前記事で網野善彦氏の「異形の王権」を読んでいて、本書を中心に考察している部分があった。なかなかおもしろかったので書店で探してみた。アル中ハイマーのすぐに感化される性格は直らない。
網野氏は、後醍醐天皇の存在が特異な役割を果たしたと考察している。建武の新政が、官司請負制の全面否定、官位相当制と家格の序列の破壊といった体制の全面否定であり、古代以来の議政官会議を解体し、執行機関を全て天皇直轄にした。こうした独裁政治を天皇がやろうとしたのはなぜか?
本書は、その流れを8世紀の律令国家体制までさかのぼり、日本の中世国家の体制を探る。そして、日本の中世国家には二つの体制があったことを物語る。9世紀以降の地方政策の変化と、中央政治機構の改編がいくつもの段階を経て、律令国家が徐々に変質解体していき、ついには王朝国家が生まれる。王朝国家の主柱を官司請負制とするならば、この制度が確立した12世紀前期をもって王朝国家の成立と見ることができる。これが一つ目の中世国家の型である。それから半世紀後、東国に武士政権の鎌倉幕府が誕生した。これが、二つ目の中世国家の型である。この二つの体制において、互いに権力統一への欲求が生じたことは想像に易い。建武の新政は、幕府が倒れた時に乗じた欲求の一つと言える。だが、後醍醐天皇の政権は短命に終わる。本書はこうした流れを精緻に論じている。専門的過ぎてアル中ハイマーには理解の難しい部分もあるが、教科書では味わえないコクのある領域へと導いてくれる。そして、以前からの疑問にたどり付く。天皇家を一王朝と捉えるならば、この時代に滅んでいても何の不思議もない。なぜ存続できたのか?本書では明言されていないが、天皇の象徴的立場の原型がこの時代に隠されていることを示唆している。ただ、本書は王朝国家が実権を失ったところで終えているところがおしい。ちょっとだけ勉強のためにメモっておこう。
1. 律令国家
日本の中世国家の前提は古代国家であり、その最終形態は律令国家体制である。本書は、律令政治を解明するには、天皇権とその行使形態を観察することであると主張する。行使形態とは、太政官の執行権である。太政官は天皇家と直接接触し法を施行する立場にあった。律令制太政官の原型は持統朝に形作られたが、本格的に制定されたのは8世紀初頭の大宝律令である。天皇の詔には必ず太政官が関与する。つまり、天皇、太政官いずれか一方の恣意による発布を防止する仕組みが確立されていた。9世紀になると律令制国家の維持は困難となる。10世紀には新しい王朝国家体制へと変貌する。律令制の危機は、地方の土地支配制度の行き詰まりに見ることができるという。それは、私的な大土地所有に対抗して、皇室領を急激に増大させようとするが、そこに反発が起こる。それを回避するために、荘園整理令を境に地方支配を、太政官から国司に委託する。いわば地方分権である。その結果、公領は減少していき、天皇家の私領を含めて、権門の私領荘園が増大する。
2. 王朝国家
9世紀に律令制中央機構の改革が行われる。この頃、蔵人所(くろうどどころ)と検非違使(けびいし)が登場する。これは、令制定後に新設された官職と言う意味で呼ばれる令外官の一つである。律令国家では太政官が最高の官庁であり、他のすべての官庁はその下に位置する。それに対して蔵人所と検非違使は、天皇直属の官庁である。この存在意義は、律令制の原則的な枠組を超えて、非常事態に天皇の意向を反映させるためのものである。蔵人所は権力を地方に伸ばし、11世紀には地方の貢納組織まで統轄する。検非違使は治安警察機関であり、全ての警察活動を手中にする。こうした動きは、その他の官庁にも影響を与え、天皇色を見せたり、官庁内に賄賂が横行したり、特定氏族による独占世襲など、官僚システムの腐敗が起きる。こうして、9世紀から11世紀にかけて行われた律令政治機構の改革には、新官庁の出現と旧官庁の統合という現象が現れた。短期的には、天皇直轄官庁の新設と太政官の統轄力の低下により、天皇権を強力にする。長期的には、律令官僚制の崩壊である。この期に、国司を始めとする地方氏族が勢力をつけ、新興領主層である武士集団が東国に政権をつくる。
3. 鎌倉幕府
流人である源頼朝に平家討伐の名分を与えたのが、以仁王(もちひとおう)の令旨である。頼朝は平家の擁する安徳帝を否定する。ここで頼朝の二つの政治行動の選択について言及している。一つは、平家を打倒し、安徳帝を廃して以仁王を帝位に就ける。二つは、以仁王を天皇とした東国に新国家を樹立しようとする板東独立論である。頼朝の意思は板東独立論ではない。王朝が頼朝に下した命は諸国守護である。守護地頭が設置されると、武家が全国的に権力を持つようになる。頼朝が得た守護権は、治安警察業務の独占的請負権である。これは、王朝国家で見られた官司請負権とそう変わりはないが、注目すべきは、部分的な権力ではなく、全国隅々に及んだ点である。当時、この強大な職権を頼朝という特定個人に与えたのである。また、武家社会が主従制を根幹にしていることも重要である。頼朝以外の者は王朝と直接接触できない。その後、征夷大将軍は源氏で占められることになる。徳川家康はこの地位にこだわって源氏を名乗った。ただ、頼朝勢力に反発的な地域には特別な制度をおいている。東北には奥州総奉行、九州には鎮西奉行。これらの地方勢力が後に自立することになる。
4. 執権政治
頼朝の急死から承久の乱までの20年は、鎌倉幕府の危機の連続である。頼家の失脚と暗殺、実朝の暗殺を代表とする数々の継承問題で内部紛争が渦巻く。これも王朝による外部の陰謀と、内部の政治操作が見え隠れする。歌人として有名な実朝の暗殺は、単なる後継者争いではなく、朝廷による陰謀であったという説は何かで読んだ覚えがある。実朝死後、後を継いだ藤原頼経が鎌倉に迎えられたのが幼年2歳。北条家の執権が幕府の実権を握る。将軍派と執権派の抗争が常につきまとい、北条一族の嫡流の争いや豪族間の確執も複雑に絡む。やがて執権派が優勢となる。これは、執権派が早くから政所に目をつけ、介入したことが大きいという。政所は、将軍家の牙城であり、衣食住の調達と管理、将軍直轄領の管理など、将軍家の内廷経済を管轄する巨大機関である。これを抑えられると骨抜きになる。御成敗式目の位置付けも、武士のための法令として一般的に教えられるが、執権の北条泰時が中心となっている点からも、北条家の権力拡大の道具とした側面が強いのではないかと思える。結果的に、北条氏の家系、特に得宗家は幕府要職を合理的に独占しているからである。
5. 建武の新政
建武の新政は二つの改革をしようとした。一つは、国司制度の改革であり、国務私領化の否定である。二つは、中央官庁の再編成であり、特定氏族の請負経営化の否定と独占世襲の否定である。しかし、武家の不満は北条家の独占政治であり、武家政治を否定したわけではない。公家の不満は、後醍醐天皇が皇子を鎌倉幕府打倒の功を理由に征夷大将軍を切望したことや、奥州や東国の人事に対するものである。また、地方の領主層では自立の気風が高まる。そして、建武の新政の発足半年にして、地方の領地支配を奥州幕府、関東幕府に実質委ねた。などなどの要因から後醍醐天皇の政権は短命に終わる。
6. 室町時代の役割
本書は、むすびで室町時代について少しだけ触れている。建武の新政が終わった時に天皇家が滅びてもなんの不思議はない。それを解明するためには室町時代を検討する必要がありそうだ。内政的には、律令政治の名残で、室町幕府が王朝権力を吸収した。天皇家が、王朝支配の牙城である京都の市政権を獲得しても、幕府の首長は将軍で武家の代表である限り、公家貴族層に対する身分支配の名分を得ることができない。外交的には、天皇家を国王と位置付けたのは足利義満の功績だろう。日本は明から見れば従属国である。明帝がいったん従属国の特定人物を国王と認めると、別人が国王の地位を冒すことはできない。明との交易が独占的に与えられるからである。こうして政治と経済の両面から天皇家の存続を許した形であるが、更に検討が必要であろうとむすぶ。実は、その更なる検討内容が本当は読みたかったのである。続編を探しにアマゾンの放浪の旅にでもでるか。
2008-03-22
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 コメント:
コメントを投稿