2008-08-10

"Core Memory ヴィンテージコンピュータの美" M. Richards & J. Alderman 著

数ヶ月前、オライリー・ジャパンから新書の案内がきた。その中で本書には、なんとなくタイトルに惹かれる。アル中ハイマーは、ヴィンテージものが飲みたくなるのである。

本書は、マーク・リチャーズの写真とジョン・アルダーマンの文章によって構成される。そこには、シリコンバレーの「Computer History Museum」に所蔵されるヴィンテージコンピュータが、なかなかの酒肴(趣向)で撮影されている。これは技術書ではない。美術観賞を楽しむものである。そして、電子計算機の歴史的意義を、知識としてではなく感覚として味わえる。思えば、コンピュータの歴史は半世紀ぐらいと短いものである。それでも重厚感がある。今宵は、間違いなく年代物のブランデーが合う。なんとなくバーで眺めたくなるような味わい深さがある。明日のこの時間は、間違いなく夜の社交場に姿を現すであろう。

AppleやCompaqの写真を眺めていると、昔を思い出す。おいらが最初に買ったコンピュータはFM7である。大学時代、媒体はカセットテープだった。通常のオーディオ機器でプログラムがコピーできた時代である。録音調節を失敗すると暴走したりもした。社会人になって、自己啓発と称して購入したのが98互換機だった。その時、虚しく思ったのは、ローンの残高が次々に登場する新型マシンの価格を追い越すことだった。もう20年以上前のことである。その頃、お洒落なMacが一世風靡しそうな勢いだった。ディスプレイと一体型のマシンを、先輩が登山家のように専用リュックに担いで会社に持ってきていたのを思い出す。そこから作成される綺麗なドキュメントには感嘆したものだ。マシンは一人一台の時代ではない。それでも他の部署よりははるかに恵まれていた。研究所というのも比較的良い環境にあったのだろう。グレードの高いマシンは熟練者から与えられる。当時はハードディスクが外付けされるだけで画期的だった。容量は10MB程度で、しかも高速で感動したものだ。バブル時代になると予算も通りやすく、下っ端のおいらでさえ、高価な計測器をほぼ占有できた。当時、GHz帯の測定器など、何の研究に使うんだと皮肉られたものだ。おいらは一箇所に落ち着くのが嫌いなので、ラップトップ型コンピュータを予算化した。ラップトップなんて言葉は今では死語である。こうした環境も、転職すると、なんと贅沢だったのかと知らされることになる。

本書を読んでいると、まず気になったのがページ番号の見方である。最初、意味が分からなかったのだが、3分の1ぐらい読んだところで、なるほど!パンチ風で、ギリシャ数字は10進数の桁を表しているのかあ。こんなところにも気配りがなされるところに、著者の感性が伝わる。ただ、2進数で表したら、もっとそれらしく見えると思うが、複雑になりそうだ。基板上の配線された写真などは、昔、苦労して製作したブレッドボードを思い出す。ラッピング配線とハンダ付けでは、どちらが接触抵抗が小さいか?などと実験室で競ったものだ。不器用なおいらはツールで誤魔化すしかなかった。ちなみに、スーパーおじさんのハンダ付けには、どんな優れたツールを持ってしても敵わない。本書には、世界初のコンピュータから、電卓、ルータ、サーバなど30数台のマシンが収録される。その中から、なんとなく酔っ払いの目のついたところを摘んでみよう。なぜかって?そこにうまい燻製の摘みがあるから。

1. Z3の加算機
最初のコンピュータは、実はENIACではないらしい。世界最初のプログラマブル自動電磁コンピュータは、第二次大戦のさなか、ドイツのコンラート・ツーゼ(Konrad Zuse)によって作られたという。しかし、1944年、連合軍のペルリン空爆によって破壊されてしまう。本書で紹介する写真は、加算機ユニットを教育目的で再現したものだという。ストレージ用の媒体は、映画用フィルムにパンチ穴を開けたものである。そこにはスイッチング用のリレーが並び、酔っ払いにはカタカタという音が聞こえてくる。

2. ENIAC
1946年、アメリカ陸軍とペンシルバニア大学によって製作された。その研究には、後に数学者ジョン・フォン・ノイマンも加わっている。当初の目的は、弾道軌跡計算を行うことだった。このプロジェクトはテストケースで、以降のプロジェクトであるEDVACやUNIVACのモデルになったという。ENIACは、プログラムが記憶できないため、新しいタスクには物理的な変更によって対処する必要があった。後にノイマンがプログラム記憶方式の概念をまとめることになる。しかし、その概念自体は、ジョン・エッカートとジョン・モークリーの成果によるものだったという。ここに、コンピュータ基礎理論が構築されたわけである。

3. UNIVAC I
1951年、世界初の商用コンピュータが、エッカートとモークリーによって製作された。メインメモリには、巨大な水銀遅延線を使ったという。そして、水銀管内に音波パルスを送り、それを検知して送り返すといったことをするらしい。その写真は、スクラップになったプロペラ機のエンジンを彷彿させる。この頃、記憶媒体としてテープドライブが登場する。ただ、顧客からすると、パンチカードはまだ目で見えるが、テーム媒体は目に見えないため、反発も激しかったという。当時のセールスマンの苦悩が目に浮かびそうだ。

4. Johnniac
1954年に製作された。給与計算、数値計算の他、チェスができるようにプログラムされたという。更に、OSは、タイムシェアリングを行っているというから興味深い。ただし、分単位のものらしい。また、磁気コアメモリにアップグレードされている点も注目すべきである。写真には、端末のキーボードが設置された大掛かりな装置が表れ、ファクトリーオートメーションといった印象を与える。

5. SAGE
1954年から63年に、アメリカ空軍とIBMによって製作された。ソ連軍の対航空戦略のために開発された。大型コンピュータのネットワークによって、レーダーからのデータをリアルタイムで分析し、情報をいち早く戦闘機に送るというもので、最初のリアルタイム対話型コンピュータである。また、最初にコアメモリが使われた。ディスプレイモニタ、モデム、ネットワークという革新的なハードウェアも搭載される。おもしろいのは、ライターと灰皿が組み込まれるところである。SAGE施設は、人里離れた地下200mの掩蔽壕の中にあったという。言われてみれば、自動車にライターと灰皿がついているのも奇妙な話なのかもしれない。最近の新車にはついていないようだ。愛煙家はますます住み辛い世界となる。

6. IBM System/360
1964年、IBMが互換性をもったファミリー機を登場させた。「互換性が全てを支配する」という目標の下にIBMは大躍進する。なによりも、同じ命令セットが使われるのが、ソフトウェアのアップグレードを容易にし運用性を高めた。マイクロプログラムを採用し、ROMに記憶されたマイクロコードが、アーキテクチャの違いに関わらずエミュレートする。このファミリー機のハイエンドは、アポロ計画や航空管制システムの基盤をもたらした。

7. DEC PDP-8
1965年、DEC社によって開発された最初のミニコンピュータである。いきなり、「セックスアピールのあるデザイン」という紹介があるが、そうかなあ?このマシンは、ユーザとの責任の共有、ユーザへの自己教育の促進といった哲学を提供した。当時のスタンダードはIBMの手法で、コンピュータの所有権を移転せず、リースして一切の改造を防ぎ、プログラミングを会社の認可した聖職カーストに限るというやり方であったという。しかし、DECのPDPシリーズは、これに従わず、むしろ改造、拡張を促していたという。なんとなくMSに従わない、オープンソ-スの精神に繋がるものを感じる。PDP-8は、パーソナルコンピュータとしては、ほとんど最初のものである。

8. Interface Message Processor
1969年、ARPANET向けに作られた最初のパケットルータである。ARPANETは、相互接続されたコンピュータによる世界というヴィジョンを持っていた。いわゆるインターネットの前身である。コンピュータそのものを規格化するという考えから、パケット側を規格化するという発想に転換された時代を思わせる貴重なマシンと言えるだろう。

9. Altair 8800
1975年に製作されたおもちゃ。当時、ほどんどのユーザが紙テープリーダを持たなかった。このマシンを買ってすぐにできることといったら、スイッチをパチパチさせてランプを光らせるぐらい。このマシンを持つことは、大きな想像力だけでなく、大きな忍耐力も必要だったという。このエピソードを読んでいると、なんとなくレーザーディスクを思い出す。大学時代、友人から画期的なマシンを手に入れたというから、何かと思ったらレーザーディスクだった。「レーザーディスクを見せてやるから遊びにおいで!」と自慢げに話すので遊びに行った。電源を入れる瞬間に緊張感が走る。しばらくすると、起動画面で「Pioneer Laserdisc」という文字が踊っていた。なんと、彼はソフトを一つも持っていなかったのである。確かに、見せてもらったのは「レーザーディスク」という文字だった。

10. Cray
クレイ・リサーチ社を設立したシーモア・クレイ。この配線の写真には、スーパーコンピュータへの情熱を感じ、Cray-1の姿には相変わらずの風格を感じる。

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