見せてくれるのである。」

戦時中の囚人の気持ちとはどういうものなのだろうか?そこには、ゲシュタポに逮捕された時点で死を覚悟しているとあるが、希望と絶望の繰り返しの様がうかがえる。ファシズムの死と自分の死のどちらが先か?こうした忍耐競争が世界中で問われたことだろう。また、ファシズムが死ぬまでに、まだ何十万という人の犠牲が必要であることも覚悟しなければならない時代である。そもそも彼らが捕まった理由など何もない。ハイドリッヒ襲撃事件に触れているところで、おもしろいことに、事件が起きる二日前に検挙された人々の罪状が、ハイドリッヒ暗殺に荷担したというのである。処刑するのに理由はいらない。殺す人間のことなど調べる手間が無駄である。目的は民族の抹殺である。そうした時代にあっても人間は希望的観測がつきまとう。戦争の終わる時期について、バラ色の観測が毎週のように生まれる様が語られる。人々はそれを信じる。ここで、もう一つ文章表現に目が留まった。
「人生は短い。それでいてここではあなたは、その人生の一日一日がはやく、よりはやく、この上もなくはやく過ぎ去ることを強く願っているのである。あなたの寿命を刻一刻ちぢめている。生きて帰らぬ時、とらえがたい時が、ここではあなたの味方なのである。なんと奇妙なことだろう。」
本書は人間観察についても鋭い。それは囚人仲間はもちろん、看守から刑務所長に及ぶ。信念を持ちつづける者。裏切る者。ドイツ人看守の間の友情を、互いに監視しあい、互いに密告しあう緊張感のあるものとして描いている。密告により地位を確立する者もいるが、その密告の信憑性など一体誰が調べるものか。陰謀は渦巻く。

本書を読んでいる時、途中で数々の疑問がわいてくる。
死への恐怖から、正気を取り戻すために、記録を遺したのかもしれない。
迫りくる死に向かって遺せる文章とは?
拷問に耐えられず裏切る者もいる。それなのに政治的信念とは何か?
自分自身が死んでいるのか?生きているのか?わからない局面の心理とは?
かすかな痛みと喉の渇きのようなものが、生きていることを実感できる状態とは?そのような極限状態で、抵抗しつづけるとは?
誇りを持ち続けるということは?
しかし、アル中ハイマーはいつのまにか答えを出すことを放棄している。せっかくの文学作品に理屈などいらない。いつのまにか、そうした心持で読んでいる。

本書が世に出回ることができたのは、監房に紙と鉛筆を持ち込み、書いている間ずっと見張りをし、原稿を獄外へ持ち出した看守がいるからである。本書では、その看守の様も語られる。最初、ドイツ人看守が紙と鉛筆を持ってきた時は、話がうま過ぎて信用できなかったとある。その看守は、ドイツ人と名乗っているが実はチェコ人であった。後書きには、この原稿がゲシュタポの家宅捜索から逃れた様を解説してくれる。

それにしても、昔読んでいるはずの本の記憶が全くないというのは幸せにしてくれることもある。自分の本棚が新鮮に見えるのである。今、更におもしろそうな本が埋もれていないか探している。宝はアマゾンの中だけにあるのではない。灯台もと暗しである。本棚を眺めているだけで一杯やれるとは、のどかな一日である。

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