時々、悩んでいる人に、「それは考えすぎ!」と助言する光景を見かける。確かに、目先の結果を求めるには、良い助言かもしれない。しかし、人間の最終的な結果は、必ず死へ臨む。となれば、精一杯生きる意味でも、思いっきり考え過ぎることに、なんの躊躇があろうか。精神力とは、鈍感とは違う。精神の弱さと正面から向かい合う勇気こそ、精神力の源泉であろう。芸術家が、鑑賞者を魅了できるのも、自らの精神を曝け出すからである。芸術家は自我と正面から対峙する。おそらく彼らは、精神病すれすれの世界で生きているのだろう。精神病とは、精神のある到達点なのかもしれない。などと、ぼんやりと考えながら本屋を散歩していると、ある一冊に目が留まった。恥ずかしいことかもしれないが、太宰小説を読んだことがない。なんとなく立ち読みしていると、冒頭からなかなかのインパクトがある。これは買わずにはいられない。しかも、270円(集英社文庫版)は安い!
本書は、三枚の奇怪な写真から始まる。一枚目は、握りこぶしをしたままの不自然な少年の笑顔。ニ枚目は、命の重さなどまるで感じさせない学生の笑顔。三枚目は、死相とも言うべき、白髪で自然に死んでいるような表情のない顔。そして、手記は次のように始まる。
「恥の多い生涯を送ってきました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。」
この異様な空気に、なんとなくアル中ハイマーの生活を重ねてしまう。それは、酒に溺れ、女に溺れ、睡眠薬に頼る生活である。
「人間失格」は、昭和23年に執筆され、その完成の1ヶ月後に自殺していることから、まさしく太宰治の遺言とも言える作品である。そこには、幼少の頃から人間嫌いに見舞われ、それを見抜かれないように道化を装いながら人生を演じる術を学び、青年期には、淫売婦に溺れ、酒に溺れ、やがて、自殺未遂や薬物中毒に侵されていく様子が描かれる。本書は決して陰気な作品ではない。見事なほどの人間嫌いとニヒリズムには、むしろ癒しの空間を与えてくれる。これは、まさしく太宰治の人生回想録である。
破滅的な生活の中から生み出される作品とは、どんなものだろうか?人生の絶望を味わった人間でないと、芸術作品って生み出せないのかもしれない。芸術とは、ある種の現実逃避でもある。自らを追い込み素朴な精神が現れたところに芸術が顕になる。自らの哲学を語れない作品には迫力を感じない。哲学は自らの精神を曝け出すことが鉄則であろう。日本には偉大な哲学者がいないことから、哲学後進国と揶揄されることもあるが、どうしてどうして、日本文学にこそ庶民的な哲学を見せてくれる。人類には、あらゆる議論を単純化しようと努力してきた歴史がある。物事の本質を探求しながら自由意志の存在を求めてきた。精神の深みに嵌った挙句、狂気する者も数知れない。それでも、狂気に向かう衝動は抑えられない。常識によって救い出された人は、見つけられないものを探していたことに気づくだろう。常識とは、社会の風潮に流されながら曖昧な態度をとる術を会得することである。思考の深みは、人より早く歳をとらせ、成人になると無情な早さで衰えさせる。そして、ついに生きることよりも死ぬことの方が単純であることを悟る。安住の地を求めるならば、それは墓場にしかないのかもしれない。
小説家があらためて凄いと思わせるのは、強い自己主張をしているわけでもないのに、その世界へと自然にのめり込ませるところである。道徳家や思想家が、大声で扇動したところで、全く説得力を感じないのとは大違いである。「青春を大切にせよ!」と説教じみた事を言われたところで、反抗心しかわかない。理解者と自称する輩の押し付けがましい態度は、鬱陶しいだけだ。道徳家は、善悪を知っているかのように得意げに説く。それが自らの指標であるにもかかわらず。教育者は、人生は素晴らしいと叫び続ける。その助言が逆に追い詰めているとも知らずに。しかも、善悪は人間社会の多数決に支配される。人間が善悪を規定したところで、宇宙法則に従った絶対的な価値観に到達できるわけではない。たとえ道徳が宇宙法則のバランスを崩壊させようとも、人間はご都合主義で正当化さえしてしまう。そして、アル中ハイマーも自らの道徳に従い、平日の朝っぱらから酒に溺れる。登校途中の小学生から後ろ指を指されながらも、ただ一人ベランダで赤い顔をして「ああ気持ちええ!」と呟く。これも「人間失格」の実践であろうか?
1. 自己批判
本書のテーマは自己批評に尽きる。自分自身を批評することは勇気がいる。著者は、自らの批評をしないまま、なんとなく過ごしている曖昧な態度を許そうとはしない。酷い生活をしていると、世間から説教されるかのように囚われる。女道楽や酒びたり、おまけにキス魔、こんな生活を世間が許すわけがない。だが、実は、許さないのは世間ではなく自分自身ではないのか?世間に監視されながら窮屈な生活を送っているようでも、監視しているのは自分自身ではないのか?世間と闘っているようで、実は、自分自身と闘っているのではないのか?恐ろしいはずの世間は、自分には何一つ危害を加えていない。複雑なのは、人間社会ではなく、自我ではないのか?こうした自問は、次第に世間に対して警戒心を薄れさせる。そして、自らの批難の末に死を選ぶのか?人間は、他人に見栄を張っているのではなく、自分自身に見栄を張りながら生きているのかもしれない。人間は、自己批評を避ける傾向がある。それは、人生が羞恥の連続であることに気づいているからであろう。あらゆる自己批評は自己弁護によって救われるが、自ら弁護できなくなると死ぬしかなくなるのかもしれない。世間には、自殺は社会からの逃避で、卑怯だと批判する意見も多い。自殺を逃避と考えるかは見解の分かれるところだが、それが当人にとって悲劇でなければ、それでいい。人間とはおもしろいもので、意図的な死を批判する一方で、子供ができないという運命ともいうべき境遇を受け入れられず、無理やり生命を誕生させようとする。少なくとも自殺を神への冒頭と批判する者は、無理やり生命を誕生させる者も批判するべきであろう。人間が意識する幸福というものに実体はあるのか?人生は嘘を演じながら虚空の中をさまよう。不都合な現象を自らの論理で言い訳をしながら生きている。自らを追い詰めたところで、自己愛を強調するに過ぎない。無条件で社会に順応できれば、幸せだろう。何も疑いもなく信仰が持てれば、幸せだろう。有徳者と自認し、自らの罪を意識できなければ、気楽であろう。人間は、幸福の実体が分からないから、とりあえず他人と比較して確認することぐらいしかできない。自らを曝け出すのが怖いのは、他人から批難されることが怖いのではなくて、実は自ら本性を覗くのが怖いだけなのかもしれない。
2. 女に溺れる
著者は、淫売婦によって女の修行をし、女達人の匂いを身につけたという。そして、女性の方から匂いを嗅ぎ付けて近寄ってくるようになる。女性の前だけは本性が出せる。淫売婦は、白痴か狂人のように見えても、哀しいぐらい微塵も欲がなく、そのふところの中では安心してぐっすり眠ることができるという。淫売婦に聖母マリアの円光を見るかのごとく。著者は、淫売婦に同類の親和観を持つ。今までに自分よりも若い処女と寝たことがないと告白するあたりは、なかなかのマダムキラー振りである。そして、スタンド・バーのマダムの義侠心にすがる。女性に義侠心という言葉を使っているが、都会の男女の場合、男は体裁ばかり飾り、女の方が義侠心と言うべきものがあるという。確かに、女性が一人で生きていく勇敢さには畏れ入る。彼女らの醸し出す人生経験のようなものが、癒しの空間を与えてくれる。だから、見栄を張ってでも、クラブ活動に精を出すのだ。ちなみに、おいらもマダムキラーと呼ばれている。
4. 金の切れ目が縁の切れ目
このフレーズに出会えただけでも、本書を読んだ甲斐があるというものだ。
「金の切れめが縁の切れめ、っていうのはね、あれはね、解釈が逆なんだ。金がなくなると女にふられるって意味、じゃあないんだ。男に金がなくなると、男は、ただおのずから意気消沈して、ダメになり、笑う声にも力がなく、そうして、妙にひがんだりなんかしてね、ついには破れかぶれになり、男のほうから女を振る、半狂乱になって振って振って振り抜くという意味なんだね、金沢大辞林という本によればね、可哀想に。僕にも、その気持ち分かるがね。」
ちなみに、我が家の広辞林を調べてみると、「金」の項に「-の切れ目が縁の切れ目」がある。「金があるうちはおだてあげてもてなすが、金がなくなれば用はない。」なーんだ!全然おもしろくない!純情な酔っ払いは本書を信じるのであった。
5. 廃人
地獄の存在は信じても、天国の存在は信じられない。世渡りの才能だけでは、いつかはボロが出る。互いに軽蔑しあいながら付き合い、互いに自らをくだらなくしていく。これが交友の正体なのか?本書は、友情を感じることがなく、一切の付き合いは苦痛だと語りながら、見事な人間嫌い振りを披露する。自分の不幸は、すべて自分の罪悪からくるもので、誰にも文句が言えない。そして、薬物に溺れ、生きる屍と化す。モルヒネの注射は、一日一本が二本になり、やがて慢性化する。その姿には、暗く濁った胡散臭い日陰者の気配がつきまとう。薬の数が増えると、勘定も払えなくなる。薬代で借金地獄、自殺未遂。薬を手に入れるために、薬屋の奥さんに「キスしてあげよう」と迫る。深夜、薬屋の戸をたたき、泣き崩れる演技をする。薬漬けは、人間の誇りを奪い、幸福も不幸も感じさせなくする。ついに、これが「廃人」というものなのかと自覚する。そして、最後にこの言葉で締めくくる。
「自分はことし、二十七になります。白髪がめっきりふえたので、たいていの人々から、四十以上に見られます。」
2009-06-07
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2 コメント:
人は、生きる自由を与えられて居ますが、行き方の保証は何も無い。
同じく、死は必ず訪れるが、死に方の自由は無い
選択の自由は、有りそうでない。
もう一度読んでみたくなりました。有難うございます。
なかなか重量感のあるコメントで、酔っ払った記事に箔を付けていただいて恐縮です。
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