2008-10-12

"人間の安全保障" Amartya Sen 著

今夜は、最近マスコミを賑わしている三大キーワード「ノーベル賞」、「株価暴落」、「事故米」で作文して遊んでみたが、ちょっと無理があるなあ。

ちょうどノーベル賞の受賞ラッシュで沸きあがる。それも、理系の分野で日本人が活躍しているのは喜ばしい。だからというわけではないが、立ち読みしながら物色しているとノーベル賞ネタを見つけた。ただ、ここで扱うのは分野が違う。著者アマルティア・センは、アジア初のノーベル経済学賞の受賞者。著者に興味を持ったのは、経済学を社会学の延長として捉えているところである。また、インド人の立場からの意見も興味深い。ちなみに、アル中ハイマーは、ノーベル賞で経済学賞と平和賞を懐疑的に思っている社会の反抗分子である。それも仕方がないだろう。経済学賞では、LTCMで代表されるように、国際経済危機に陥れた人物が受賞している。そもそも、経済学賞はノーベルの意志で継がれた部門ではない。平和賞では、極めて政治色が強く、共産主義体制から民主化への移行に貢献したと言われながら腐敗組織を温存したままの改革だったり、環境問題に貢献したと言われながら指導的立場にあるにも関わらず自国政治の環境意識はほったらかしだったりする。
連日、株価暴落がマスコミを賑わしているが、はたして実態経済はどうなっているのだろうか?最大の問題は、経済が金融システムの依存度の高いところにある。金融危機に陥いると、金融システムの体力がそのまま経済に悪影響を及ぼす仕組みとなっている。銀行の自己資本比率の低さには素人ながら唖然とさせられるが、BIS規制ですら8%の義務しか課していない。しかも、自己資本という定義も怪しい。株券で集めた資本は寄付金ぐらいにしか思っていない。確かに、金融システムからの資金提供が大きければ、それだけダイナミックな経済活動を誘導できるだろう。だが、無理やり資金を動かし不良債権化を拡大する結果を招いている現実は見逃せない。彼らは、リスクを複雑化して偽装するのが得意だ。まるで、将棋のような論理ゲームで不利と見るや、無理やり形勢を複雑化する手を打って、勝負の行方を難しくするかのように。おまけに、格付機関が、そのリスク評価に最高の信用度を与える。まるで、裏取引でもあるかのように。世の中が何かの拍子で社会不安に陥ると、群集意識は一斉に危機感を募らせ、行動もある方向へ一斉に向かわせる。しかも、こうした行動をマスコミの扇動が増幅させる。宇宙の持つ合理性は、群集の持つ不合理な行動によって相殺される。その一方で、常識では不合理とされる現象を、合理性と解釈する人々がいる。ヘッジファンド系の投機家連中は、そうしたイベントをいつも待ち構えている。彼らは、群集が向かう方向と逆ポジションで仕掛ければいい。そもそも、宇宙には合理性というものが存在するのか?人間の都合で解釈されるものではないのか?株価の暴落で資産が減った人々は、こういう危機を理解しているだろうが、それが原因で社会不安まで引き起こされては迷惑な話である。十年に一度、金融危機が起こるという現象からして、もはや、金融システムは社会の邪魔でしかない。一般企業では、金融の依存度を少しでも低減したいという防衛意識も芽生えるだろう。製造業などが、自らのグループ会社に金融部門を設けようとする動きも分からなくはない。資本主義が成熟すると、金融の役割も終わりを告げるのかもしれない。
そもそも、経済は何のために存在するのか?政治や経済が貢献するべきことは、社会安定を図ることではないのか?経済システムは、資産価値の評価を正当なもので安定させる必要がある。いまや、金融システムに依存しない体質を持った社会システムの構築が急務である。そのためにも、資本主義とは何か?民主主義とは何か?という素朴な疑問に立ち返ることであろうが、政治 + 金融 + マスコミという魔のトライアングルにはダース・ベイダーが潜み、人間社会の転覆を目論んでいる。今宵の純米酒は、やけに愚痴っぽくさせやがる。事故米でも入っているのかな?
さあ!遊びはこのぐらいにして、そろそろ本題に入ろう。

ちょうど株価暴落が伝えられることもあり、経済学をネタにするのも悪くないと思ったのだが、本書は社会学に属する。経済学を掘り下げると、どうしてもそうなるのだろう。世界銀行は貧困の撲滅を使命とし、IMFは世界経済の安定を使命とすると言われるが、それは本当だろうか?現在のグローバル化に警告を発する専門家も少なくない。彼らはグルーバル化を反対しているのではない。市場の意識や制度的な枠組みにバランスを欠くと訴えている。著者も、そうした中の一人であろう。本書は、市場システムや経済活動が、民主主義の確立や初等教育の拡充といった問題よりも、市場の拡大にばかりに関心を持ち、弱者の社会的機会を奪っていると主張する。題目の「人間の安全保障」とは、紛争や災害、人権侵害や貧困など、地球規模の問題から生命、身体、安全、財産を守ることである。あくまでも個々の人間生活に焦点を当てたもので、軍事的に解釈する「国家の安全保障」という官僚的な概念とは同列に扱ってもらいたくないと熱く語る。そして、人権には倫理的な力と政治的な認知を必要とすることを訴えている。

1. 基礎教育
教育格差を縮めることが、世の中をより安全にし、より公平な場所にできるだろう。これが社会で最重要なのかもしれない。作家H.G.ウェルズは、「世界文化史大系」の中で、「人類の歴史では、教育と破滅のどちらが先になるのか、ますます競争になる。」と述べたという。
本書は、最も基本的な問題は、識字力や計算能力がないことであるという。読み書きや計算、あるいは意思伝達ができないことは、とてつもなく困窮状態と言える。生きることに必要なものが欠乏しているのに、その運命を回避する機会をも奪っていることになる。健康問題においても、感染症の蔓延を教育によって遮断できる。女性の教育と識字力が子供の死亡率を下げる。その一方で、女性の地位向上と自立能力が出生率を下げる。ここでは、イギリス連邦諸国の教育格差を焦点に語られる。それも、著者がインド人だからであろう。植民地時代の過去は根深いものを感じる。著者は、市場システムの擁護派が、学校の授業料を市場原理に任せようとしている動きを牽制している。学校教育は、自己認識や他人を見る目を養うためにも、行われれなければならないだろう。原理主義の宗教学校など、寛容性に欠ける狭量な教育が、子供たちの視野を狭める。公共機関による教育施設がないことが、好戦的な政治活動家によって、宗教学校の人気を助長させる。宗教を中心とした文明で人間を分類することは、政治不安を引き起こす。イギリス政府ですら、宗教別の公立学校を拡大しているという。元々多民族国家でありながら、イスラム教、シク教、ヒンドゥー教学校の創設運動が進んでいるのだそうだ。著者は、サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」のような分類は、いかにも西洋主義的で、世界に政情不安を煽るものだと批判する。特にインドを「ヒンドゥー文明」として描いているのは、歴史的配慮が足らないと主張する。おいらは、「文明の衝突」は、おもしろく読んだが、民族問題を抱える社会や多宗教社会では繊細な問題のようだ。日本のなぬるま湯で暮らす酔っ払いは鈍感である。ただ、文明の分類とナショナリズムの高揚を同列にすることもないだろう。

2. グローバル化
グローバル化とは、世界を西洋化することではない。これは多くの経済学者が指摘していることだ。好意的な人は、世界に対して、すばらしい西洋文明の貢献だと考えるだろう。西洋文明が、良し悪しは別にして世界に大きな影響を与えてきたことは事実である。ルネッサンスに始まり、啓蒙思想が生まれ、産業革命へと発展し、西洋諸国の生活水準を上げてきた。その一方で、帝国主義のような支配が、問題の元凶となっているのも確かである。現在においても通商関係のルールは、世界の貧困層をより貧困へと導いている。本書は、こうした西洋化が、グローバル化の本質なのか?と疑問を投げかける。現在のグローバル化を、西洋的な一種の帝国主義と見るのは分からなくはないが、グローバル経済が、様々な地域に貢献している事実もあり、前向きに捉えるべきところもある。ただ、グローバル経済が、民主主義の確立や、初等教育の拡充、または、弱者の社会的機会といった問題に無関心なのも事実である。現在の制度的な枠組みは、全体のバランスを欠き、利益の配分を不公平にする。グローバル化の波は、今後も押し寄せるだろう。グローバル化そのものが悪いのではない。投資家ジョージ・ソロスは、「国際的な企業は、統制の取れていない民主主義国家よりも、秩序の整った組織的な独裁主義国家での活動を好む。」と指摘しているという。

3. 民主主義
民主主義は、歴史的にみても西洋文明だけのものではない。世界の至る所にその源泉を見ることができる。国際社会には、民主主義の本質を、公開選挙と主張する動きがある。しかし、権威主義社会では、独裁政権が驚くべき勝利をおさめた歴史がある。投票行為に圧力をかけられるだけでなく、検閲制度や反体制派の弾圧など、市民の基本的権利や政治的自由を侵害され、公の場で議論すらできなくなる。公開選挙は、一つの手段に過ぎない。これを主眼にすると独裁者を支援することにもなりかねない。公の場の自由な議論と相互の協議を保証することに主眼を置く必要がある。原則は、多様性を認め、多元主義に寛容であることであろう。著者は、民主主義の最重要課題は、公開選挙ではなく、基本的な権利と自由を認めることであり、重要なのは公共の論理であると語る。ところで、民主主義社会では飢餓は起こらないらしい。飢餓が起こるのは、帝国の植民地、軍事独裁政権、一党独裁国家であり、民主主義では、飢餓が起こる前に世論の批判に持ちこたえられないという。もし、飢餓が起こるとしたら、その国の民主主義に欠陥があるということか。著者は、西洋的主張が強い民主主義には、まず選挙という思考が働くことを嘆いている。
ところで、民主主義の基本は多数決と発言する人も多いが、それは本当だろうか?多数決の始まりは知らないが、おそらくローマ皇帝や国王の後継者を選出するあたりであろう。民主主義とは、本来、面倒な仕組みであり、議論の収束が難しい制度である。その効率化を図る一つの手段に過ぎないことを認識するべきであろう。多数決は、少数派に犠牲を強いていることにもなる。多数決の原理は、衆愚化させる可能性を否定できない。

4. インドの核兵器
核兵器や強大な軍事力は、本当に国力を高めるのだろうか?軍事費の圧迫によって、国家を弱体化している面もあるだろう。インドの周辺は、パキスタンや中国の核武装化もあり、ナショナリズムが高揚する地域でもある。日本では、今のところ、核武装の議論は世論によって阻止される。ただ、あまりにも拒否反応が強くて、核武装と原子力を同列に扱われるのはどうかと思う。核兵器は有益で、ただ威嚇のみに存在し、決して使うものではない、といった論調には説得力を感じない。これが、賢明な国家の自衛策なのか?と著者は疑念を抱く。インドやパキスタンだけを非難しても始まらない。そもそも、そうした非難をする国々は、ことごとく核を保有している。地球規模で不均衡な核の秩序が存在する。高度な武器を生産する大国は、軍事産業で自国産業を支えている。顧客を作らなければ、軍事産業は成り立たない。自国の安全のためなら、他国を大量虐殺しても構わないという論理、こうした政治家どもの横暴は、世論が監視するしかない。核を保持すれば、その維持費は税金で賄われることを自覚すべきであろう。核武装によって紛争が抑制できるという主張も怪しい。本書は、少なくともインドとパキスタンの間では、紛争を抑制できていないことを紹介してくれる。世界が冷戦時代に、核の危機から人類滅亡のシナリオを選択してこなかったのは、単なる偶然かもしれない。では、現在はその危機から脱しているのだろうか?更に、危険な領域に入り込んだと見ることもできる。インドでは、核の保有が常任理事国入りできる条件と考える動きもあったようだ。どこの国でもそう考える連中がいる。もし、核保有で常任理事国入りが認められれば、同様の国が増殖する。著者は、インドとパキスタンは、核保有で自ら墓穴を掘っていると嘆いている。

5. 人権と自由
人権を定義づける理論というものがあるのだろうか?人権とは、とらえどころのない概念である。国籍やその国の法律とは関係なく持っていて、誰もが尊重しなければならない基本的な権利、人間が生まれながらに持っている自然権という概念には、説得力が欠けると主張する人も多いようだ。アメリカの独立宣言やフランスの人権宣言で語る歴史家も多い。日本の憲法にも、基本的人権は謳われる。自然権など戯言に過ぎないという有識者や法理論学者は案外多いらしい。その一方で、過剰な人権を主張する人々がいる。本書は、人権の宣言とは、本質的には倫理的な表明であって、法的な主張ではないと語る。人権が認められれば、その一方で大きな責任を負うことになる。倫理的な義務が生じる。人権を立法化する必要があるのかどうかは分からない。意味がないことなのかもしれない。地球規模で基本的な人権の範囲を規定することも難しい。規定すれば、法的な違反への罰則も必要だろう。著者は、公平に福祉が受けられないからといって人権を侵害していることになるのだろうか?と疑問を投げかける。そもそも経済が貧困で、福祉が成り立たない国があることを訴えている。自由が氾濫すると、人間は自由の概念を拡大する傾向にある。イギリスの経済学者ジェレミー・ベンサムは、法的な立場から自然権を攻撃したという。そして、功利主義が公然と主張される。いかにも経済学者が好みそうな世界である。権利の範囲を議論するならば、義務の範囲も議論されるべきであろう。人権の立法化、制度化の必要はあるのだろうか?制度化されなければ権利は認められないと主張する人もいる。確かに、制度化されないと不安ではある。制度化されない領域で人権を尊重できるほど人類は成熟していないかもしれない。しかし、法律は厳密さを要求するものであり、自然権や人権の自由といったものは厳密性とは相反する概念である。法律は万能ではない。法律とは、所詮、都合が悪くなった人のための言い訳の道具である。国連が主唱した世界人権宣言があるにも関わらず、人権が守られていない国でも公然と軍事援助がなされる。

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