2008-03-28

"裁判官の爆笑お言葉集" 長嶺超輝 著

アル中ハイマーは死刑制度に対して反対の立場をとらない。ただ、ここで賛成とはっきり言えないのは、人が人の命を裁けるのか?という一般的な倫理観からではない。執行する人々が気の毒に思うからである。善人と呼ばれる人々の倫理観によって批判にさらされ、正面から向かい合っているのは彼らである。裁判官が極刑を下すにしても重圧がかかる。量刑相場に駆け込むのも仕方がないかもしれない。犯罪者も死刑を承知でやるのだから、判決が下っても止むを得ないという状況を作ることが大切であろう。本書を読んでいると、なんとなくそんなことを考えてしまう。

裁判官というと、出世欲に駆られた凝り固まった官僚という香りがする。アル中ハイマーは裁判所へ行ったことがないから想像するしかない。いや!行ったことあった。しかも呼び出された。本書はそういった先入観を少々和らげてくれる。著者が裁判の傍聴席から目撃した数々の人間模様を紹介している。そこには、嫌味、駄洒落、ブチキレ、諭しのテクニック、時には愛も語り、著者が思わず判事のファンになるような発言もある。また、判決期日を延期してボランティア勧告まで飛び出す。裁判官が考え抜いて選んだ言葉には、個性がうかがえる。裁きっぱなしではなく、法廷での出会いも一つの縁と考え、大切に吟味している裁判官もいる。本書で紹介される裁判官は実名で登場する。彼らは、おそらく裁判官の中でも異端児とされる方々であろう。中には是非出世してもらいたいと思える裁判官もいる。裁判官の評価は、判決や和解を出した数の多さに集約されるという。長々と説諭するぐらいなら、薬物事件の一件でも済ませた方が出世に近づくというわけだ。裁判員制度が始まろうとしている中で、裁判の傍聴風景が少しでも感じ取れるところに、本書の意義がある。また、手軽に読める量で電車の中で読むのにちょうどよいのもありがたい。裁判の傍聴とは、被告の態度と裁判官の言動の双方からして、人間観察におもしろい場所のようだ。

1. 法の仕組み
法の仕組みは、「ある」、「ない」の二項対立の組み合わせであるという。法律の条文に書かれた要件がすべて満たされれば訴えは認められ、ひとつでも要件を満たさなければ訴えは退けられる。何段階にも要件が入り込んで複雑な条文もあるが原理は単純である。むしろ、法というものは単純であるべきであろう。そうでないと違法か合法かの基準がはっきりしなくなる。誰にでも平等で明快な答えを出そうとすれば、きめ細かい配慮には欠け融通がきかない。裁判が無味乾燥な判決文を大量生産し、当事者を置いてきぼりにするのも法の宿命かもしれない。本書は、こうした法律の補完装置として裁判官の役割を浮き彫りにする。裁判官の建前は「法の声のみを語るべき」とされているが、法廷ではしばしば肉声が聞かれるようだ。私情を抑えられず、つい本音がこぼれることもある。それが人情というものである。しかし、中には正当防衛も認められず矛盾を感じる判決もある。被害者であるべき人間が長期の裁判に縛られ、加害者であるべき人間が不起訴処分になる例も多い。また、日本は昔から公事三年と言われ、裁判はとかく時間がかかるという印象がある。特に行政訴訟で差し止めなど滅多に認められない。国を相手どった行政訴訟で住民側が勝訴する確率はわずか3%だそうだ。

2. 極刑
最近の犯罪の残忍さからしても、裁判の判決にはいらいらさせられることもある。おいらは内情を知らずにいい加減に傍観しているだけなので、世論操作に洗脳されているのだろう。それでも、裁判官に対して一つだけ同情することがある。死刑を宣告する重圧である。世間から罵倒されることもある。マスコミは、自らが裁く者とでも自認しているかのように、著名人などを使って世論を煽る。本書は、裁判官が考えられうる手段を駆使して分析している姿も紹介してくれる。いくら極悪人だとしても、人間の命を他人が裁くのに気分が良いわけがない。ただ、残酷な事件が多くなると、その残忍さと量刑相場の板ばさみにもなる。本書は、量刑相場の急激な変化が法の安定を失わせ、特定犯罪の厳罰化は刑罰体系のバランスを崩すと警鐘を鳴らす。事件によっては、あまりに卑劣で心情的に重い刑を宣告したい場合もあるだろう。著者は、裁判官が量刑相場に板ばさみになって軽い刑を宣告する場合、被告人に向けて一段と痛烈な非難を浴びせるような印象を受けると述べている。ただ、裁判官が言葉でバランスを取っても被害者の慰めにはならない。判決の重圧からこんな台詞も飛び出す。
「控訴し、別の裁判所の判断を仰ぐことを勧める」
被害者2人、被害額2千万円の強盗殺人で、相場からして死刑が相当。その時の異例の付言として紹介される。だが、裁判官がこれを言っちゃおしまいだろう。殺意の証明も難しい。犯人が殺意を認めるなど滅多にない。むしろ、殺意を認める人間の方がまともである。少しでも減刑されるならば、どんな演技でもする。相手が死んでも構わないと思えば殺意となるが、こんな行為をすれば相手が死ぬかもしれないという場面でも、充分殺意があると考えて良いと思う。例えば、銃を乱射しておいて殺意はありませんと主張しても通用するとは思えない。しかし、現実にはそれでも過失となることがある。
無期懲役も奇妙な制度である。現実には15年から40年で仮釈放となる。そこで、仮釈放の際、しばしば遺族の意見を聞くようにと付け加えられるらしい。裁判官の被害者への心遣いであるが、そもそも無期ではないのか?それならば、判決に仮釈放の可能性を表す付言が必要であろう。しかし、全国の刑務所は軒並み満室状態で、終身刑の導入どころではないという現実がある。

3. 死刑廃止論
この問題は、よーわからん!その前に終身刑をしっかり執行することである。少なくとも、現状で死刑廃止だけしても仮釈放されるのではおかしい。オウム弁護団の主任弁護士安田好弘氏は、死刑廃止論はいいけど、とにかく時間をかけることと宣言し弁護団全員を了承させたという。本書は引き伸ばし戦略こそ弁護の王道という確信がおありのようでと皮肉る。ただ、やりたくない弁護でも誰かが引き受けなければならない。世間からバッシングにあう事件を担当することは勇気がいる。こうした境遇の弁護ばかりやっているのも同情してしまう。ちなみに、「山口県光市母子殺人事件」で最高裁弁論をドタキャンしたことでも話題になった人でもある。もし、死刑廃止論をこの事件で利用しているとしたら、弁護士失格である。まさか、思想を法廷に持ち込んでいるとは思いたくないが、そうした態度に映ってしまう。死刑制度の是非については人を感情的にする何かがある。おそらく本能と理性がぶつかるからであろう。人間が他人の命を裁くことには疑問が残る。少なくとも執行する立場からは気持ちの良いものではない。死刑にする基準を明確にする必要がある。

4. 中には泣かせる場面
被告人がやたら傍聴席の妻と赤ん坊を気にしている。裁判官が妻と赤ん坊を呼び寄せ、その場で被告人に赤ん坊を抱かせる。そして、二度と犯行に及ばないと誓えるかと迫る。被告人はその場で泣き崩れる。こんな場面は大岡裁きにも思えるが、被告席に家族を招くなどさすがに珍しいケースのようだ。後にその裁判官は取材に、苦笑いしながら次のように答えたという。
「前例もなく勇気のいることだったが、当時は恐いもの知らずだった」
裁判官とは、出世欲の固まった官僚世界でもあるだろうが、どの世界にも異端児はいるものだ。介護疲れの挙句に及んだ心中事件はよく耳にする。運が良いのか悪いのか、片方だけが生き残ると辛い事件になる。こうした介護絡みの事件は今後増えるだろう。悪いのは社会なのか?平和でありながら自殺大国日本という矛盾が見え隠れする。人間は、生きがいを無くすと世の中が地獄に思える。なげやりな考えが他人を巻き添えにすることもある。裁判官の台詞に、こんなものもある。
「早く楽になりたい気持ちはわかる。生き続けることは辛いかもしれない。それでも、地獄をきちんと見て、罪の重さを苦しんでほしい。」

5. メディア用語
法律用語っぽいメディア用語を紹介しているのでメモっておこう。
(1) 「容疑者」は、法律用語では「被疑者」という。
(2) 「被告」
民事裁判で訴えられた人は「被告」であり、刑事裁判では「被告人」と呼ばれる。しかし、報道では刑事裁判でも「被告」と呼ぶため、被告のイメージが悪くなっているようだ。そこで民事で訴えられた側を「相手方」と呼びかえる動きもあるらしい。
(3) 「書類送検」
被疑者を起訴するかの判断を委ねるため、警察官は検察官に捜査情報を送る。報道では、被疑者を逮捕せずに捜査している場合、警察官が事件を検察官に送ることを「書類送検」と呼ぶ。逮捕した被疑者の身柄を一緒に送ることを「身柄送検」と呼ぶ。しかし「送検」とは法律用語にはなく、逮捕していようがなかろうが「検察官送致」というらしい。
(4)「起訴事実」は、法律用語では「公訴事実」という。

1 コメント:

アル中ハイマー さんのコメント...

著者のメルマガが復活したというアナウンスがあった。読んでみると、被告人の言い訳には笑わせてくれる。ただ、その反面、複雑な思いもわく。
尚、著者のブログは時々楽しませてもらっている。

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