2009-05-17

"思想としての近代経済学" 森嶋通夫 著

アメリカでは「too big to fail」という言葉が流行っているらしい。つまり、でかすぎて潰せないってことである。企業の巨大化によって公的資金が流入するのであれば、もはや国営化と同じだ。人間が社会の疎外を問題にしはじめた時代、小企業が大企業に吸収されながら更に巨大化し、英雄的企業はいずれなくなるだろうと予測された。やがて、巨大企業内にできる官僚的な経営者によって革新が止まる。巨大な企業では、工場や従業員を把握することができなくなり、実体すら掴めなくなる。その所有者は何を所有しているのかも実感できなくなる。かつては、私有財産に愛着を持ち、企業や仕事に情熱を持って資本主義は発展してきた。しかし、巨大企業下では、所有そのものに魅力がなくなるのかもしれない。そして、私有財産の概念を崩壊させるのだろうか?資本主義を維持するためには革新が必要である。創造と破壊の共存は、人間社会の原理において本質なのかもしれない。

経済学というと、ずーっと前から胡散臭いイメージしかなかったが、本書はその認識を多少なりと変えてくれる。それにしても、この本に辿り付くまでに随分と道草をしたものだ。科学的な解析が要求される分野にもかかわらず、数学が必須でないことも胡散臭さを助長させる。また、新古典派とケインズ学派の対立が、大して政策の変わらない政治家同士の罵りあいに似たものを感じる。相変わらず、自由放任派とばらまき派は論争を繰り返す。近年でこそ、社会学をも含めた統合的な立場の学者が少なからず現れているが、それでもマスコミなどで露出される経済評論家ほど野暮ったいものはない。政治論争の目的が、社会を良くすることではなく選挙にあるから、それを尻目に官僚は悠々とできる。では経済論争の目的とは何か?経済学者の威信を保つためのものか?経済学者は株価の予想が当たると誇張する習性があるようだ。まるで予言者であるかのように。人間は必ずしも論理的に行動するとは限らない。ほとんどの意思決定は、衝動的で感情的になされる。全ての行動規範を効用分析や利潤分析だけで説明できるはずもない。人の行動論理は個人の中にある。買収行為にしても、利潤がなくても競争相手を一つ消すことによって、自らの安泰を図るという論理が働く。憎しみや恐怖心といった感情によって買収することすらある。逆に、利益があると分かっていても、経営者に興味がなければ買収しない。経済活動が合理的で論理的になされるならば、人間社会は単純な仕組みとなろう。結局、経済活動は評論家の後付けで説明されるわけだ。経済学はイデオロギー論争で迷走する。この学問は、人間の行動や社会システムを相手どった破壊のカオスの中にある。無謀な形式化よりは迷走していることを認識できる方が、まだましである。この複雑系を一つのイデオロギーで説明できるとは到底思えないのだから。

どんな学問でも、歴史背景から生まれた思想や哲学がある。その中で、一時的に外れた理論が登場するのも、試行錯誤の中で生まれるだけのことであり、目くじらを立てることもない。先人達の失敗があるから、洗練された理論が構築できるというものだ。ところが経済学の書籍を探すのに、思想や哲学に踏み込んだ本を見つけるのが意外と難しい。それも、名著が少ないわけではなく、あまりにもノイズが多いためであろう。しかし、一つ出会えれば参考文献から辿ることができる。経済学者の思想を自分なりに解釈するには、原書を読むのが一番である。しかし、おいらは経済学の専門家でもなければ、専攻したこともない。そんなド素人が、経済学の著作を読みあさるのも面倒である。よって、本書の存在意義は大きい。お陰で、やっと経済学が歴史や哲学と結びつきそうな気がする。著者森嶋通夫氏を知ったのは、小室直樹氏の著書「経済学をめぐる巨匠たち」の中で、日本で最もノーベル経済学賞に近い人物として紹介されるのを見かけたからである。そう言えば、経済大国と言われる日本でノーベル賞級の経済学者が一人もいないというのは不思議である。

本書は、NHK教育テレビ「人間大学」講座をもとに大幅に拡充したものだという。そして、経済学はどのような価値観や社会像から形成されたのか、経済理論に潜む思想やビジョンを語ってくれる。その対象は、リカードに始まりケインズの登場によって終わる「セイの法則」の時代に登場した11人の経済学者である。いわゆる、新古典派からケインズへ移るあたりまで。その人選は著者の好みによる。ただし、生存者は選考外にしたという。
「セイの法則」とは、お決まりの「供給が需要をつくりだす」という思想である。生産しただけ物が売れるとした考えは、資本主義の勢いづいた過渡期ではあり得る。リカードは軽率にも「セイの法則」に則ったが、それが誤っていると多くの経済学者に批難された。ところが、その指摘した彼らも、この法則がどの範囲で害を及ぼすかを知らなかったために、意識では排除しながらも、他方では無意識に仮定するという矛盾を犯したという。マルクスは「セイの法則」を激しく批判しながら、「再生産表式」ではこれを前提にしたという。ワルラス、シュンペーター、ヒックス、ヴィクセルらも、どこかの段階で「セイの法則」を前提にしているという。この法則がもたらした最悪なものは、完全競争経済では完全雇用が成り立ち、「神のみえざる御手」の摂理が、この世を裕福にすることを立証してしまったことであろう。本書は、その結果、自由放任派を勢いづけ、マルクス主義を抹殺してしまったのは不幸な出来事であると語る。そして、この自由放任派が、一部の人に近代経済学の如き錯覚を与えてしまったことを嘆いている。
また、「セイの法則」を掘り下げて、「耐久財のジレンマ」の問題を取り上げている。これは、あらゆる耐久財の純収益が利子率に等しいという条件を持ち込む時に問題になるという。価格の仕組みでは、需給の関係によって価格が変動する市場と、価格が固定される市場に大別できる。とはいっても、現実の経済では市場は一様ではなく、また取引される財も一様ではない。財は耐久財と消耗財に分類でき、消耗財は腐敗財と非腐敗財に分類できるが、技術の進歩にともないその分類も変わってくる。使い捨ての消耗財は腐敗財となるが、それが再利用されれば非腐敗財に変わる。技術革新によって、市場のタイプや財の分類は流動的なものとなり、経済の主体も多様化する。これら全ての経済要素を一様と考えるのは無理である。近代社会では、耐久財の占める役割はますます大きくなり、耐久財を無視した経済論は無意味であろう。
ケインズが登場するまでは、「セイの法則」が背後霊のようにつきまとう。ケインズが言及したのは、「セイの法則」が成り立たない状況下であって、その場合は投資を国家管理し、再び投資が軌道に乗れば、経済は自由化すべきだと主張したものだという。ケインズは、失業問題を経済的自由より優先すべきだという価値観を持っていたという。そして、彼は失業問題を無視する資本主義は存続に値しないという視点を生涯持ち続けたと語る。

本書で注目したいのは、官僚制に言及するヴェーバーの考えである。そこには、たとえ私企業であっても、成功のために巨大化する過程において、官僚体質が生まれるのは必然的であると語られる。社会主義体制が、官僚制を肥大化させて腐敗しやすいことは理解できる。だが、どんな優れた体制であっても、長期化の中で官僚体質が生まれる。これは、人間に潜在する本質なのかもしれない。バーで、「今日は特別にお客さんだけに、このボトル開けますよ!」なんて言われれば嬉しくなって、つい通いつめてしまう。クラブで「あなただけ!」なんて言われればいちころだ。こうした特別扱いされ自尊心をくすぐられるのも、官僚精神の入り口に立っているのかもしれない。逆に、人間が最も激怒するのは、自尊心を傷つけられることであろう。

本書は、もはや純粋資本主義は欠陥体制であり、近代資本主義は、バランスされた混合経済でなければならないと主張する。それは、資本主義部門と福祉や教育部門の複合体である。福祉や教育部門が過大となっても経済を支えきれない。社会主義にしても、単純な楽園ではなく、非効率経済を拡大させ、官僚体質に裏づけられた社会主義的搾取という悪魔が潜む。
シュンペーター曰く、「資本主義の衰退は、その失敗ではなく、その成功に基づいて生起する。」
資本主義の枯渇によって社会主義が生起すると主張する評論家も多いが、この言葉の方が説得力がある。パレートによると、自由主義は理性に訴えるが、社会主義は感情を利用するという。社会主義は情熱で大衆に訴え、この情熱こそが社会主義の源泉であると考える。この仮説を信じるならば、理性と感情のバランスは人間の本質とも言える。そして、経済システムが人間社会に密接にかかわる以上、資本主義と社会主義のバランスは無視できない社会体制とも言えよう。社会主義を称賛するつもりはまったくないが、その要素を少し取り入れることによって資本主義の改良版として位置付けることはできそうだ。
以前から、おいらは、社会主義がなぜロシアで起きたのか?という疑問を持っている。学校教育では、資本主義の枯渇によって生まれたと教える。もし、社会主義が資本主義の枯渇によって起こったのであれば、なぜ資本主義の成熟したイギリスやアメリカではなく、資本主義後進国のロシアで起こったのか?今日、既に社会主義やマルクス主義は崩壊したと言われる。しかし、今まで出現したものは本当に社会主義だったのか?社会主義者と自称してきた連中は、本当にマルクス主義を理解していたのか?本書は、こうした疑問にも少し答えてくれる。崩壊したソ連体制が、マルクス主義の代名詞のように言われるのは不幸であろう。本書は、マルクスは資本主義を前提にしているという。ロシア革命をマルクスの「資本論」の立場で見るのは頑固な態度のように映る。資本主義が市場主義に偏ると独占が生まれ、社会主義に固執すると自由が失われる。社会主義を拡大解釈して、私有財産を全て国家権力が管理するという思想は傲慢であろう。そして、権力の立場に偏った共産主義の姿が見えてくる。事実、ソ連は国民からの搾取が耐えがたいほど高度に発達していた。一党独裁では監視機能が働かないので、搾取が続いても是正されることはない。これは日本の官僚体制の中にも見て取れる。日本では自民党の独占という現象が続くが、一党独裁ではない。政治家が癒着して、その監視がとどかない官僚腐敗が共存する。もはや、政治家や議会の役割が機能しない特有の官僚独裁体制がある。となると、社会体制を健全にするための手段は、イデオロギー論争などはどうでもよく、ただ一つ、情報の透明性を求めるしかないだろう。イデオロギーや思想なんてものは絶えず変化するのだから。

歴史の考察は、たいてい時代順に追うものであるが、本書の特徴は、歴史の順序よりも理論の順序を大切にしているところが理解しやすい。理論の発展は、時代順にあまり依存しないことも多い。人類が時代とともに進化するというのも疑わしい。人間の精神はゆらぎの中で成長する。あらゆる学問において、登場が早過ぎたために相手にされなかった理論を見つけることができる。

1. 経済学の主な流れ
経済学には4人の巨匠がいる。アダム・スミス、デヴィッド・リカード、カール・マルクス、ジョン・メイナード・ケインズ。「経済学の父」と呼ばれるスミス以来、経済学は伝統的に、人間は私利を追求するものと考え、企業は利潤の極大を追求し、個人は効用の極大を求めると考える。そして、利益追求の自由が保証される社会を問題にしてきた。リカードは純粋経済学の創始者とされるが、これは近代経済学であることから「近代経済学の父」に値するという。マルクスは対立する立場のように思っていたが、本書はマルクスとリカードは理論的には似ているという。また、ワルラスもリカードと独立した学派と見られがちだが、これも似ているという。したがって、リカードの偉大な後継者が、マルクスとワルラスということになるそうな。リカード、マルクス、ワルラスは、近代経済学の第一世代に属し、三者の原点は同じだという。そして、マルクス派から、ルドルフ・ヒルファーディングやローザ・ルクセンブルクなどが現れて、100年以上に渡り論争を繰り返した挙句に変貌することになる。リカードは「セイの法則」を持ち出した。供給が需要を牽引するとは、完全に需要分析を無視している。そして、容易に完全雇用が成立すると考える。だが、需要が少ない時には、生産は沈滞し失業が生じる。そこで、需要分析を中心としたケインズが登場する。ヴェーバーの唱えたプロテスタンティズムが資本主義の精神を興すというのも、「セイの法則」の成り立つ条件下では通用するが、そもそも節約や禁欲は経済循環に悪影響を及ぼす。第一次大戦後、生産力は高水準だが停滞し、技術発展の可能性も乏しくなる。こうした状況下では、経済革新の余地はほとんどなくなり、投資は低水準、生産活動も沈滞、完全雇用どころか大失業時代となった。そして、経済に政治介入の必要性を認める。手っ取り早いのが小規模の戦争を行うことであろう。軍備拡張は雇用増大に貢献する。そして、帝国主義が台頭した。欧州ではヒトラーのアウトバーン建設や軍備拡大、アジアでは日本が大陸進出、アメリカではルーズベルトのニューディール政策が現れた。経済不況下の公共事業は、戦争でもピラミッドでもなんでもありとなる。ここにケインズ理論の弱点がある。マルクスは、富める人はますます富み、貧乏人はますます貧乏になるという両極分離を指摘しているという。そこで、資本主義社会では、福祉厚生活動を振興し、救貧対策を講じなければならないとなる。良質の福祉、厚生、文化、教育の構築がなければ、資本主義を永続することはできない。本書は、経済学は物質的な構造分析を課題としてきたが、社会学的な構造分析がなけらば、暴動や革命が起こると指摘している。「神の見えざる御手」にすがる自由放任主義は、世界恐慌から第二次大戦後には衰えを見せる。しかし、共産主義の失敗を絶好の批判材料にして、新自由主義の政治家が盛り返す。イギリスでは、その代表のサッチャーが経済対策で大失敗したと指摘している。イギリスでは、資本主義から社会主義へと温和にバランスしつつある中、急進的に逆転させ貧富の格差を拡大してしまう。サッチャー以前から、資本主義と社会主義の綱引きはある。これは、資本主義をより洗練させるためには必要な過程なのかもしれない。しかし、サッチャーは急激な社会変化を望んだという。これは、彼女の意識が自由放任主義に偏り、時代認識を間違えたために、やり過ぎによって資本主義を崩壊させたと評している。

2. 人口論
世界恐慌時代に生じた大量の失業は人口論ともかかわるだろう。資本主義経済における最適な人口数とは?人口増加は、新たな資本を生み出さなけらば養えない。その解決策で軍備拡張すると、戦争に捧げるために子供を産むことを奨励するという矛盾が生じる。多くの経済学者は、人口はねずみ算的に増えると考えるが、人口増加の現象は自然法則なのだろうか?地球の資源にも限界がある。リカードは、有限の土地に人口の適応を論じたという。そして、一定の率で伸びていく人口に資本がどのように適応するかが問題になってくる。更に、人口問題は、量の問題ではなく質の問題となる。高田保馬は、人口の質と量を問題にし、ヴェーバーは人口の質の変化を問題にしたという。現在、日本では少子化問題を叫びながら、一方で若年層の失業問題や派遣問題などの矛盾がある。晩婚化が進んだり、生涯独身派が増えるのも、人生の多様化という社会問題であって、経済学だけでは説明がつかない。フリーセックスは、結婚するよりは生殖率も下がるだろう。人口増加に歯止めがかかるのも、人間が社会の息苦しさを認識し、生物学的に防衛本能が働いているのかもしれない。ヴィクセルは、二つの理由から人口制限論者であったという。一つは、戦争防止のためで、二つは労働福祉のためである。ヴィクセルは、労働時間の短縮よりも人口を減少すべきだと主張したという。しかし、人口論を持ち出すと、少子化問題を訴える連中から白い眼で見られるのは必至だ。

3. 労働市場
奴隷売買の経験のある国では、労働市場は奴隷市場の代替物ないしは近代版と意識されるという。したがって、なるべく奴隷の記憶を想起させないために、労使関係には労働者の自由を保障するように過敏に反応するという。これに対して、日本のように奴隷売買の経験のない国では、無神経に労働者を奴隷的に扱うという。終身雇用は労働者の忠誠心を表す美徳と考える人も多いが、西欧では一生に渡る締め付けを奴隷的と見なすらしい。労働市場は人間的であるから、倫理観が介入するのも自然である。欧米労働者の主な動機は、自分を他人よりも優遇せよという利己心ではなく、労働者の公平を要求するという。したがって、部下に対して不公平だと見られた管理者の下では誰も働かないらしい。労働賃金は、職種ごとの需給関係で決まるのではなく、賃金の相対比は倫理的に妥当な比率を重んじるという。とはいっても、職種の価値を人間が判断できるものではない。賃金の絶対水準を自由に調節したところで、すべての職種で完全雇用することは不可能である。経済学が伝統的に仮定してきた労働市場は、極めて非人間的である。古くから経済学者は、賃金から得られる限界効用が、労働のもたらす限界不効用と等しくなる点まで働くという原則を適用して労働分析をしてきた。このような世界では、過労死などありえない。人間関係は伝統や慣習にも影響され、倫理的な拘束も民族の歴史や社会的事情として受け継がれる。このような分析は、最初に高田保馬によってなされたという。だが、伝統的に西欧の経済学者は、一貫して無視してきたという。ヒックスは、この高田保馬の考えに接近しているという。

4. 官僚制
ヴェーバーの重要な研究に官僚制があるという。一般的に官僚とは、政府ないし公共団体の職員である。しかし、ここでは軍人や大企業も含む。大会社の社員は「私的大経営の官僚」に属す。本書は、会社官僚がどのような意識、どのような人生目的を持って行動するかを、一般労働者と対比して分析している。会社経営陣が、一般労働者を評価できるのは、経営体が小規模である場合に限るだろう。会社が大規模になれば、中間管理職も増え、経営陣は人物というよりは、グループ単位の評価しかできない。そして、管理は、縦割り行政のように、階層的に分割されることになる。したがって、会社の管理部門に携わる人は、労働者とはいえ一般労働者とは立場が異なることになる。評価が難しくなると、定期的に昇進させるような待遇も必要となる。一般労働者は、金目当て、あるいは仕事の意欲で働く。その一方で、官僚主義に陥ると、その人生の目的は出世へと変貌する。そして、関心事は終身雇用と老後保障になる。彼らの仕事は、私企業に属するとはいえ、もはや政府官僚となんら変わりはない。その意識では、上司への絶対服従となる。階層化の深い組織では、監査が可能なように型にはまった規則に従って行動する人間が評価される。ヴェーバーは、こうした大企業の管理職員も官僚と定義し、近代企業はますます官僚化すると指摘しているという。戦後の日本は、株主と経営者とでは、経営者の方が業界に精通しており、発言力が圧倒的に強かった。終身雇用を後ろ盾に労働者の奴隷傾向も強まる。官僚組織というのは、くだらない人間関係で神経を使うが、業務的には気楽でもある。ベンチャー企業のような小規模では、くだらない人間関係に神経を使うことはないが、その分、革新的な意識を維持しなければならない辛さがある。これはどちらが良いかというよりは好みの問題であろう。人間の精神は、面倒なことが嫌いで波風を起されるのを嫌う一方で、退屈やマンネリを嫌う。その衝動がどちらに振れるかの違いだけのことかもしれない。一つの組織に尽くし定年まで働くと、組織は自分のものだという意識も現れるだろう。情報隠蔽体質も必然的に現れる。出世競争も同僚社員との間で競争意識として現れる。また、グループ会社でも、親会社と子会社の上下関係を意識する。このようなシステムでは、労働争議が起こり難いので、経営者としても都合の良いシステムとなる。こうした傾向は、社員を一種の宗教観念で飼い馴らした結果とも言えよう。官僚体質は、会社が事業で成功すればするほど拡大する自己増殖システムと言うこともできる。
そう言えば、ベンチャー企業で働いている時は、個人でストライキを起こす輩がいた。おいらもその一人であるが、出勤と同時に「今日は休む!」と宣言して、とっとと帰宅したりもした。その意識が経営者と労働者の間に緊張感を生む。くだらない命令を出す前に経営者も多少なりとも考えるだろう。こうした行動は周りに自由を意識させる効果もある。我儘できると勘違いする人もいるが。いずれにせよ、首をかけた緊張感がある。こうした行動も結構楽しいものだ。これによって経営者と仲が悪くなるわけでもない。おそらく嫌われていただろうが。

5. 孔子の解釈
政府官僚制の歴史は、紀元前エジプトや中国に遡る。日本の官僚制は中国から輸入されたと言えよう。その悪の根源は科挙であろう。科挙は、高級官僚をペーパーテストで募集する仕組みを母体とする。一見公平そうに見えるところに落とし穴がある。こうしたシステムは、貴族社会のような身分制度の確立した体制では有効となろうが、平民社会では悪しき慣習となる。換言すれば、他に人員を補充する手段がない硬直した組織が出来上がる。社会的経験が少ない上に社会の実態に対する目利きがなく、出世競争に囚われる。まさしくキャリア官僚がこの呪縛に嵌る。
秦の始皇帝が官僚制に則った統一国家をつくる300年も前、孔子は小国の乱立を調整し周王朝を復活することを提唱した。孔子は、このような大王朝は君主が優れた人材を登用して、自己の利害を排除し、人道に則った「礼」を率先する場合にのみ、実現されると考えたという。孔子の考えた政治は、徳治であって、官僚制を前提としているわけではない。だが、孔子の「礼」は一種の不文法で、儒教の教えは官僚制と矛盾するわけでもない。孔子の解釈は様々であろうが、本書の解釈はおいらに近いように感じる。とはいっても、「論語」を読んだのは20年ぐらい前で記憶があるはずもないが。いずれにせよ、「礼」を無条件な忠誠と解釈して世襲制が蔓延るのもおかしな話である。中国は1300年にも渡って科挙を廃止してきたが、いまだにその亡霊に憑かれている。日本は急速にその亡霊を追いかけている。

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