2007-07-29

"世論(上/下)" Walter Lippmann 著

今日は選挙である。所詮参議院であるが既に期日前投票に行っている。
アル中ハイマーにもまだ社会的インセンティブが働くようだ。
投票を済ませたからには朝からベロンちゃんである。
アル中ハイマーには既に道徳的インセンティブは働かないようだ。
ブログの記事もそれらしいものを選びたい。と思っているとちょうど良い本を見つけた。既に読んだ本を読み返すのも経費の節約になる。
アル中ハイマーの経済的インセンティブは健在のようだ。
本書は本棚奥深く眠っていた。読んだ記憶が薄っすらとある。ちょうど読み返したいと思っていた名著である。読んだのは社会人になったばかりの頃だ。
現在16進数で20代だから。。。なーんだ!5年ぐらい前のことかあ!尚、年齢表記にはアルファベットを要する。

本書の冒頭には、執筆した動機は第一次大戦後の混乱を解明することにあったとある。いかにも、アル中ハイマーが喰いつきそうな台詞である。「世論」は1922年に刊行された歴史的な名著古典と言われるだけあって当時の洞察力には感心させられる。分類すると社会学になるのだろうが、心理学の面かもら考察され、時には歴史を感じ、哲学にも通ずる。何よりも凄いところは、現代に照らし合わせてもまったく違和感がない。世論を動かす情報のあり方や民主主義の特性などがよく描かれている。リップマンが将来予測をしていたかどうかはわからないが、今生きていたら自画自賛していたことだろう。本書のように昔から名著として読まれつづけているものは真理を語っているからであろう。古典に親しむのもなかなかおもしろい。有名な本だけに、著名なジャーナリストや社会学者、政治家が読んだことだろう。その結果できたものが、今の情報社会であり政治社会ということかあ。なんとも皮肉に思えて酔っ払いには理解できない世界である。本書の内容を記事にまとめるのは至難の業である。重たい本だからである。しかし、記事にしてみると意外とシンプルになってしまった。そもそもアル中ハイマーに重たいものを記憶できようはずもない。
では、少し酔いが覚めたところで気まぐれで章立ててみよう。

1. 擬似環境
本書は、人の行動と心理のメカニズムを「擬似環境」という言葉で関連付けている。それは、事実から乖離したイメージ環境のようなものを作り上げるということである。世界の出来事などは、情報の時間差もあれば、発信者の主観が入り込むなどの要因から擬似環境が生じる。人の行動は、この擬似環境に影響を受けるが、現実との乖離が大きいほど矛盾が生じる。人間が物事をイメージする際、見て定義するのではなく、定義してから見ると語られるあたりは、説得力のある考察だと感心する。人間は、体験から虚構な世界を作りあげる性質があるのだろう。おいらのような馬鹿には、まず情報を解読する前に下準備が必要である。即座に反応できないからである。その時点ですでに虚構の世界をさまよっている。人間は単純な性質を好む。ほとんどの事柄について自己分析した結果、単純にモデル化してしまいがちである。

2. ステレオオタイプ
人間がイメージをつくる際、ある種の固定概念によってイメージが左右されることはよくあることだ。こうした状況を社会学ではステレオタイプと呼ぶ。多くの人々が、同じ考えや態度や見方を共有している状態になり、ある種の紋切型態度をとってしまう。この固定概念が擬似環境と結びついて、都合の良い情報を取り入れたり偏見が生じるといった、世論が加速する状態を生み出す。世論はステレオタイプに初めから汚染されているものと考える必要がありそうだ。しかし、ステレオタイプは政治情報の乏しい一般人にとって時間を節約してくれる役目もある。盲目とは、時間を節約して気楽に酔っ払えることを意味している。本書は、このような特性を古い世代の経済学者によって無邪気に規格化されてきたと、当時の経済神話を語ってくれる。また、歴史上の考察もおもしろい。歴史上の善悪を語ったものに、過去を客観的に考察しているものはほとんどないと述べている。民族間で起きた揉め事が感情的に言い伝えられるのは、時間観をご都合主義にしている典型であろう。当時の出来事を今の道徳観で裁定することはよく見かける。もしアル中ハイマーに、歴史上の条件がそのまま降りかかったとしたら、果たして当時の人間の行為を批判できるような行動を取れるだろうか?仮に最新鋭の道徳観で武装していたとしてもである。

3. 民主主義
本書は、当時の民主主義のあり方や風潮を語ってくれる。当時は、人々が公共の事柄について有効な意見をもっていなければならないという夢物語のような社会が弁じられていた様が語られる。民主主義者たちは、報道界こそ、こうした補完機能を持つものだと信じていたようだが今と変わっていない。
著者曰く。
「私は主張したい。政治とふつう呼ばれているものにおいても、あるいは産業と呼ばれるものにおいても、選出基盤のいかんによらず、決定を下すべき人々に、見えない諸事実をはっきり認識させることのできる独立した専門組織がなければ、代議制に基づく統治形態がうまく機能することは不可能である。」
当時のジャーナリズムは、適切な世論作りには不完全であり、むしろ健全性が損なわれていると攻撃している。果たしてマスコミが第三者機関になりうるだろうか?現在もまた、自己主張を煽り、正義の味方を気取るマスコミや評論家連中がいるように感じるのは、きっとアル中ハイマーが世の中に悪酔いしているからに違いない。

4. 結び
著者は、本書の結びの章で、世論の発生がいかに政治や社会を正常化する方向に結び付けられるか、数々の問題に対する結びとして最後に何を語るべきか、について悩んだ様を語ってくれる。アル中ハイマーも、これほどの重たい本の結末をどう処理するか期待していたところである。いろいろとネタを用意していたようだが、結局「理性」に訴えるしかない。と片付けている。最も単純で最も難しい結論に達しているように思える。確かに、真の政治家や指導者というものが判別できれば、理性という言葉には説得力がある。しかし、その判別は所詮無理であろう。本書も政治に理性を求めるのは不可能であると悲観的見解を述べている。と同時に、希望を持つべきであると励ましているかのようにも思える。思ったより簡単に片付けられているのは拍子抜けである。しかし、これだけ重たい文献に対して、「理性」の一言をぶつけるあたりは、逆に本書の価値を高めているように思える。生物遺伝子は突然変異するものである。現在が悲観的だからといっても、もしかしたら人間が突然変異し楽観的な結論に達するかもしれない。コクのあるスコッチも酒樽で長く眠っている間に熟成される。社会だって熟成されて突然変異する可能性だってないとは言えない。

最後に、題目「世論」について、酔っ払いの見解も語らずにはいられない。そもそも世論はどうやって発生するのだろう。人間は、あらゆるものに興味を持つ。退屈しない生活を求めるのである。意外性があってはじめてニュースの価値が上がる。よって、世論が盛り上がるのも、その変化に富んだものに向けられ、慣れ親しむと廃れてしまう。世論が維持される期間は極めて短いのである。政治家やマスコミが正義感たっぷりに主張する時、例外なく主語に「国民は」という言葉を添える。まあ、国民という言葉は幅広いし、議員や、マスコミも国民であることに間違いはない。ここで、ジャーナリズムの本質について語っていると思われる個所があったので付け加えておく。
「ニュースのはたらきは、一つの事件の存在を合図することである。真実のはたらきは、そこに隠される諸事実に光をあて、相互に関連付け、人々がそれを拠り所にして行動できるような現実の世界を描き出すことである。これらが一体化した時、世論の力が発揮される。」
健全な世論の形成はありうるだろうか?一つは子供の頃からの教育にかかっている。ということは、大人では変化できないということか。いつのまにか本書と同じ悲観論に達している。
ということで結論は、世論は擬似環境に左右されつつ、あっちの店が良いか、こっちの店が良いか揺れ動く。千鳥足でさまよった挙句、虚しく帰路につく。目が覚めると記憶が辿れない。そこには、携帯番号付きの妙な名刺が目の前に散りばめられている。こうして擬似環境は忘れられていく運命にある。

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