2007-12-14

"日本マスコミ「臆病」の構造" Benjamin Fulford 著

電車で移動中、暇つぶしにキオスクで買った本である。著者は20年間日本に滞在し外国人の目で日本を観察してきたジャーナリストである。アル中ハイマーは、昔、著者の本を読んだ記憶がなんとなくある。外国人にしてはなかなかの観察力だと感心したような気がする。そう言えばテレビで見かけなくなったなあ。著者は、政、官、業、ヤクザの「鉄の四角形」が日本の支配構造であると指摘する。そして、日本社会では書けないタブーが驚くほど多いと語る。本書はもともと単行本で発刊されたらしい。新たに文庫化してくれるのは移動中に読むのにありがたい。

本書は、マスコミの報道姿勢から日本人の特徴をよく観察している。9.11テロ報道は米国内においてさえその硬直ぶりを露呈した。そんな中、日本のマスコミも米国の統治下になったと語る。バブル崩壊後の経済不況の長期化にもマスコミの責任があるだろう。形式的な経済政策批判を続けたおかげで、政、官、業、ヤクザの癒着はより強固になった語る。誰一人として良いとは思わない記者クラブの制度についても疑問を呈してる点は注目したい。また、情報ソースの信頼できる順には考えさせられるものがある。外国人記者にとって、最も信用できるものは右翼の街宣車。続いて雑誌やタブロイド版夕刊紙。最大の嘘つきはメディアの本流をいく大新聞であるという。これは一般的な日本人の感覚からは逆の順ではないだろうか。おいらは、右翼の街宣車が駅前の銀行でぶちまけているのを、おもしろくて小一時間聞き入ったりする。ただ、大新聞が信頼できないのはわかるが、雑誌を馬鹿にしていたアル中ハイマーには衝撃である。今宵は悪い酒を飲んだせいか、思いっきり愚痴りたい。この季節は寒さが寂しさを助長するのである。

1. マスコミの構造
本書は、マスコミの情報ルートを解明してくれる。例えば、住専問題で、国会が何十億ドルもの税金を投じながら、住専から借りたまま返さない多くの暴力団を無罪放免している。日本の新聞はこれを全て知っていながら絶対に触れない。当時、右翼の街宣車が財務省を取り囲み、政治家の実名を叫んだ。このような事例は山のように挙げられるという。日本が民主主義国家とは言えないことはうすうす気づいているが、もはや法治国家であることも疑わしい。情報力だけを比較すると、最強の報道機関は、NHK、朝日、読売を筆頭とする新聞社であるという。やや矛盾しているようだが、仕掛けはこうだ。規模と取材体制が最も充実していても縛りがきつい。だから、彼らは絶対に書けない記事を、しばしば雑誌にリークする。それだけではない。政治家や官僚に、雑誌の動きをしっかりリークする。これはダブルスパイである。最後の駆け込み寺が、外国メディアかインターネットになる。皇室報道に至っては、情報に詳しいのは宮内庁記者クラブだけである。彼らはそれを書けないため週刊誌にリークする。週刊誌でも書けない内容は海外の新聞にリークする。英語の記事が出ると、それを後追いする。発信源である新聞が、わざとらしい調子で海外で言っているんだから間違いないだろうと報道する。新聞と週刊誌と海外メディアの共犯で成り立つこのシステムの歴史は古いらしい。そもそも海外のマスコミが皇室情報を得ることが難しいことは、素人でもわかりそうなものである。このような海外メディアが日本の記者の駆け込み寺になっているケースはたくさんあるようだ。他のメディアに代弁させるような手法は卑怯である。

2. 企業報道
日本の企業情報は、投資情報としてもニーズは高い。しかし、時折メディアにとって、企業記事は最大のタブーとなることもあるという。経済記事は、事実関係も大切であるが、優先順位がが最も重要である。素人が見てもスポンサーには逆らえない構図は想像がつく。金融機関の最大のスポンサーは政府であろう。破綻すれば公的資金が流れるようになっているからである。しかし、政府のスポンサーは国民であることは、しばしば忘れがちのようだ。本書は、宣伝部と編集部は物理的に距離を置くのが出版社としての常識であると語る。当然だろう。ところが、日本では宣伝部が編集部に口を出すのが当たり前なのだそうだ。よほど正義感の強い人でなければ編集部は務まらないということか。W.リップマンは著書「世論」の中で、ジャーナリズムの本質は人間の理性にかかっていると悲観的に結論付けていた。

3. 日本人の体質
日本人の体質の恐ろしいところは、下が上をまともに監視しない。不公平、不平等に対するアンテナが鈍く、上に従うという体質が恐ろしく根強いと語る。実に頭の痛い指摘である。著者がよく言われる言葉に、「外国人だから書ける」というのがあるらしい。日本人記者には、外国人記者が知りえないような重大な数字や、それだけで政権がぶっ飛ぶくらいのインパクトのある政治家の秘密を知っているくせに、なぜ書かないのか?知っているのに書かないのは、嘘より重い罪であると語る。
日本の社会システムで最も抜けているのは監視機構である。互いにこんな悪いことをするわけがないという楽観論が根強いからである。それも悪い感覚ではないのだが、過信してはいけない。また、面倒臭いという体質もある。民主主義やら自由というのは、実は自己管理を要求される面倒なシステムである。社会保険は役所任せで、サラリーマンは税金ですら組織に管理を任せている。酷い政治にも程度があるが、その境界線を政府も国民もなんとなく理解している。こうしたバランス感覚を外国人に理解することは難しいだろう。ただ、そのバランスも壊れている。醜い程度も閾値を超えている。マスコミの攻撃的な論調は、弱い立場の人間、情報を持たない人間に対してのみ厳しい姿勢で追及する傾向にある。

4. ジャーナリストとは
ジャーナリストは本来組織ではなく個人であると語る。会社の名刺がなくなった時、私はジャーナリストですと胸を張って言える人がどれほどいるだろうか?と疑問を投げる。これはエンジニアにも言えるだろう。エンジニアは比較的会社を移動する人が多い。おいらの周りがたまたまそうなのかもしれないが、技術を磨くのに、一つの凝り固まった文化に染まるのは好ましくない。独立して個人でやっている人も多い。今年も周りに何人増えたことだろう。もし、楽しそうだと勘違いしているとしたら、きっと後悔することになるだろう。いや!勘違いではない。人生に酔っ払うのは幸せなのである。職人の世界では、大工さんのような一人親方制度というのは悪くないと思っている。ジャーナリストもある種の職人と言えるだろう。

著者の取材経験から、外国人記者には裏情報が集めやすい傾向があるという。日本のマスコミには全く対応しない人物が、英語インタビューだと応じてくるケースも少なくないらしい。これは、外国人記者がエキゾチックで珍しいからではなく、日本のマスコミに対する失望や嫌悪、不信であると語る。日本人でも日本のマスコミに不信を抱いている人は少なくない。そんな事は、ほんの少しネットサーフィンすれば伝わってくる。記者クラブというギルドを形成し、政、官、業と馴れ合い関係を持っていることは言われなくても感じる。こうしたマスコミとの癒着構造がいいわけがない。ジャーナリストの連中でさえ悪い制度だと公言している。にも関わらす廃止できないでいる。誰もが否定する制度や組織がゾンビのように君臨している例は多い。これが日本社会の現実である。マスコミの存在意義とは何だろうか?もし独立した中立機関であるとするならば、真っ先に改革すべきであろう。記者クラブでさえ解散できないような連中が、組織や個人を攻撃している姿は滑稽に見える。

0 コメント:

コメントを投稿