2008-10-05

"スピノザの世界" 上野修 著

久しぶりにアマゾンを放浪していると、お薦めにスピノザの名前があった。以前から、彼の大作「エチカ」を読んでみたいと思っているが、なかなか手を出す勇気が持てないでいる。とりあえず、本書を手に取ってみよう。
スピノザは、17世紀の偉大な哲学者の一人であり、汎神論を説いた。それは、神(自然)が唯一絶対の実体であるとする考えである。彼は、アムステルダムのユダヤ商人の家庭に生まれ、幼少の頃からユダヤ教団の学校で学ぶが、自由思想家の影響で懐疑的となり、異端のかどで教団を破門となる。匿名で出版した「神学政治論」は無神論との批判を受け禁書ともなっている。その人物像は、批判者からでさえも「有徳なる無神論者」と呼ばれるほど高潔だったという。ちなみに、この形容は無気味な雰囲気を漂わせていたという。そもそも、無神論者を異様な人物とされた時代でもある。質素な暮らしぶりや、ハイデルベルク大学からの招聘を辞退するなどの有名な話も残っているが、決して社交的でなかったわけではなく、知的交流も多かったという。

スピノザになんとなく興味を持つのは、宗教が主張する神とは一線を画し、極めて科学的に捉えようとしているところである。それは、神というより宇宙法則という意味合いが強い。彼は、全ての事物や現象を神と呼び、そこには全て実体があると主張する。そこには、気象現象で雨や風や気圧といった様々な物理現象を組み合わせて「台風」と呼ぶように、神はあらゆる事物の属性から成り立つ唯一の実体、他を絶する実体といった考えがある。人間の精神も、一つの属性で一つの自然現象と捉える。名著「エチカ」は、正確には「幾何学的秩序で証明されたエチカ(倫理学)」というらしい。そして、ユークリッドを引き合いに出し、神や人間の自由について、幾何学的に考察されているという。はたして、ユークリッド的な幾何学原論のような主張が、哲学をどこまで掘り下げられることができるのだろうか?公理系のような書き方で、どこまで語ることができるのだろうか?幾何学仕様の倫理学というのも、なんとなく謎めいている。「エチカ」の訳書は、岩波文庫から出ているので、いずれ挑戦してみたい。本書は、スピノザがどんな事を語ったのか?どんなものを見たのか?を紹介してくれる入門書である。

スピノザは、世界そのものが真理でできており、人間はその真理の一部であると語る。そして、人間の精神も真理の一部であり、思考が真ならば、思考されている事柄と一致しなければならないという。また、現実にある事柄で、それを対象とする真なる思考に一致しないようなものはないと語る。だが、ばらばらに存在する人間が、知性において全員一致する真理に到達しようとしているとは、なんとも信じ難い。人間の真なる思考も、真理空間の一部に過ぎないというなら、なんとなく分からなくはない。そもそも真なる思考とは何か?そういうものが存在するとしても、未だに人類は到達できていない。いや、永遠に到達できないかもしれない。ただ、アル中ハイマーの思考が真だとすると、宇宙はハーレムになってしまう。多数決が正義だとすれば、多くの男性諸君に支持される真理であろう。

スピノザが、世間から無神論者とされるところは、ニヒリズムにも通ずるものがある。それも、宗教とは違って無条件に受け入れるのではなく、論理的解明を試みる世界があるからであろう。哲学は精神の論理的探求を求め、宗教は精神の絶対的服従を求める。人類が哲学を論理的に解明しようと試みるのは、宇宙の正体が単純な法則に従っているに違いないと信じるからであろう。そこには、真理には美しい何かがあると信じてきた偉大な哲学者や科学者の執念がある。だが、哲学的思考が人間の精神の領域に到達すると、ついに語れない境界があることを知らされる。哲学は、誰のためにも語ることはない。うんちくや説教も垂れない。ただ、闇雲に真理を探究し、永遠の旅を続けるだけである。スピノザは、永遠についても語る。ここでいう永遠とは、始まりも終わりもない無限の時間のことではない。今あるリアルな存在のこと。時間はリアルな瞬間の連続であるが、その瞬間が永遠の真理だという。真理は時間の影響を受けないと言ってくれれば、なんとなく分かった気になれるのだが、はたして、そう言っているのだろうか?
「人間精神は身体とともに完全には破壊されず、その中の永遠なる何ものかが残る。」
これは、魂は不滅と言っているのだろうか?少なくとも死後の魂とは違うようだ。また、何が残るというのか?記憶や名誉のようなものか?それだって、歴史上の人物以外は、ほとんど無名で残らない。歴史だって、いつまで残るかわからない。DNAのことか?物質の構成要素である原子ことか?ここで、はっきりした答えがあると、いんちき宗教になり下がるであろう。真理は、ベールのようなもので包むから崇高な地位に押し上げることができる。女性の持つチラリズムにこそ美的興奮を与える何かがある。その探求を永遠に求めることが男の美学というものだ。そこには、「意味があるのか?」といったくだらない疑問は存在しない。ただ愉快なだけ。答えの見つからない命題を思考し続けると、アルコール欠乏症で手が震えだす。

1. 知性改善論
スピノザの著書「知性改善論」は、「エチカ」の入門書に仕立てようとしたものであるが、解説書のようなものを期待してはならないという。幾何学的でわざと解説を拒んでいるようでもあると紹介される。「知性改善論」の冒頭で、スピノザが哲学を始めた理由が語られる。天才でも始まりは平凡なようだ。全ての事象が空虚で無価値であることが経験で分かってくると、真の善というものは存在するのだろうか?といった疑問がわく。スピノザは、他の全てを捨て去っても、それだけで心が刺激されるようなものが存在しないだろうか?そういうものが見つかれば、喜びを永遠に享楽できるのではないか?と考えたという。だが、人間の欲求は、富、名誉、快楽に帰着する。どんなに善や道徳を語ろうとも言い訳に見えてくる。道徳が自己目的化すると人を、ますますダメにする。スピノザ自身、所有欲、官能欲、名誉欲を捨てることができなかったと告白する。こうしたものを悪と呼んだところで、決して悪を捨て去ることなどできない。捨て去ろうと思っている間は、捨てられないことを証明しているようなものである。そして、善悪を語る道徳家は悪の塊ということになる。ところが、精神の探求を続けると、こんなものへの執着がなくなり、妨げにすらならないことが理解できるという。禁欲が探求を可能にするのではなく、探求が禁欲を不要とするというのだ。これが悟りの境地ということか?そもそも捨て去るべき欲望など存在しないということか?知性と欲望が対立するのではなく、知性そのものが欲望である。精神の探求そのものが欲望である。欲望を遠ざけては、真理へ近づくことなどできないということだろうか。

2. 目的と衝動
目的とは、何かを達成するものであり、そのために努力するものだろう。ここでは努力は義務となる。だが、スピノザは、目的とは衝動であると語る。自分が目的に向かっていると、勝手に信じているだけのことかもしれない。人間は、その目的が善と信じているから、努力し犠牲も強いる。そして、努力や犠牲といった行為そのものも善と信じる。だが、目的や義務を追求していくと、エゴや自己愛に辿り着く。結局、欲望のためであり、衝動からくることに気づかされる。こうなると、人間の意識は、すべてあべこべに表象している可能性がある。人間は自由意志を信じ、万事は目的のために為されると信じても、自由意志の存在すら示すことができない。「エチカ」の理論では、人間は意欲や衝動を意識できるが、心が動く原因までは解明できないという。おいらは、精神の本質は「気まぐれ」であると考えている。最も人間らしい感情が「気まぐれ」であると思っている。義務や目的のために精神を制御しているつもりでも、実は衝動に支配される。義務感が強い人ほど、実は、ちゃらんぽらんなのかもしれないと思うことがある。欲望や衝動を自由に放任できる人ほど、義務や努力に励むのかもしれない。それは、義務の本質を探究しようとせず、ただ従うことに命をかける人とは違う。スピノザは、欲望とは意識を伴った衝動であると語る。ここで、おもしろいのは、「目的とは衝動である」と語りながら、「衝動とは目的とは言えない」とも語る。この非対称性が重要であって、これが抜けるとスピノザは単なる欲望至上主義に陥る。本書は、ここを理解することがスピノザの理解への鍵であると語る。目的のために欲望を捨て去らなければならないという発想は間違いで、単に強い欲望が弱い欲望に勝っていると考えるべきだという。道徳家が意見するような、善なる目的のために欲望を断念するということではない。善には優先順位があるということである。では、最高の善とはなんだろうか?スピノザは、より強い存在になりたい、より完全になりたいという欲望が、最高の善であると考えている。人間の本性の探求、完全な人間とは?という問い、こうしたものへ近づくことが享楽へと導くという。スピノザは、欲望や自己愛を肯定している。人間は案外素直に自分を愛することが難しい。それは利己的でエゴな部分が共存するからである。それでも、人間の自己愛は寛大で、自分自身が一番可愛い。利己とエゴは人間の持つ本質であろう。自己肯定の衝動は精神の本質なのかもしれない。その本質を誤魔化し、自己愛を公然と言えるように武装したものが道徳というものの正体ではないだろうか。

3. 宇宙の真理
あらゆる宗教は「神」の存在を出発点とする。しかし、スピノザは「神」は出発点ではなく定理として導く。実体とは、唯一性、自己原因と永遠性、無限性などの属性を持ち、その正体を考察していくうちに、無限なる本質、無限の属性を持つ絶対的な実体が現れる。「神」は、これらを表現するのに都合の良い言葉ということである。自然は、目的のために働くものではない。なんだか分からないが、とにかく何かがある。そうした中で、神の存在は、公理から演繹されて、どうしても出現してしまうという。神の存在は、ある種の避けがたい論理的帰結なのかもしれない。多くの神の存在論というのは、胡散臭いものがある。だが、ここで現れる神は、むしろ、偉大な宇宙といった感がある。いくら無神論者であっても、絶対的に逆らえない実体かあるような気がするものだ。ところが、人間のご都合主義はおもしろいもので、幸福が訪れれば自分自身の努力のお陰だと喜び、災難に遭遇すれば神にすがる。神は万物を創造したという説はよく耳にするが、スピノザは神を創造者とは言わない。動物だの、地震だの、戦争だの、いろいろな有限な存在や出来事があり、これら全てを包括して無限に実体が存在する。これがスピノザのいう神である。人間の存在意義、宇宙の存在意義なんてものはありえないのかもしれない。それは、ただ存在するだけ。登山家は言う。「なぜ山に登るのか?そこに山があるから」アル中ハイマーは言う。「なぜビールを飲むのか?そこにビールがあるから」

4. 精神
デカルトは人間の精神を一つの実体と考えた。つまり、精神は物体的属性とは違った属性を持つ実体である。そうなると、思考の位置付けはどうなるのか?人間の内に現れる思考は、精神の実体と一致するというのか?また、思考と身体に共通点すら見えないので、精神と身体が一つである状態すら想像できない。酔っ払いには、ますます人間という実体が見えなくなる。デカルトが「心身合一の問題」を残したのも分かる。
スピノザは、精神も一つの事物と捉えた。というより、精神なんてものは無く、ただ思考のみが存在すると考える。いずれにせよ神や自然の属物である。これで問題が解決するとは思えない。ただ、デカルトのように精神の実体を求めるよりは想像しやすい。スピノザは、神にも人間にも自由意志など存在しないと主張する。そして、自由意志の否定が、安らぎと幸福を教え、運命に振り回されない力を与え、自らを許し、人間を許し、社会を許し、神と世界を許すという倫理観が得られると結論付けている。自由意志を信じたところで、酔っ払いは気まぐれに支配される。自由な決意が、物事を語り、全ての行為に及ぶと信じても、それは目をあけながら夢を見ているようなものかもしれない。スピノザは、精神の決意と身体の決定は、表現が違うだけで同じ行為であるという。それゆえに、身体を蔑視する闇雲な精神主義におさらばしたというわけだ。人間を許せないというのは、そもそも人間には自由意志があると信じているからである。不快に思うのは、相手の自由意志によって引き起こされると考えるからである。だからと言って、自然現象のように許すことなどできようか?台風から避難するように、不快から遠ざかるしかないということか。だから、酔っ払いはいつも酒に逃避するのか。スピノザの倫理は、徹底して自己肯定の原理に基づいているようだ。間違って解釈すると、利己的になりそうである。人間の歴史は理性よりも感情によって導かれてきた。人間は孤立の恐怖から逃れるために群がる。その代表が国家である。国家は政治を生んだ。もし、人間の本性が最も有益なものへ向かうならば、何の方策も必要としないはずである。だが、政治は、群れに共通の恐怖を与え、あたかも一つの精神によって結びついているかのように仕向ける。
賢人は、魂の平安を有しているというが、賢人の精神が乱れないというのは本当だろうか?そもそも、賢人は存在するのだろうか?そのように装うのが巧みな人はいる。アル中ハイマーは、感情的になりやすく、精神はしばしば乱れる。不快な感情を察知して、予め逃避するように努めるがうまくいかない。賢くありたいとは思うが、知識を得たところで賢人になれるわけでもない。

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