2009-03-01

"農協の大罪" 山下一仁 著

日本社会には実に多くのタブーがある。企業と裏社会、皇室、同和問題、朝鮮人、宗教団体、教育、桜田門など挙げると切りが無い。最近では、環境タブーや少子化タブーまで登場する。そこには、政、官、業の馴れ合いの中に、スポンサーや広告代理店の介入、あるいは記者クラブが絡み、真実を書けないジャーナリズムの姿がある。そして、政治資金と係り圧力団体となり社会構造を複雑化し、ついには聖域と化す。本書は、こうした聖域の一つ「農協」について論じている。ただ、買う時に一瞬躊躇した。それは著者が元農林官僚だからである。巨大な官僚政治と揶揄される中で、まともな官僚もいると信じたい。いや、本で一儲けしようという魂胆かも。などと思慮が錯綜する。ところが、眺めていると直感的にうなずけるところが多い。まともな集団の中にも、ある低い確率で犯罪者は必ず存在するが、その逆の現象があっても不思議ではない。そもそも、大半の組織は使命感や正義感といった高尚な価値観から創設される。それが長期化する中でいつの間にか腐敗するだけのことである。そして、破壊と創造が繰り返されるのが社会の法則というものだろう。
自然法則には実に多くの対称性が存在する。引力と斥力、天体には点対称性や軸対称性が現れ、人体にも左右対称性が現れる。対称性には、普遍的原理が内包されているような想像を掻き立てる。これらの対称性は共存してこそ美しさがある。人間の価値観にも自由と平等の対称性が共存する。ところが、イデオロギーってやつは、自由と平等をめぐって対立するからやっかいである。自由を崇め過ぎると格差社会を助長し、平等を崇め過ぎると経済活動を抑制し産業を衰退させる。イデオロギーが美しく見えないのは、共存できることに気づかないからであろう。農業の世界は明らかに平等を崇め過ぎているように映る。

政治報道で批判的な意見が出るのは、ある意味健全であろう。複雑系の人間社会において意見が一つしかなければ、思考停止を意味する。ただ、公平な批判は難しい。タブーを無視しては、意識的な偏重報道と批判されても仕方が無い。タブーに踏み込んでこそ議論の正常化が望める。しかし、圧力団体に逆らうには体を張らなければならない。不都合な事実を報道すれば、それ以後は取材拒否される。そして、自国のタブーをわざとリークして、海外メディアを通じて流れるといった現象も見られる。タブー化する原因の一つは、組織が宗教化しているからであろう。神のように組織を崇める連中に何を言っても無駄である。おまけに、既得権益を堅持する行為が組織的に行われる。そんな連中と付き合ったらこっちまで頭がおかしくなる。よほどの志が強くないと対抗できるものではない。町山智浩氏はその著書「アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない」で、アメリカの実態は3割にも及ぶ脳死状態に陥った福音派によって大統領が選ばれると語っていた。日本だって負けてねーぜ!

「農協」というと、幼少の頃から悪いイメージがある。それは減反政策に代表される。親父の実家は農家であるが、今では高齢化のために事実上廃業している。実家で取れる米は美味い。余分に作った米は商売できないから、よく送ってくれたものだ。しかし、製造能力があるにもかかわらず、わざわざ土地を遊ばせるのはなぜか?よく祖母に遊んでいる土地をくれ!とせがんだものだ。また、農業をやるというだけで自動的に組み込まれる組織は、ある意味宗教団体よりも質が悪い。それは、選挙といったイベントで顕著に現れる。里帰りした時、その会合で美味いものが出ると聞いて釣られて行ったことがある。そこには、偉い人が考えることだから悪いはずがないといった宗教じみた意見が支配的だったのを覚えている。彼らが支持する政治家が落選すると、裏切り者がいるなどと叫ぶ輩までいる。こうした会合で必ず見られる現象は、外野の意見が飛び出すと、内部事情を何も知らない奴は黙れと一喝されることである。普段は優しい叔父さんや叔母さんが、ものの見事に洗脳されている姿を見せつけられた。農業が3K労働という理由で若者離れを指摘する人がいるが、はたしてそれだけだろうか?宗教じみた体質に拒否反応を示す若者が多くても当然だろう。こうした体質は一般企業にも見られる。創業者を神と崇めても、まさか創業者がそれを望んでいるとは思えない。むしろ逆であろう。お釈迦様が気の毒なのは仏像として拝まれることであって、偉大な釈迦がそんなことを望むはずがない。また、「なぜ株式会社にしないのか?」といった疑問を祖母にぶつけたことがある。答えは「農協様がおられるから」祖母が無くなって随分と経つ。おいらはおばあちゃん子で可愛がってもらったが、農協に対する思い入れだけは受け入れられなかった。そして、祖母と小学生の会話の中でタブーとなった。

農作物を作るというのは製造業に分類できるのではなかろうか。自動車産業や電機産業と何が違うのか?売れなければ作る量を減らす。生産量は市場を見据えて調整されるのが産業というものである。ただ、他製品に比べて難しいのは、食料は生命の根幹に関わるので安定供給が求められることである。気候といった自然現象にも左右され製造調整も難しい。とはいっても、来年の人口は二倍になるなんてことはありえないので、ある程度の生産計画は見通せるはずだ。そこで、先物市場や市場価格の変動が、農業の安定をもたらすはずである。市場を無視した価格の吊り上げは産業の破壊をもたらす。また、季節によって作業の多い時期と少ない時期があるのも、工業と違って労働力の平準化が難しい。仕事が集中しない時期に労働力を遊ばせると労働コストの無駄になる。しかし、現在では年中働きたいと思わない人も多いだろう。人生が多様化すれば農業復活のチャンスとも言えよう。実際に、昨年エンジニアを休業して春から秋にかけて稲作に出かけた奴がいる。もともと変人であるが、専業農家で募集していたのに乗っかったらしい。彼から水分を十分に含んだ美味い米が送られてきたのには感動した。実はおいらも考えていたが、先を越されて悔しい思いをした。おいらのように農業経験のない人間には不安がつきまとい、いまいち踏み込めないでいる人は少なくないはずだ。
農業の問題は、一般の製造業が海外に目を向けるのに対して、国内にしか目を向けないことにもあるだろう。食料危機に直面する貧困国が存在する一方で、余分な米を処分している裕福な国がある。この矛盾を小学生にどうやって説明するのか?食糧危機の国からテロ行為があってもおかしくない。最近は環境問題のせいか?自然災害も大規模化する。もし、国際社会が食糧危機に陥れば、いくら農業大国でも自衛のために輸出を制限するだろう。我が国の食料自給率が40%を切るのはあまりにも異常である。日本の農作物の品質の良さは、数々の食品スキャンダルの中で消費者が実感しているだろう。一般の製造業が海外進出で成功してきたのも品質の信頼にある。形の整ったものが良い農作物とは言えない。スーパーでは曲がったキュウリは規格外とされるが、キュウリをそのままの形で食べる人などいるのか?子供の教育にも、キュウリが真っ直ぐなものだと信じ込ませるのは悪い。形の悪い農作物は外食産業用として工夫している農家もある。

政府が保護した産業がことごとく国際競争力を失い、破滅の道を辿る運命にあるのはなぜか?農業の保護という理由で高米価で固定した政策は、国際競争力を失ってきた。高い関税を導入すれば、国際世論から反発されるので、輸入枠を受け入れざるを得ない。国際的に米の価格差が大きくなるほど、その枠を広げるように要求される。そして、政府は素直に輸入枠を広げる方向に政策を取り続けてきた。米価を高値で固定し続けるためには、供給量を制限する必要がある。そこで減反する。減反を進めれば農業所得が減る。そこで補助金によって支援する。減反面積を増やせば補助金額も増える。こうなれば農業が衰退するのも当り前で、小学生でも分かりそうな論理である。もやは、農業の保護というよりは、既得権益を持つ農協の保護といった方がいい。ここに農協が強化されるほど農業が衰退する構図がある。ただ、既得権益で凝り固まった組織は、なにも農協だけではない。そのことに気づいている人も少なくない。ネット社会ではタブー化された話題があちこちで議論される。ところで、世論は援助とか補助といった癒し系の言葉に弱い。これをマスコミが煽る。しかし、補助金政策は難しい。よほどの計画性と実行性をともなわないと、単なるバラマキ政策で終わる。その手段が自立のための援助でなければ破綻する。輸血だけしても寝たきりの体は健康にはならないのだ。癒し系の言葉は下手をすると麻薬漬けにする。投資家ジム・ロジャーズは、アフリカ旅行で食料援助によって原住民が畑を耕す苦労をしなくなった光景を目の前にして、その矛盾を指摘していた。黙っていても列に並べば自動的に食料が配給される仕組みには問題がある。似たような光景は一般企業にも見られる。企業が補助金に頼る体質となって破綻する姿である。これは公的な補助金に限らず金融機関にも見られる。融資をする側は、往々にして事業の内容を正当に評価できない場合が多い。その逆に、黒字事業が資金不足で廃業に追い込まれる光景がある。これはもはや金融機能が麻痺した社会としか言いようがない。

本書の内容は、一言で表すと「農政トライアングル」の暴露話である。農政トライアングルとは、「農協」「自民党」「農林省」である。ここにも魔のトライアングルが存在するとは「農業よ!お前もか!」農水省は農林族議員を通じて農協によって間接支配されているという。ただ、農林官僚の中でも、この構図に問題意識を持った人も少なからずいるらしい。なるほど、農業が衰退すれば農林省の存在意義も失うわけで、危機感を募るのも不思議ではない。その悪政の代表として、まず減反政策の弊害を論じている。そうだろう!そうだろう!こんなマイナス思考が長続きするわけがない。また、農協と多数の兼業農家の深い結びつきが弊害をもたらし、本気で農業を営もうとする少数の専業農家を妨害していると指摘している。多くの農家は農地が分散し規模も零細である。画一的な減反面積の配分という兼業農家への配慮は、大規模稲作といった効率運営を妨害することになる。その結果、日本の農業の担い手は、週末に農業をやるサラリーマンや、退職後の余生で農業をやる高齢者になってしまったと語る。そこには、農業の衰退と反比例して農協が順調に発展してきた姿がある。では、政権が自民党から民主党に移れば農政は変わるのだろうか?民主党にも似たようなバラマキ思考が蔓延る。本書は、民主党が2004年戸別所得補填の導入と減反政策の廃止を主張しながら、2008年には減反の必要性を訴えいてると指摘している。ここにも農協の票田をあてにする姿が見え隠れする。どうやら反対勢力は民衆の中にしかなさそうだ。それが民主政治のメカニズムというものか?自らの考えを放棄し群れたがる国民性では、まともな選挙は成り立たないのか?

1. 農協の弊害
農業収入を維持するために米価維持は重要であると考えるのも分からなくはない。高度成長時代、物価や労働賃金が急激に上昇し、1980年代には世界一物価の高い国となった。労働コストの上昇は国際競争力の弊害にもなる。そもそも、農業には組織化されない小作人の姿がある。戦前は地主に支配されていたが、戦後は地主解体によって小作人を解放した。地主の中にも農民のことを真剣に考える人もいただろうが。ただ、突然小作人たちに自分で考えて運営しろと言われても途方に暮れるだけである。そこに登場した農協の当初の目的はおそらく美しいものだったに違いない。高価な農機具、農薬や肥料、販売組織などを組織によって効率化することは誰でも考えるだろう。一般社会に労働組合ができる流れの中、協同組合とはいかにも癒し系の言葉である。サラリーマンが厚生年金や共済年金で保護される中、政府が農家や自営業に不公平を押し付けてきたのも事実である。本書は、農協だけが奇妙な形で組織化されたのは食管制度との絡みだと説明している。なるほど、食料は生活の根幹に関わる問題で政治の力学に支配されやすい。そして、米価の高値維持のために減反政策が実施され、効率的な組織化が進まず、零細な兼業農家がそのまま滞留することになる。農業の機械化が進めば、作地面積当たりの労働時間も短縮し、より多くの面積を耕作できるはずだ。しかし、農家戸数が減少しなければ、経営規模の拡大や体質強化にはならない。農業大国フランスでは、農業戸数が大幅に減少したものの、耕地面積の減少がわずかだったために、農家の経営規模は拡大したという。だが、日本にはその逆の現象が起こる。おまけに、機械化によって余った労働時間を活用して他産業に就業する兼業化が進む。兼業農家を維持すれば農家戸数を多く維持できるので、農協の政治力が維持できるわけだ。兼業農家の代弁者である農協は、専業農家を振興する構造改革を一貫して反対してきたという。1961年の農業基本法が描いた構造改革が挫折したのも、それが原因だという。農協は、農地改革で保守化した農家を組織化し、自民党を支える戦後最大の政治団体になったと指摘している。しかも、兼業農家の農外所得や、莫大な農地転用利益を預金として吸い上げる。農業を営めば自動的に農協の組合員になり、農家の流通は全て農協口座を経由する。更に、科学肥料や農薬を多投すれば農協が儲かるという仕組みがある。営業努力もなしで自動的に農協資金が集まるわけだ。しかし、この莫大な預金は農業が衰退したにもかかわらず農業への融資にはほとんど使われないという。その7割が有価証券などで資産運用され、農協は金融や保険の分野でもトップレベルの企業体となる。これは農業を犠牲にした機関投資家と言った方がいい。全国区、都道府県、市町村と、これほど見事な三段階の階層構造が成り立つ組織も珍しい。とはいっても、金融や共済で農業事業の赤字を補填し続けるにも限界があるだろう。そろそろ化けの皮がはがれても良さそうだが。

2. 汚染米と関税の関係
本書は、汚染米の原因が高価米と減反政策にあると主張する。汚染米の転用が発覚して以来、食品業界で続々とスキャンダルが発覚する。それは監査システムが機能していないことは明らかである。監査機能が働かないのは、農業に限ったことではない。霞ヶ関の言いなりになる地方行政ほど、破綻するとはどういうことか?ここに官僚との癒着があることは想像に易い。天下りの中途半端な規制は、むしろ天下りを助成することになるだろう。議会の役割には官僚の監査役がある。つまり、議会の存在意義が問われているということを地方議会を含めて自覚できないでいる。
永田町の中でも、農水相の石破氏は優れた知識と理論を持っているという。そう言えば、石破氏は汚染米問題の根幹は高い関税で農業を守るという農政にあるといった意見をインタビューで語っていた。さすがに、タブーを意識してか?「農協」を名指ししていない。政府は、汚染米を廃棄処分すると発表したが、そもそも輸入米が汚染されていては問題の解決になっていない。ちなみに、堂々と汚染米と宣言されたものでも安ければ貧乏人は食すだろう。それだけ格差は広がりつつある。WTOは自由貿易を促進する方法として、国内農産物の保護のために輸入禁止的な高関税を認める一方で、その代償としてミニマムアクセスという低関税の輸入枠を認めさせる。この二重の仕掛けにも問題があるだろう。一定量の輸入を認め、汚染された食料品が無条件に入る。そして、問題が発覚すれば無条件に廃棄するとは、最初から外国に税金をばらまいているようなものである。WTOは最初から外国に税金を払わせる仕組みをつくっているのか?政府は莫大な財政負担を自ら犯し増税を煽る。恐ろしいことに、政府はミニマムアクセスをさらに拡大する方向で交渉を進めているという。高関税を維持したければミニマムアクセスの拡大が要求される。なぜ高関税を維持したいのか?それは高い米価を維持したいからで、農協にとって重要な政策だからだという。販売手数料が稼げて、農薬や肥料が農家に高く売れる。米価は、水田の4割で米を作らないという供給制限カルテルによって維持されるという。カルテルとは、業者が結託して市場への供給を制限したりして高い価格を維持することである。これは独占禁止法にひっかかる行為ではないのか?もっとも、カルテルに参加しない業者が、カルテルで実現された高い価格で自由に生産すれば儲かるだろう。闇米業者が少々価格を下げたところで儲かるわけだ。そこで、カルテル破りをさせないように、毎年2000億円、累計7兆円に上る補助金をばらまくという。ならば、自由に生産させて国内米の価格を下げ、ミニマムアクセスの枠を無くしてしまった方が健全であろう。減反政策とは、米を作り過ぎているという論理からくるのだろうが、おかしな話である。

3. 農業の実態
農家戸数が農業就業人口を上回るという。なんじゃそりゃ?日本の農業には、かつて不変の三大基本数字というものがあったという。農業面積600万ヘクタール、農業就業人口1400万人、農業戸数550万戸。これは明治初期から85年間続き、大きな変化があったのは1961年の農業基本法が成立してからだという。農業人口が減少しているにもかかわらず、農業戸数の減少が少ない。これは兼業農家が増加しているためだという。しかも、高齢者だけが農業を継続している。専業農家の減少に対して、むしろ兼業農家は増加する。農家戸数285万戸、農協職員だけで31万人、農協の組合員は500万人、准組合員440万人(2006年)。んー?准組合員ってなんだ?なんとなく胡散臭い。一般的に日本の土地は狭く農業には向かないという考えがある。しかし考えてみれば、これだけ資源の乏しい国でありながら一般の製造業はお盛んである。本書は、水資源の豊かさを指摘して農業に不向きの土地柄という意見に反論している。なるほど、日本には四季という恵まれた気候がある。農業基本法は農家所得の向上を目的とした。その起草者である小倉武一氏は、この法律の失敗に三つの原因を挙げているという。一つは、農業の国際化を無視したこと。二つは、当時の社会党の反対で、構造改革は「貧農切り捨て」だと叫び、農林省の労働組合も反対運動をしたこと。おまけに農協が農業基本法に同調しなかった。三つは、価格維持に固執して、ミニマムアクセスを認めるしかなくなったこと。
戦後の農地改革は、零細農業を固定化してしまったという。そして、農地が宅地やパチンコ店に化けていく。農地改革は、農地を農業に利用するという責務を果たしていないと著者は嘆く。それも、政府が農家の構造的な問題を無視し、農地利用のあり方を無視して、零細農家と農協の保護に没頭した結果だと指摘している。なるほど、皮肉にも高米価、兼業、農地転用によるキャピタルゲインという三つの政策で農家所得は増加した。農業が潰れても農家は潰れないという政策、もはや産業が機能しているとは思えない。

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