2007-12-08

"自壊する帝国" 佐藤優 著

「国家の罠」がまあまあおもしろかったので、ついでに本書も読んでみた。こっちの方がおもろい。前記事でも書いてが、本当は歴史の興味からラスプーチンが読みたいのだ。それも、しばらくおいておこう。アル中ハイマーは人生の道草が好きである。

本書は、著者が外交官としてソ連崩壊を目の当たりにした時の回想録である。どうやら、内容の波長と文章のリズムがアル中ハイマーには合うらしい。一晩で読見切ってしまった。出会った学生や神父、政治に関わった人々との会話や随想をまとめた一種の紀行文のようだ。おいらは、紀行文のような趣向(酒肴)を好む。どんな立派な主義主張よりも、事実をありのままに伝える方が説得力を感じるからである。また、ところどころに散りばめられた歴史や宗教の知識も参考になる。更に、外務官僚への皮肉もブレンドされているところが、ウォッカのようなクリスタル感を醸し出す。それにしても、やたらウォッカを一気に飲み干す場面が登場する。それも一人5本とか。こっちまで二日酔いになりそうだ。

本書は、バルト三国で高まった改革意識を中心に物語る。元凶はソ連共産党による極端な中央集権である。マルクス・レーニン主義の限界が訪れると新しいイデオロギーを提起する必要があった。これがペレストロイカである。これは表向き改革を掲げているが、実はソ連体制の維持を目的としていた。この矛盾した目的の二重構造を突いて市民が決起する。そして、ゴルバチョフ派を打倒したエリツィン派が登場する。ここで語られるペレストロイカは、一般的に西側で宣伝されている印象とは違うようだ。ゴルバチョフはノーベル平和賞を受賞している。
大部分の日本人は、日本国が崩壊するとは考えてもいないだろう。大企業でさえ倒産するとは考えていなかった。しかし、現実に起きている。程度の違いはあれ、なんとなく似た状況を感じる。日本も民主主義とは名ばかりの中央集権国家である。現在は、政治家のスキャンダルなどで表面化していないが、霞ヶ関の実態が明るみになれば、真の改革意識が加速するかもしれない。監督すべき立場の金バッチの現状からして、遠い道のりではある。ただ、市民はうすうす気づきはじめている。当時のアル中ハイマーは、ソ連という大国が崩壊するなどと考えもしなかった。国家とは、ある日突然崩壊するものなのかもしれない。

1. ソビエト社会主義共和国連邦の姿
当時のソ連は、ロシアが親分でその他の共和国が服従するという印象がある。この見方は間違っていたようだ。本書は、スターリンがロシア人の血が入っておらず、ひどい訛りのロシア語を話していた事実からしても、ロシア人が少数民族を抑圧していたという単純な図式では説明がつかないと語る。中枢はソ連共産党中央委員会であり、絶大な権限を持ってロシア人を含めて支配していた。この中央委員会は絶対に責任を追わない体質を持っているという。中央委員会がソ連外務省に指令するという構図である。成果を上げれば両者でその成果を分配し、失敗すれば外務省を叱責して責任を押し付ける徹底的な無責任体制が確立していたという。ソ連政府は弱みのある聖職者が大好きなのだそうだ。例えば、独身を誓った高位聖職者で女にだらしない者もいる。女性が子供の認知を求めるとKGBが揉み消す。こうしてKGBに貸しを作ると後が恐ろしい。ちなみに、カトリック教会の聖職者は独身制をとっている。プロテスタント教会は地上に聖なる人はいないと考えるので、聖職者という概念がない。よって、牧師は結婚して家族が持てる。ただ、カトリックの独身制にも合理性がある。家族を優遇するような間違った意思決定をさせない。中国やオスマントルコの宦官制度は、官僚が世襲制にならないように去勢された。脂ぎった金バッチもパイプカットするといい。
ロシア正教はもう少しややこしいようだ。司祭には黒司祭と白司祭がある。黒司祭は独身制を誓い修道院長や総主教になる。白司祭は結婚し家族をもち、黒司祭よりも地位は低い。黒司祭は、教会政治、研究活動に没頭できる。一方で、家庭の悩み事に応じるのは家庭を持つ白司祭の方が現実的である。こうした司祭の二分は、組織機能を合理的にするのである。

2. モスクワ大学の二重構造
モスクワ国立大学には、西側のために、わざとロシア語を上達させない特別コースがあるらしい。しかも、ロシア語の自由会話の授業で、日本政府を批判するような画策もあり、ロシア語を学ばせる意欲自体を減退させるような思惑もあったという。ソ連体制は、国民への思想抑制、特に大学あたりでの監視体制は半端ではないことも想像がつく。反体制論文を広めるには、わざと学生に発表させてそれを教授が叱責する。実はその教授が反体制派である。思想を広めるためには発表する機会が必要である。著者はそうした態度に最初戸惑ったという。また、反体制を批判する授業をするからには、反体制主義も勉強しなければならない。つまり、ソ連体制以外の勉強をしたければ、表向き批判するように見せかければいいのだ。禁じられた思想の文献を広めるには、まずイデオロギーの闘争は重要だと主張し欧米思想を紹介する。そして、共産党やレーニン思想から引用を散りばめて、けしからんとできるだけ説得力の無い作文をする。このような文献が、良書なのだそうだ。読者もそれを心得ているというからおもしろい。本書は、日本の外務省の先輩外交官たちが、モスクワ大学は共産主義に汚染されて学問レベルが低いと反応するが、表面的なものしか見ていないと指摘する。ソ連体制では、子供も幼稚園の頃から、表と裏の顔を持つように訓練されていく。虐げられる世界では、幼いなりに防衛策を自然と身につけるものらしい。人間とはたくましいものである。

3. ロシア人のアルコールへの執念
ウォッカなしでは、ロシア人は生きていけないらしい。ゴルバチョフが反アルコールキャンペーンを展開すると、まず食料品店から砂糖とイースト菌が消えた。砂糖を溶かして、イースト菌を入れて発酵させ密造酒を作るのである。街中から砂糖が消えると、次はジャムとジュース類が消えた。更に、果物の缶詰、瓶詰も消える。最後には歯磨き粉までも消えた。歯磨き粉でも酒が造れるのだそうな。ここまでは人体に悪影響がないらしい。ほんまかあ!歯磨き粉はええんかあ?挙句の果てに、化粧品店からオーデコロンが消える。アル中はこんなものまで飲むらしい。そして、死者も出る。これでもまだ終わらない。アル中は靴クリームまで食べた。日本で禁酒法が施行されたら、アル中ハイマーも末恐ろしい。
ロシア人にとってウォッカは人間性を調べるリトマス試験紙になるという。通常の時と酔った時の言動で極端なギャップがある人間を信用しない。アル中ハイマーの台詞は、酔っても酔わなくても「君に酔ってるぜ!」ロシアでは、ウォッカやコニャックなどの酒をちびちび飲むのはルール違反だそうだ。必ず一気に飲み干さなければならない。アル中ハイマーはロシアにだけは行かないと堅く誓う!

4. 自壊の始まり
ある学生の見解は、ゴルバチョフはもう終わっていると語る。歴史を作る力を持っているのはエリツィンだと主張する。ソ連には宗主国がない。ロシア人こそ虐げられている。その本丸は共産党中央委員会。しかし、ソ連共産党を潰すとソ連はなくなってしまう。共産党というシステムは、部分的に自由化や民主主義を受け入れることはできない。ゴルバチョフはそのことがわかっていないという。そして、新しい戦略が展開される。ソ連では主権国家が自発的に連邦を作ったという建前になっている。その締結国は、ロシア、ウクライナ、白ロシア、ザカフカス連邦。ザカフカス連邦は、アゼルバイジャン、グルジア、アルメニアに分かれる。バルト三国を占領した時、エストニア、ラトビア、リトアニアは連邦に加入する手続きをとっていない。これは法的な欠陥である。ゴルバチョフが法の支配を権力基盤にしている以上、バルト三国はスターリン時代の植民地政策に過ぎないという矛盾が生じる。この矛盾を逆手にとる。具体的な行動は、エストニアの首都からリトアニアの首都までは600キロ。一人1メートルとして60万人が集まれば人間の鎖ができる。1989年「人間の鎖」行動は、最大200万人、場所によっては二重三重の鎖が出来た。ここで学生は、日本の北方領土返還についても有利に働くだろうと指摘している。バルト三国にしても北方領土にしても、スターリン時代の負の遺産だからである。当時エリツィンは日露平和条約の締結に前向きだった。それも、お家騒動をかかえていたから止むを得ないだろう。しかし、日本政府はそのチャンスを逃した。

5. ゴルバチョフの軟禁
いよいよゴルバチョフはバルト三国へ軍事介入しようとするが、西側の世論に屈して手が出せなかった。ただ、西側の報道はゴルバチョフ一辺倒だったように記憶している。著者は、ゴルバチョフ派の官僚に霞ヶ関と同じ臭いを感じると語る。権力者の動向や目先の利益には敏感だが、信念がない。エリツィン派やロシア共産党は、それぞれ世界観や政治路線は対峙しているが、両者とも発言と行動がともなっているという。当時のアル中ハイマーの印象は、ペレストロイカという言葉のインパクトが強く、ゴルバチョフは良い人、エリツィンは悪い人という感覚しかなかった。エリツィン更迭は正解だと思っていた。1991年のクーデター未遂事件で軟禁から解放されたゴルバチョフは、もはや大統領の威厳がなくなっていた。着替える暇も与えずぼろぼろな姿でテレビの前に出されたのも、国民に無力を示す演出だったという。権力はもはやエリツィンに移っていたが、本人だけは、それに気づいていなかった。それまで、かたくなに拒んでいたバルト三国の独立を認め、寛容な新しいソ連体制ができたことをアピールしたが、政治的実効性を失って滑稽に見えたと分析している。

6. 情報屋としてのプロ意識
本書の中で、ところどころに著者が情報屋としてのプロ意識に芽生える様がうかがえる。モスクワの日本人記者は外交特権もないので、情報収集の際のリスクも外交官より格段に大きい。大使館が大勢でフォローしているのに、記者は数人で取材し分析している。にも関わらず、大使館のとれない情報をとってくる。そうした様を悔しそうに語る。
「本当の情報操作とは嘘に基づくものではない。部分的事実を誇張して相手側に間違った評価を与えることである。」
これだけ大きな変動がおきている場面では、国際政治や国際法の知識はほとんど役に立たない。むしろ、教会史や組織神学の知識の方が役立つと語る。本書はあらためて政教分離を考えさせられる。宗教は遠くから眺めてこそ見栄えがする。富士山は遠くから眺めると美しい。近くを登るとゴミが散乱している。

本書は、キャリア制度に疑問を持たせてくれる。著者はノンキャリアである。キャリアとノンキャリアで身分差があるのもおかしい。キャリア組は、専門職を恐れて最初から優位性を誇示したいのだろう。波長が合う先輩との会話で、わざわざ大使館を離れた場所に行って愚痴る場面がある。内部の足の引っ張り合いやら、醜い出世競争の渦がまいている。日本人にはソ連体制を嫌う人も多いだろうが、長く付き合うと体制まで似てくるといった話まで飛び出す。有能なキャリアはノンキャリアに対する扱いが丁寧であるらしい。優位性を誇示する必要がないのだろう。むしろ人間的にうまく付き合うことで、専門職の能力を有効に活用できるという論理的思考が働く。一方でキャリアでも明らかに能力の劣る者が、威張り散らすらしい。トイレ掃除を命じる輩までいるそうだ。昼メロ級である。
本物語には、学生やら知識人の見解が頻繁に登場する。その分析レベルは高度である。アル中ハイマーは、若い頃はもちろん現在においても、そんなレベルで物事を考えられない。社会に危機感がないと、優秀な知識人は生まれないのかもしれない。平和ボケでぬるま湯にどっぷりつかった社会では、せいぜ出世争いをするのがオチなのだろう。

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