2008-10-26

"方法序説" René Descartes 著

科学者の本を読んでいると、デカルトの解釈について語っているものをよく見かける。それも、科学や数学の根底に哲学があることの証であろう。その解釈とは、デカルトの言葉をめぐってのものである。デカルトの名前を見かけるごとに、なにやら懐かしい風を感じる。ちょいと、昔読んだ本を読み返してみることにした。本書を読んだのは、おそらく20年ぐらい前であろう。デカルト曰く、「我思う、故に我在り」そして、自己の存在を証明し、神の存在までも証明してしまう。ちなみに、アル中ハイマー曰く、「我時々思う、故に我時々存在するような気がする」そして、自己の酔っ払いを証明し、俗世間では皆が泥酔していることを証明してしまう。

古代ギリシャやローマ時代から営まれた奴隷制を核とする伝統主義は、ゲルマン人によってヨーロッパの隅々にまで浸透させた。中世ヨーロッパには、伝統的慣習は絶対であるという思想を元に、ローマ教会の権威によって統一された世界がある。しかし、その時代に思想の大変革が起こる。宗教改革やルネサンスである。宗教改革は伝統主義を打ち破り、奴隷に強制された労働の価値が見直される。奴隷は農奴という地位を獲得し、労働そのものが神聖なものへと変貌する。この思想の流れは、いずれ資本主義や民主主義といった思想を加速させることになる。その一方で、ルネサンスは昔の時代を懐かしんだ文化の再発見をする。そこには秩序を重んじる思想がある。そして、宗教改革による人間の解放と、それを秩序立てる文化思想が融合し、政治思想的なものが誕生する。従来のローマ教会を中心としたヨーロッパ集合体のようなものが、いずれ国家単位による政治体制を形成することになる。デカルトはそうした変革の流れで生きた偉人の一人であるが、変革気運が一気に高まり近代社会の基礎とも言える時代を生きたのも、単なる偶然ではないのかもしれない。

デカルトの言葉は揶揄されることも多い。ただ、そう簡単に片付けられるような内容だったっけ?高尚な哲学者や文学者というものは、物事をストレートに表現しないことも多い。そこに、照れ隠しのように暗喩めいたものを匂わせ、どことなく芸術性を高める。逆に、一つ二つの言葉から、とんでもない解釈を生み、それが流布されることもある。哲学や思想の解釈では、どれが正しいかというのが重要であるが、どの解釈を好むかも重要な要素としたい。それにしても、哲学という世界には、なんと無意味な命題が氾濫していることか。人間の存在すら無意味であるという証なのかもしれない。多くの哲学者や数学者は人間の精神を論理的に解明しようとしてきた。はたして、論理的思考がどこまで真理に近づけるだろうか?ウィトゲンシュタイン曰く、「示すことができても語ったことにはならない。」まさしく、デカルトの言葉は、とらえどころのない命題である。

「方法序説」は、デカルトが初めて公刊した著作であるが、1637年に著名者なしで出版されたという。正確なタイトルは、こんな感じで長ったらしい。「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話。加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学」これは、500ページを越える大著で、最初の序文78ページが「方法序説」に当たるらしい。デカルトは、精神と身体、主体と客体の二元論、精神と神の形而上学、数学をモデルとする方法論、自然や宇宙の探求など、新しい学問を提示する。ただ、デカルトの生きた時代は、ガリレオの断罪事件でも見られるように、新しい思想を唱えると弾劾された時代でもある。コペルニクスの書が法王庁の禁書目録に加えられ、宇宙の無限を構想したジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられるなど、アリストテレスやスコラ哲学に反する説は、死に処せられた。こうした時代背景で、異端審問に怯えつつ「方法序説」の発刊をためらう様がうかがえる。自然学全体を秩序立てて調べようとした著書「世界論」は、刊行を中止したという。なんとなく愚痴っぽい文章には社会への反感が表れる。だが、普遍的な価値を信じ、使命感により後世に残すことを決意した旨を語ってくれる。本書は、真理を探究するための方法を万人向けに示すものではなく、デカルト自身が真理探究をした体験談である。

1. 学問の探求
冒頭から「良識は、この世でもっとも公平に与えられるもの。」と始まる。デカルトは、良識は誰もが十分に具わっていると主張する。真偽を区別する能力は、本来、良識や理性と呼ばれるもので平等に具わっているという。よって、意見が分かれるのは、ある人が他の人よりも理性が具わっているということではなく、異なる道筋で導き、同一のことを考察していないことから生じるというのである。また、大きな魂ほど、最大の美徳とともに最大の悪徳をも生み出す力があると語る。デカルトは、次のように学問の探求へと誘う。
「雄弁術には、比べるもののない力と美がある。詩には、うっとりするような繊細さと優しさがある。数学には、精緻を極めた考案力がある。神学は、天国に至る道を教えてくれる。歴史や寓話は、世紀を渡って人々と交わる旅へ導く。哲学は、どんなことでも、もっともらしく語り、学識の劣る人に自分を賞賛させる手だてを授ける。法学、医学は、それを修める人に名誉と富をもたらす。」
学問するということは、どんなに迷信めいたことや怪しげなものにも、欺かれないように気をつけるために良いものであると語る。たとえ、修辞学などを習っていなくても、強い思考力を持ち、自らの思考を秩序よく明晰で分かりやすくする人ほど、主張を納得させることができるという。そして、その着想は人の意にかない、しかも、それを文飾と優美の限りをつくして表現できる人は、詩法など知らなくても最良の詩人であると語る。
デカルトは数学を愛した。それは論証の確実性と明証性に惹かれたからである。これとは反対に、習俗を論じたストア派の書物は、壮麗で豪華ではあるが、酷く美徳を持ち上げ、この世の何よりも尊重すべきものと見せかけるので、砂上の楼閣であると酷評する。ストア派が語る美徳は、無感動、傲慢、絶望、親族殺しになることが多いと皮肉る。また医学への思いも熱く語る。健康はまぎれもなくこの世で最上の善であると考えた。精神でさえも健康に依存するものだ。人間を賢明で有能にする共通な手段があるとすれば、それは間違いなく医学の中にあると信じているという。その中で、機械的な人体論、心臓と血液循環、動物と人間の差異などが哲学的に語られる。
デカルトは言う。
「生きるために残った時間を、自然についての一定の知識を得ようと努める以外には使うまいと決心した。」

2. 「我思う、故に我在り」
形而上学的では、まず自らが何ものかを定義でなければならない。しかし、目の前の実体が、何もかも夢を見ているかのように感じることはよくある。人生そのものが夢のようでもある。身体もなく、世界もなく、自分のいる場所など無いと想像するのは案外簡単である。だからといって、自分が存在しないと想像するのは難しい。この精神の存在を説明するのは難しいものだ。デカルトの言葉は、思考することこそ、自分自身の実体を認識できるというものである。逆に言えば、思考をやめるだけで、自分自身が存在する理由もなくなる。自己という実体の本質は、考えるということだけであって、存在するためにどんな場所も必要なく、いかなる物質的なものにも依存しないということである。ここでは、魂は身体という物体と完全に区別される。そして、精神は身体よりも認識しやすく、たとえ身体がなかったとしても認識できるものだと語る。人間が実体を意識する時、だいたいはその形やら色やら五感で感じられるものをイメージするだろう。しかし、デカルトは、何かをイメージできないと考えられない人は、神を認識することも、魂が何であるかを認識することもできないという。デカルトは、神や魂の存在が信じられない人々に語りかける。身体や天体や地球が存在するというのだって不確かであると。神の存在を前提としなければ、三角形の角の和がニ直角に等しいなどの幾何学の問題も、夢の思考も、人の想像力も、説明できないではないかと。よって、全て実在であり、神に由来することは真であると。
そうなると、天邪鬼のアル中ハイマーは思いっきり疑問を投げつけてやるのだ。人間の観念に虚偽や不完全性が含まれるのはなぜか?人間は完全無欠ではないことをどう説明するのか?神は完全でまったく真であるはずではないのか?神に由来するということは、真理や完全性が無に由来するのと、同じくらい矛盾するではないか?ちなみに、デカルトもこうした疑問があることも認めているようだ。

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