本屋を散歩していると、本書を無意識に手に取っていた。ブログを公開するからには、少しは日本語の勉強をやるべきではないか、そうした潜在意識が薄っすらとあるのかもしれない。おいらの作文オンチは今に始まったことではない。学生時代、国語の成績では学年で最下位を争っていた。いや、断然ドベ!卒業できたのも、先生の温情によるものだった。その頃から、文章を書くことに劣等感がある。文法や技法といったものをまったく知らないし、そんな面倒なものは意識したくもない。昔から、技術論文を書くことはよくあるが、形式ばっていて好きにはなれない。技術文書では客観性が強調される。だが、真の客観性に拘れば、数学の公理のような表現しかできないはずだ。所詮、業界の慣習に従った共通認識で記述されるだけのことで、言わば主観の多数決に支配される。人間社会における客観性と呼ばれるものは、ほとんどがこの呪縛に嵌っているように映る。ならば、いっそ主観性を曝け出してもええんでないかい!そう考えるようになって、いつのまにか文章を書くことに恥じらいがなくなった。おかげで、技術文書ですら冗談を忍ばせないと気が済まなくなった。悪い癖がついたものである。もともと文章を書くこと自体は嫌いではない。酒を飲みながら気ままに綴る分には、むしろ気分がいい。したがって、まとまりのない長い文章となる。おまけに、千鳥足で綴るために、いつもわき道へ逸れ、もはや表通りがどこにあるのかも分からない。アル中ハイマーは、しつこい前戯が大好きなのだ!もちろん、本番もしつこい!
一般的には、言語は何かを伝達する手段であろう。おいらは主に精神を解放する手段としたい。とはいっても、精神を言語で記述するには限界がある。人間精神が、精神の本性を解明できないのに、言語体系で精神を言い尽くせるはずもない。人間は、精神の実存すら明確に説明できないでいる。そこで、哲学では奇妙な現象が現れる。一語多義的とでも言おうか、そこに一貫性があるのかも疑いたくなる。おまけに、作者独自の用語まで登場して、無理やり難解な文章を生み出しているかのようだ。にもかかわらず、なんとなく崇高な気分にさせるのも、そこに真理という味付けがあるからであろう。したがって、哲学は一般的に文学と化すはずだ。
その一方で、文学者は巧みな技法で芸術性をひけらかす。これは、自らの精神を曝け出した結果であり、文学作品に作者の哲学が宿るのも道理というものである。自らの精神を表現するには、自らの精神をどこか冷めた領域から眺めなければならない。したがって、文学者は一般的に多重人格者になるはずだ。
哲学や文学の世界では、技法を無視した芸術性を顕にする。だから、意表をついて感動や癒しの空間を与えてくれるのだろう。だが、レベルの高すぎる技法は読者を困惑させる。言語は、意志を伝達する道具でもある。平気で独自の用語を持ち出されても、共通認識がなければ読者は理解できない。そこで、芸術家は絶妙なさじ加減で仕掛けてくる。彼らは、言語体系という制約の中で巧みに鑑賞者の精神を揺さぶる。ゲーテ曰く、「制約の中にのみ、巨匠の技が露になる。」文法や技巧を習得したところで、精神を自由に解放できるわけではない。流派があるとすれば、それは芸術家の数だけあってもいい。
文章は、一般的に読み手のためにあるのだろう。しかし、あえて書き手のためにあると解釈したい。酔っ払いは我儘なのだ。その中で接続詞は、複雑な文章構造を整理する役割があり、書き手の思考の混乱を防いでくれる。文章は書き手の論理に支配され、自分の文章を第三者の目で読むことは難しい。したがって、読み手の視点からモニタできる人が優れた書き手ということになろう。論文やレポートなどで接続詞は欠かせない。
ところが、本書は、小説家は接続詞を嫌う傾向があるという。小説家は接続詞を巧みに使う印象があるが、頻度が少なくても効果的に使って印象付けるのかもしれない。夏目漱石にいたっては、「それから」という接続詞をタイトルにする作品すらある。接続詞には不思議な魔力があって、「そして...」と一言で終わるだけで、物語の終結に意味ありげなものを思わせる。接続詞は客観的で論理的なものと思われがちだが、本書は主観的で感情的な面を見せてくれる。
偉大な作家たちは、人々を魅了する文章をどのように創作するのだろうか?それは、彼らの中から自然と生まれる感性としか言いようがない。形式的に言葉を並べたところで、感動できるフレーズが現れるはずもない。意外なことに本書は、作家たちの意識で、まず第一に気を使うのが接続詞だという。ただ、専門家の間でも、接続詞に特化して研究されるケースが少ないのだそうな。確かに、接続詞は文章とは直接かかわりがない。動詞や助詞に比べても論理的な意味合いが薄く、地味な分野と言えそうだ。品詞には、動詞、名詞、形容詞、連体詞といったものがあるが、接続詞の位置付けは特異なようだ。一文をはみ出して文と文を結びつけるような品詞は想定されていないので、副詞として処理せざるを得ないという。だが、副詞と接続詞の境界線も微妙である。「そして」や「しかし」といった、明らかに判別できるものもあれば、文章の流れの中で結果的に接続詞の役割を果たすものもある。その機能も、文脈の繋がりをなめらかにしたり、重要な情報を強調したり、思考を誘導したり、構成を整理したりと様々。接続詞は、文と文を結びつけるだけでは飽き足らず、語と語、句と句、節と節、段落と段落など、あらゆるものを結びつけようとしやがる。まるで男女の関係を取り持つかのように、どこにでもお節介な奴はいるものだ。また、個性もまちまちで、短い要素を繋ぐのが得意なタイプと、長い要素を繋ぐのが得意なタイプがある。中には、離別させるのが得意なタイプがあるかもしれない。
文章を書くことはプログラムを書くことに通ずるものを感じる。テキストを書くという意味では同じだ。おいらは、文章を書く時、まず箇条書きで要点を抽出する。そもそも文章の基本は箇条書きだと思っている。これは、プログラムの仕様検討中に、実現すべき機能の抽出と似ている。また、プログラムモジュールを構成する時に、抽象化の概念を用いて立体的な感覚で階層化する。同じように文章を構成する時でも、抽象化と階層化の思考が働く。言わば、プログラムも文章も複雑系にあると言っていい。複雑系を解析するには、抽象化手法が有効であり、数学や科学の難問解決でも見られる。物事の本質を探究しようとしてきた人類の歴史は、抽象化の歴史と言ってもいいだろう。本書も、文脈と文脈、あるいは、文章構造と文章構造を結びつけるには、立体的な感覚が必要であると語る。この結びつけの役割を果たすのが接続詞である。接続詞には、上位から下位への移行を予告する役目があるという。そこには、構造化された巧みな思惑のもとに、読み手を誘導する用法が隠される。文章構造全体を視野に入れ、話題の分岐点を示したり、読み手の連想を助けたりする。あわよくば、論理性の高い文脈に装うこともできる。決して行き当たりばったりで使うものではないようだ。読みやすい文章は上位構造から下位構造へと整理される。なるほど、アル中ハイマーの文章は支離滅裂でスパゲッティプログラムなわけだ。どおりで、文章に酔うと「君に酔ってんだよ!」と囁きながら、ゲロ(core)を吐くわけだ。
1. 接続詞の定義
接続詞の一般的な定義は、文頭に位置して、直前の文章と論理的に繋ぐための表現といったところであろう。これに対して本書の定義は、独立した先行文脈の内容を受けなおし、後続文脈の展開の方向性を示す表現としている。そして、接続詞は、論理学のような客観性よりも、むしろ、人間的で主観性の領域にあるという。著者は、こうした理由から、学校の試験問題で接続詞を選択させる問題を好まないと言っている。
「接続詞の論理は、論理のための論理ではなく、人のための論理なのです。」
言語は、論理的命題を明確にすることが目的ではなく、コミュニケーション可能であることに注目すべきだと主張している。なるほど、解釈の論理は、個人によって様々である。機械的に処理することを前提とした文法論では、人間の持つ解釈を説明できないのも確かであろう。
2. 接続詞の二重使用
本書は意外な手法を紹介してくれる。接続詞の二重使用である。「しかし、だからといって」、「そして、また」、「しかし、一方」など。ここで、中学時代の嫌な記憶がリフレッシュされる。「そして、また」を使って作文すると、国語の先生にこれは日本語ではないと指摘された。しかも、作文の悪例として、皆の前で読まれ思いっきり馬鹿にされた。感情を表すのに、形式化によって抑圧される学問なんて、好きになれるわけがない。以来、国語の成績を運命付けられることになる。こんな記憶素子はそのまま死んでほしかったが、余計な素子ほど長生きするものだ。ところが、その例がここで紹介されるのはうれしい。この一見無駄に見える二重使用は、似た意味の接続詞を重ねることで意味の限定や補足、異なる意味の接続詞を重ねることで複数解釈を提示、指定する範囲の異なる接続詞を重ねることで重層的構造の提示、といった機能を担うという。
3. 芸術性
詩的な文章は、音律のリズムが良く文字数も美しいので、接続詞がなくてもなめらかである。そこに芸術性を感じるのも自然であろう。ところが、文学作品にはわざわざ読み辛くしているかのような技法も現れる。それが、不思議なことに芸術性を高める。人間は、ちょっと難しそうに見えるものに惹かれるのかもしれない。芸術は形式的なものからは生まれないと信じてはいるものの、やはり芸術度の解釈は難しい。書き手は、しばしば読み手も同じ視線で解釈するだろうと勝手に思い込む。しかし、人間の立場によっては、楽観的な文脈も悲観的に伝わることがある。その立場の違いは、接続詞の持つ意味すら変えてしまう。そうなると、接続詞を省いた方が純粋な情報として伝わるだろう。理解を助けようとしたがために、逆に理解を阻害することにもなる。結局、これが正解という形式化された用法は存在しないということか。
4. テクニカル・ライティング
通常、文章を先に書いて、それを繋ぐために接続詞を埋めると考えるだろう。ただ、本書はその逆を提案している。まず、接続詞を置いて、その間に文章を埋めれば、骨組みがしっかりして、読みやすい文章になるという。なるほど、これはプログラムで使う発想である。
他にも具体的な方法として、欧米由来の作文技術「テクニカル・ライティング」を紹介している。それによると、第一に段落が重要で、一つの段落には一つの考えを述べる。第二に、その段落の内容を端的に述べる中心文(トピック・センテンス)を一文含む。第三に、書き手の言いたい内容は先に述べるように心がけ、中心文は原則として段落の冒頭に置く。という三点が重視されるという。
これが万能な手法かどうかは別として、文章を書くのが苦手な酔っ払いには参考になる。しかし、中心文がどれか?を書いている本人が判断できないから困ったものだ。したがって、何が言いたいかを読者に委ねたい。酔っ払いは他力本願なのだ。その証拠に、いつも行付けの店からお迎えがやって来る。
2009-05-31
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