人間は、近視眼的な利害関係に基づいて行動することが多い。その一方で、歴史で育まれた理念や思想といったものが、しばしば行動を動機付ける。奉仕や援助、あるいは名誉や評判なども利害関係で説明できる。人生の目標が金儲けだけではなく、精神の追及といった哲学的動機も現れる。自らの不幸な境遇から、人道的に目覚める人もいるだろう。空虚な浪費に命をかける人もいれば、根拠のない未来のために貯蓄に生き甲斐を持つ人もいる。身近の幸せよりも、将来の幸せを夢みて投資する人もいる。なにがなんでも長生きしたいと思う人もいれば、短い人生を謳歌しようとする人もいる。こうした動機は、その人の理念に裏付けられた利害関係で説明できるが、その多様性には限りがない。
著者マックス・ヴェーバーは、そうした社会学的な観点から経済学を眺めている。アル中ハイマーは、ずーっと経済学は胡散臭いと思っていたが、今宵は経済学にも素晴らしい遺伝子があることを知って感動している。本書をなんとなく手に取ってみたのは、森嶋通夫氏がその著書「思想としての近代経済学」で、ヴェーバーについて熱く語っていたからである。ヴェーバーは、営利追求を敵視するピューリタニズムの経済倫理が、実は近代資本主義に大きく貢献したと主張する。そこには、比較宗教社会学から迫った論究が展開される。本書の訳者大塚久雄氏は、ヴェーバーの考えの根底を次のように記している。
「近代資本主義の発展は、資本主義に徹底的に反する経済思想が公然と支配してきたような、そういう地域でなければありえなかった。」
本書は、間違いなく経済学の歴史的名著であろう。
ヴェーバーが、近代資本主義の源流を宗教的観点から、切り崩しにかかったのは、大きな貢献と言える。今日の多くの経済学者ですら、目の前の経済現象を観察することぐらいしかやらないのだから。本書は、その源流を宗教改革に求め、資本主義が隆起した時代背景を物語る。ヴェーバーは、ルターを始めとし、特にカルヴァン派にその源流があると主張する。宗教改革以前、西欧では宗教が個人形成に大きくかかわり、現在では想像もできないほどの影響力があった。霊的司祭や教会規律といった教説による聖職者の感化が強かった時代である。こうした背景において、宗教心理に着目して人間の行動様式を考察するのも悪くない。人間の行動様式は慣習に深くかかわる。人間にとって重要なのは「生き方」であろう。「生き方」の信念を、宗教や哲学、あるいは、独自の思想など、何を拠り所にするかは様々である。無宗教者であっても「生き方」という信念を持っている。宗教は「生き方」を説く一つの手段に過ぎない。したがって、本書の意義は、宗教というよりも人間の慣習として資本主義を捉えようとしたと解釈したい。人間は宗教に頼らなくても何かを信仰できる。その執念が仕事への動機ともなろう。そこには、匠の世界、洗練された世界といったものが現れる。仕事に夢中になり精神がフロー状態になった時に、一種の心地良い領域へと導かれる。無我の境地とでも言おうか、精神が無と化した崇高な感覚がある。すべてを、無とした時、人間は超人的な能力を発揮することがある。そして、信仰が無と化した時、精神は崇高な概念へ導かれるのかもしれない。
本書は、資本主義の精神を生んだのは、プロテスタンティズムの禁欲的精神にあると主張する。しかし、宗教改革や禁欲的な精神が資本主義を意図していたわけではないので、資本主義を促進する役割を果たしたに過ぎないとも言っている。なんとも奇妙な説である。資本主義は利潤追求の営みとして成り立つのであって、利潤追求がなくなれば資本主義は成り立たない。多くの人は、商業の担い手が営利精神を動機付け、営利原理が社会に浸透した結果、資本主義が生まれたと考えるだろう。ここで言う禁欲とは、修行僧のような消極的な禁欲ではなく、むしろ積極的な行動である。それは、パウロの「働かざるもの食うべからず」に象徴される。つまり、ひたすら天職を全うし、勤勉によって他の物欲を抑制するということである。この禁欲を世俗的に広めたのが、キリスト教の中でもプロテスタンティズム特有のものであるという。ヴェーバーの歴史観では、中国やインド、ギリシヤやローマでは、キリスト教的な商業に対する倫理規定はなく、むしろ、はるかに自由だったという。中国にいたっては、公然と儲け話を語り、商人根性丸出しであっても、社会的反感などは見られない。こうした遺伝子は、現在においてもIT情報開示制度で見られる設計情報を開示しないと中国では商売させないといった露骨な政策にも引き継がれているような気がする。ヴェーバーは、こうした土壌では近代資本主義の兆候が見られないが、逆にアメリカやイギリスといった禁欲的なプロテスタンティズムの地域で近代資本主義が根付いたと分析している。しかも、カトリック系には見られない現象だという。プロテスタンティズムには、実業家の暴利を最大の悪事であるとする倫理観が根強くあるらしい。人間は神の恩恵によって与えられた財貨の管理者に過ぎず、財貨の報告義務があると考える。したがって、帳簿の誤魔化しは大罪となる。これは、西欧式の契約や、西欧式の会計基準や複式簿記などで受け継がれるように思える。現在では情報の透明性といったところだろうか。だが、現在ではこうした国々で貧富の格差が大きいのも皮肉な結果と言えよう。日本にも禁欲や勤勉を美徳とする文化があり、似たような土壌がある。だが、会計基準などに透明性を欠く体質が見られるのも、真の意味での資本主義が浸透しているとは思えない。
通常、資本主義を語る時は企業家の精神を議論することが多い。だが、ヴェーバーの特徴で注目すべきは、企業家だろうが労働者だろうが、人格形成を対象としているところである。そもそも、企業家と労働者で、資本主義の精神を分けて議論すること自体が、人間の精神の本質を無視しているだろう。人間が労働する真の目的とは何か?この問題と正面から対峙すれば、誰かの命令で行動するにしても、責任のなすり合いなど起こるはずがない。安定した経済システムを継続するには、職業的倫理観を無視することなどできない。しかし、現実には、企業が長期間に渡って規範から外れ、世間から抹殺される現象がある。職業的観念を無視し顧客への責任を果たせず、しかも、従業員を失業へ追い込み労働機会をも奪う。ヴェーバーは最後に次の言葉で、本書を締めくくる。
「文化発展の最後に現れる末人たちにとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。精神の無い専門人、心情の無い享楽人。この無の者は、人間性のかつて達したことのない段階にまで、すでに登りつめたと自惚れるだろうと。」
現在では、「神の見えざる御手」に代表される自由放任派と、ピラミッド造りさえ容認し公共事業の重要性を訴えるケインズ派が対立する。もっとも、日本の公共事業は、バラマキ政治を助長し、ピラミッドよりも悪質な公共施設が乱れ建つわけだが。いずれにせよ、資本主義の精神を無視した論争が繰り返される。歴史は、資本主義の発達によって、人間を富ませてきた。富は人間を盲目にするのか?経済学は、むしろ退化してないか?「経済学を勉強すれば利己的になる」という仮説すらある。個人財産を増やすために、物欲や拝金主義と向かい合う。そして、究極の目標は富裕となるだろう。実際に、財貨獲得に熱を帯びる一方で、巨大な富を持ちながら、簡素な生活に甘んじている人もいる。いつの時代でも、投機的指向と、労働生産による蓄財という考えが共存する。植民地支配で搾取する一方で、産業革命のような労働生産力で席巻する様式が現れる。あらゆる対立構図をバランスさせる社会システムを構築することは難しい。神はなんと難しい問題を人類に課すことか。
本書は、近代の企業家が、労働者から可能な限り、その労働力を搾取することが、優秀な経営者とされる考えに異論を唱える。企業家は、常に生産効率を追求する。だが、目先の利潤だけが利益ではない。労働者の叡智を養うのも組織の利益となる。労働者側も、賃金だけが収入ではない。労働意欲を誘導する体質と、その達成感や充実感も収入である。本書は、資本主義が発展する上で障害となるのは、倫理の衣をまとった伝統主義であるという。ここで言う伝統主義とは、ひたすら昔からの慣例に従い脳死状態になることであって、守るべき良い慣例を無視することではない。銀行業務や海外貿易は、伝統的性格の下で独占と統制によって成り立ってきた歴史があるという。資本主義が発展する上で、重要な要素は革新的態度であろう。伝統的な慣例の良さを実感するためにも、常に革新的態度で検証し続ける必要がある。
1. ルターに始まってカルヴァンへ
職業を意味するドイツ語の「beruf」は、神から与えられた使命といった宗教的観念がこめられているという。この言葉は、ゲルマン民族に関係するものではなく、聖書の翻訳に由来するという。しかし、カトリックには、これと同じ語調の表現を見出すことができないらしい。カトリック教会が命令と勧告とで支配するのに対して、プロテスタントは職業が天職として道徳性を高めると考える。ただ、ルターが資本主義の精神を持っていたとも思えないし、高利貸と利子取得を批難する立場であったことは、ヴェーバーも認めている。そもそも、宗教改革の目的が資本主義にあったわけではない。ルターの思想は、単に聖書に立ち返っただけとした説も多い。歴史家ランケの著書「世界史の流れ」でも、そのように記されていた。だが、ここではやや意外なことが語らえる。それは、聖書はむしろ伝統主義にとって有利であり、道徳重視などとは全く書かれていないという。これは、明らかにルターの影響で、宗教改革の産物だという。ただ、神の御心に立ち返るという意味では、カトリック教会を激しく批判する立場であることは間違いないようだ。ルターの評価も、歴史家によって微妙な解釈の違いが見られるのも興味深い。ルターの思想には、人間の謙遜的立場がある。地上の正義という尺度によって、神の導きを押し量ろうなどは、恐れ多いことだ。そうなると、牧師の存在意義ってなんだ?単なる宗教評論家か?世間には、神の意志を継ぐと自称する人間があまりにも多い。結局、抗争の中でルターの新思想は阻止された。そして、実質的に功績を残したのはカルヴァン派ということになる。カルヴァン派の思想は、当然カトリックと対立するが、ルター派とも性質が違うという。天職理念を基礎付けたのは、カルヴァン派に始まるピューリタニズムで、クロムウェルのピューリタン革命だという。
2. 富とは、労働とは、仕事とは
資本主義とは、富を追求することだと考える人が多いだろう。では、富とは何か?プロテスタンティズムでは、功利主義を世俗的なものにし、富を道徳的完成のために使うという。経済的余裕は、精神を落ち着かせ、読書したり芸術に浸るなどの環境作りにも役立つ。このような人格形成のために富を使うことが、富の本質なのかもしれない。ここでは、富を悪とする理由を、そこから怠惰が生まれ、肉欲や物欲に走るからとしている。人々は金儲けのために、生活のために労働する。そして、ひたすら労働に励めば蓄財できる。禁欲すれば、更に蓄財することになる。なにも富裕自体が悪というわけではない。
では、労働とは何か?プロテスタンティズムでは、神から授かった天職だと考える。これはカルヴァン派の「予定説」から派生している。神が、一部の人々を永遠の生命に運命付け、その他の人々を永遠の死滅に運命付ける。その神の恩恵が受けられる人間が、誰であるかなど分かるはずもない。人間がどんなに神に尽くしたところで、人間の行為によって神の意志を変えることができるなどと考えるのは、神を冒涜することである。ただ、ひたすら神の栄光を讃えるのみ。その手段が社会的な労働であると考える。
では、仕事とは何か?詐欺行為までして働くことに意味があるのか?そこで隣人愛という倫理観が浮上する。人を陥れるような仕事は天職ではないが、労働者の意志に反して、結果的にくだらない仕事に付き合わされることはある。本書は、個人が仕事の定義をしっかりと持つことこそ肝要であると語る。これは、誰が言ったか?「お客様は神様です」といった論理にも通ずるものを感じる。多くの人にとって労働は、倫理的義務というよりは、自然目的で生活に必要だから働く。その中に犯罪行為も現れる。まさしく経済倫理のジレンマはここにある。利息生活者や年金生活者であっても、仕事を見つけることはできる。それは金儲けに拘らなければ、個人的な活動は方々に開かれている。人類の実益のために働くという思想が、カルヴァニズムにおける倫理の功利主義といったところであろう。「予定説」という人間には結果の知る由もない思想が、素朴な勤労意志に向かわせる。人間には、結論の見つからないものに素朴で夢中になる習性がある。この素朴な精神が科学を発展させたとも言えよう。カルヴァニズムは、労働の地位を義務へ強化したと見てとれる。なるほど、しばしば仕事が救いを与えてくれるのを感じることがある。独立で事業をやっていると、仕事が満遍なく入るわけではない。よって収入も安定しない。忙し過ぎるのも精神に不安定をもたらすが、仕事がないと不安感に襲われ、何かしていないと落ち着かない。暇な時には、勉強に心の安穏を求めることがある。そして、金にならない仕事を無理やり見つける。生活に不安を抱えるということは、精神を勤勉に向かわせる機会を与えているのかもしれない。アル中ハイマー曰く、「怠惰を求めて、勤勉になる。」
3. 世俗的禁欲
ピューリタンの紳士とは、平静で寡黙な態度で、現在においても西欧紳士として受け継がれる。それは、謙遜と敬虔な心を理想としているのだろう。高僧や役人たちのとり乱した怒号や罵りあいといった態度は軽蔑され、自己抑制された態度は尊敬される。したがって、概して政治報道はR-18指定するがよかろう。
ピューリタニズムの禁欲は、合理的な禁欲で、一時的な感情を抑制し、持続的な動機を固守することだという。そして、本能的な享楽を絶滅することを課題とし、秩序ある生活態度を目標にするという。この考えは、カトリックでもカルヴァン派でも一様に見られる傾向である。だが、カルヴァン派には福音的勧告がなくなり、禁欲が純粋に世俗的なものに変わったという。特に、カトリック教会による免罪符の販売は、世俗的に広めるのを妨げた。カトリックでは、宗教的な道徳は高貴な地位にあり、修道士のみに限られるという。これは、一種のエリート意識の誇張で、縄張りのような感覚であろう。こうした傾向は、宗教に限らずエリート組織には一様に見られる。ルターは、この世俗的禁欲こそ重要だと考え、修道士と庶民の区別を無くそうとし、プロテスタンティズムは全人類の人格を掌握しようとしたという。これは、精神に自己審査や自己規制を形成するのであって、修道院的な教団組織へ導くような強制的で共産主義的な性質とは全く違う。禁欲を世俗的に広めることこそ、社会形成に必要だという思想である。とはいえ、欧米には、民族間で搾取しあう凄まじい闘争の歴史がある。資本主義の継続的繁栄には、自己抑制、世俗的禁欲、勤勉、利潤追求などをバランスする必要があるということだろう。そこには、敬虔的な発展とでも言おうか、言葉では表現の難しい微妙な概念がある。カルヴァン派の影響は、営利を求めるエネルギーを自由の概念に解放させたという。
4. 資本主義の精神と合理性
道徳の緩みや、成金的な見栄は、禁欲にとって嫌悪される。その一方で、市民的に目覚め、自力独行する人は、倫理的に賞賛される。階級社会を嫌悪し、産業を市民階級に広める経済活動は、良い傾向であろう。そこで見られる現象には、市民的な運営と、労働の合理的組織がある。これに対して、ユダヤ教的資本主義は賤民による政治介入、あるいは投機を指向する冒険商人の資本主義であるという。同じ資本主義でありながら、こうした立場の微妙な違いは、投機と労働生産を対立させるように、現在においても受け継がれる。人間は神の財産を管理する召使であり、営利機械として財産に奉仕するということは、不断の労働によって財産構築に励むということになり、財産を増やす責任があると考える。これが、禁欲的プロテスタンティズムから派生する資本主義の精神だという。財産に無頓着な享楽を批難し、必要以上の贅沢を嫌いながら、その反面、財の私有を伝統主義から解放し、利潤追求を合法化したばかりか、それを神の意志とする。そして、肉欲や物欲の執着といった非合理的な財貨の使い方を排斥すべきであると考える。ピューリタニズムの人生観は、市民的な、経済的に合理的な生活態度へ向かう傾向であり、単なる資本形成の促進などではない。しかし、人間の本能は富の誘惑に無力だ。資本主義の高度な発達が格差を助長することは、資産による階級制度の構築であって、いわば階級社会という旧態社会への逆戻りと見ることができる。階級はなぜ生じるのか?その根底には、収入の格差、財産の格差、権力の格差、能力の格差、認識の格差と様々な要因が潜む。人間の本能である嫉妬心は善にも悪にも働く。ライバル意識、競争意識が経済を発展させ、人間を成長させるのも事実である。したがって、格差を全面否定することはできない。ただ、政治的な恣意による格差には抵抗がある。真の金持ちというのは、くだらない見栄を張らず、勤勉に励むものなのだろう。だから、より巨大な財産が築けるのかもしれない。だが、富を増したり、権力を増すところには、もはや精神の信仰は薄れていくように映る。投機指向で生まれた財産は、精神的財産を奪い、総合的に得られる財産という意味では大して変わらないのかもしれない。ヴェーバーの時代で勝利した資本主義には、もはや禁欲の精神は必要ないかのようだ。ヴェーバーは、営利の最も自由なアメリカでは、すでに倫理的な意味は無くなり、純粋な競争の感情に支配されていると指摘している。もはや、企業活動はスポーツ感覚であるとさえ述べている。だが、いずれ資本主義の行き詰まりによって、プロテスタンティズムによって隆起した資本主義の精神が、呼び戻されるかもしれない。いや、そのまま化石となる運命かも?
2009-05-24
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