2009-05-10

"あと千回の晩飯" 山田風太郎 著

「アル中ハイマー」という言葉を誰が言い出したかは知らん。本書には「アル中ハイマーの一日」という作品が登場する。そして、この言葉は著者の造語だと語る。この言葉を最初に公にしたのは著者かもしれん。しかし、ちょっと駄洒落の好きな人なら、どこの飲み屋でも使っていそうだ。少なくとも、おいらはずーっと前からそう呼ばれているような気がする。アル中ハイマーを自称する?いや!周りにそう言われている人間にとっては、避けては通れない本である。

「あと千回の晩飯」は、朝日新聞に1994年から連載されたエッセイである。その他に雑誌や新聞で連載された「風山房日記」、「風来坊随筆」、「あの世の辻から」も収録される。本書は、山田風太郎氏の老人病随筆集といったところだろう。風太郎という名前からも、自然に揺られながら生きる様、あるいは風狂の哲学といった印象を与える。著者の座右の銘は、強いて言えば「したくないことはしない」という。ちなみに、おいらの座右の銘は、「そこに酒があるから...」。

「いろいろな兆候から、晩飯を食うのもあと千回くらいなものだろうと思う。」
著者は人類65歳引退説を唱える。そこには、漠然と自らの余命を晩飯の回数に喩えならがら、70歳を過ぎた著者の虚しさがある。そして、糖尿病とパーキンソン病で入院し、その闘病生活も語る。糖尿病やパーキンソン病は、直接痛みを伴わないらしい。苦痛がないからテレビを観ながら日常を送るといった気楽さがある。ほとんど悲壮感を与えず、あっけらかんとした文章で心境を綴り、社会風刺や政治情勢をユーモアたっぷりで語ってくれる。
「七十を越えて意外だったのは、寂寥とか、憂鬱とかを感ぜず、むしろ心身ともに軽やかな風に吹かれているような感じになったことだ。」
いつかは老いた現実を受け入れなければならない。その時、こんなはずではないと思うかもしれない。超人的な人間ほど狼狽が甚だしいであろう。詩人は老化の非情を大げさに煽る。いざその状況が訪れると、その大げさな表現も身にしみるだろう。おいらには60代も70代も大して変わらないように映る。だが、本書は大きな違いがあるという。60代は緩やかなカーブで下がっていく感じで、70代に入ると階段状になるという。それも、一年毎ではなく、一ヶ月毎、いや一日毎だそうな。そうした感覚は、やがて感傷的な光景が、死と対峙する憂鬱へと変化するのかもしれない。人間の最大の恐怖は老衰であろう。本書は、その恐怖へ立ち向かう心構えを教えているような気がする。

古くから、長寿薬やら不老不死伝説のような迷信がまかり通っていた。現代では、それに替わるかのように健康ブームが台頭する。不老とは、人間の永遠の願望であって、最大の恐怖から逃れるための憧憬であろう。日本は世界一の長寿大国である。だが、長寿という願望を最も享受しながら、高齢化社会で悩まされ、なにか隙間風を感じる。しかも、自殺大国だ。文明が高度化すると人間は神経衰弱になり、生きることへの虚しさを感じるのだろうか?長生きするがゆえに、自らの死を認識できず、他人の死を軽んじるような風潮が現れるのだろうか?かつて、栄養失調で命を失う時代があった。今では、糖尿病のような贅沢病で入院する。「命が最も大切だ!」と叫びながら、最も命を大切にしていない時代なのかもしれない。これが長寿国の定めなのか?
ところで、男と女では、なぜ寿命に差があるのか?女は子供を産むという男には信じられない苦痛を体験する。どう見たって脂肪も多い。その分、神経が図太いのか?酒を飲まないからか?いや、そんなことはない。知人で大酒飲みといえば、決まって女である。くだらない夢を追わないから長生きするのか?「夢を描く男性が好き!」と言いながら、しばらくすると「いつまでも夢ばっかり追っかけてんじゃないわよ!」と豹変する。そのわりに化粧や美容には異常なほど執着する。これも、現実から目を背ける能力か?ちなみに、化粧とは、化生に変身することか?これは、もののけや妖怪の類か?最も長生きする日本の女性は、地球上で最も恐ろしい生き物なのかもしれない。どうりで、男は何も悪いことしていないのに、蛇にでも睨まれたようになるわけだ。

1. 目糞やら鼻糞やらの政治家
「ここ、一、二年の政治家の行状は常軌を逸している。背信、虚言、変節、貪欲。以前から政治の世界は、そういうものが横行するものであったが、それにしても近年は異次元の世界の様相をおびている。金権腐敗を弾劾して立った新権力者が、自分も得ていた怪しき金の出入の説明がつかず、それを弾劾するのがこれまた金権党だなんて、目糞やら鼻糞やらわからない。」
マスコミの仕事は他人を弾劾することのようだが、それがマスコミ自身に向けられることはない。首相に辞めろ!と呼応して、いざ首相が辞めると無責任と呼応する。マスコミは強者に弱く、弱者に強い。そして、道徳を訴えながらいじめ報道を繰り返す。いつの時代も、政治や報道というものは、子供の教育に最も悪影響を及ぼすようだ。したがって、報道番組はR-18指定するがよかろう。
誰にでもその性格に似合った職業がある。大げさに言えば天職といったものだ。研究が好きだから科学者になる。文章の虜になるから作家になる。自然と戯れたいから芸術家になる。真理を探究したければ哲学をすればよかろう。説教をしたいから教育者にもなろう。噂を広めたいからマスコミという職業が生まれる。「火のないところに煙は立たない」と言うが、自ら油をまいてマッチを持ってまわる放火魔もこの職に属す。では、腹黒い人間には、どんな職業があるというのか?神はその救済に政治家という職業を用意したのであった。

2. 介護と尊厳
老人は、強情や短気になったり、本人にそのつもりがなくても自然と嫌味を口走るようになる。ゴーツクバリを発揮し家族の手を焼かせるうちはまだいい。介護をしているうちに病を背負う人もいる。病は肉体的なものばかりではなく、精神的に蝕まれて自ら命を絶つ場合もある。高齢化が進めば、痴呆症に悩まされるケースも増えよう。裕福な家庭は老人施設へ入居させればいいが、そうもいかず介護と正面から対峙する家族も増える。
本書は、介護で苦しむ家族で最も深刻なのが排泄物の問題だという。知人の話を聞いて、糞まみれになった光景を想像するだけで何も言えなくなる。自分自身がこうした介護の対象にはなりたくないと思うのも、自らの尊厳が失われることへの恐れであろう。叔父が亡くなる間際、オムツをされている姿を見られて、「俺は人間失格だ!」と呟いたのを思い出す。体が不自由になれば、自らを置物とでも考えるのかもしれない。いくらコスプレが好きでも、オムツプレイは勘弁だ。いくらモーツァルトのような天才が、スカトロ気があったと噂されても、この領域には踏み込めない。誰もが痴呆症になるわけではない。介護が必要になったからといって、誰もが糞まみれになるとは限らない。中には、豪華な老人施設や、最高の介護援助を受けられて幸せな人もいるだろう。人生が長いか短いか、どちらに感じるかは、その人次第である。そして、人生とは何か?といった哲学的な問題と対峙する。人生とは、自らの尊厳を守るために闘う歴史である。それも、運命とも言うべき確率に支配される。

3. 死の格付
人間が死を恐れる理由とは何か?死に伴う肉体的苦痛、志半ばへの無念、あとに残す愛する者への執着、自分一人で旅立たねばならない不安、といったところだろうか。死を一人旅と表現すれば、冒険のような感じがする。文学者は、ガンとの闘いを「壮絶な死」などと表現する。他人の死を詩的に表現すれば美しく感傷に浸ることもできる。当人にしてみればそんなものでもないだろうが、その人の死を惜しんで美しく表現したくなる気持ちも分かる。死の表現が、残った者に心の安らぎを与えるならば、死んだ人もうかばれると信じたい。
本書は、人間の死に方を「人生と密着した死に方」と「人生と分離した死に方」に大別している。ただし、本人の意志とは無関係な事故死などは除く。「人生と密着した死に方」とは、自らの仕事を全うし、関わった人々への思いを背負い全生涯を傾けながら死ぬことである。「人生と分離した死に方」とは、病などで自らの死を悟った時、残した仕事を他人に委ね、自らは空虚な安穏な世界へ導いて死ぬことである。これは、死病の公表を禁じ、葬儀や告別式を辞退するようなところでも見られる。いずれの死に方にも、運命を背負った生き様を感じる。死は平等に訪れる。もし、人間が自らの死を認識できるならば、どんな死に方をしても、なんらかの理由付けをして、人生を完結させるだろう。
ところで、葬式に参列する人の多さで、その人の人生の重みが分かると発言する人がいる。それは本当だろうか?少なくとも、形式ばった人間付き合いの量は測れそうだ。
親父の田舎では、墓を建てる土地の確保に躍起になっている。昔からの慣習で、一世帯に一つ墓を建てなければならないらしい。なんとなく滑稽である。この慣習を守るならば、永遠に墓を建て続け、日本の国土は墓だらけになってしまう。みんな一緒の墓に入れば、賑やかでええではないか。土地は生きた者のために残したい。生きた者は生きた者同士で付き合えばいい。死んだ者は死んだ者同士で付き合い、生きた者にその眠りを邪魔されたくない。おいらは海が好きなので遺骨は海にまいてもらいたい。
著者は、無葬式論者だという。消費税に目くじらをたてる人々が、なぜ冠婚葬祭に金をつぎ込むかは理解に苦しむ。葬式の明細にも驚く。ちょうちん一個3万円?この古びたやつかあ?しかもレンタルだ。おまけに、なんと戒名代の高いこと。戒名なんていらない。生前の名が受け入れられないなら名無しでええ。普段、宗教に馴染んでもいないのに、なぜか葬式の時だけ割り込んでくる。お寺さんは、ナマモノを扱うのが苦手なのだろう。だから、死んでから、おいでというわけだ。仏教が葬式宗教と言われるのも道理である。そもそも、葬式のできない苦しい家庭もある。人間社会とは滑稽なもので死人をも差別する。だが、生き残った人間が勝手に格付けしているに過ぎない。

4. 先天的な死の願望
そもそも、自らの死を望む人間はいるのか?一時的な自殺願望に囚われるのは認める。現実に自殺者がいる。だが、自殺に追い込まれる事態を取り除けば、自殺願望も消滅するだろう。
ところが、本書は、人間世界には何の外因もないのに、先天的に死に憑かれた人々がいるという。著者自身も意識の底にいつも死が沈殿しているのを感じるという。芥川龍之介や太宰治や三島由紀夫などは、そうした人種なのだろうか?彼らは、生よりも死に憧憬を持ったのだろうか?多くの偉大な数理論理学者は、複雑な事象を単純化することに命をかけ、ついに生きることよりも死ぬことの方が単純であることを悟る。彼らは、人より早く歳をとり、成人を迎えると無情な早さで衰える。いくら平等を唱えたところで、人間は、個性の差、能力の差、境遇の差などあらゆる格差の中にある。生きている間は、どんなに近づこうとしても決して同じになることはできない。そこで、死を受け入れることによって、同化することができるとでも考えるのだろうか?それが「悟り」というものの正体か?本書は、「あの世」への親近感などないが、「この世」への違和感ならあるという。厭世観というやつだ。しかも、これが大酒飲みの原動力になっているそうな。

5. 責任ある年齢
老化とともに記憶力は衰え、頭の回転も悪くなる。その一方で、揺ぎない長老の知恵、熟練した精神というものがある。精神は年齢を重ねるとともに成長する。ただ、精神は熟成を増すだけではなく、熟成し過ぎて腐ることもあろう。本書は、70歳になると無責任の年齢に入ったという。そして、70歳を過ぎれば、責任ある言動をすることが、かえって有害無益になると語る。責任ある年齢とは何歳までを言うのだろうか?死ぬ間際まで責任を全うする立派な人もいる。こうした例は尊敬できるが、真似できるものではない。去り際を見極めれる人は偉大である。大抵の人は自らの存在価値が実感できないと不安になる。だから、権力や肩書きに固執し、不要な意見を取り付けて自らの存在感を強調する。自らの存在が無視されると激怒する。そして、人間社会にはコネがつきまとう。だが、自らの存在感を薄くできる人ほど偉人のように映る。

6. 朝酒晩酌の人生
著者は酒と煙草を50年以上切らしたことがないらしい。毎晩、ウィスキーのボトル3分の1ほど2時間ぐらいかけて飲み、一睡して夜中に目覚め朝まで起きている。そして、朝酒で眠って昼頃起きるという生活。
入院時のエピソードでは、食事が不味く食欲がないのは、酒を断っているせいだと医者に相談を持ちかける。酒を断っても手が震えるわけでもなく、まったく禁断症状がでるわけでもないと。すると医者は「アルコールを飲まなければ食欲がないのは、それが禁断症状です。」と答えたという。
朝酒晩酌の人生は、おいらにも似た生活がある。おいらは酒をそれほど多く飲むわけではない。週末以外は、寝る前にウィスキーのオンザロックを一杯も飲めば満足だ。そして、週末は朝酒で純米酒をやる。毎日ちびちびやるのがいい。晩飯は、焼酎に焼き魚と大根おろしがあれば十分。ただ、朝は5時前からステーキハウスへ出かける。5時を過ぎると、朝食メニューに替わりステーキがメニューから消えるからだ。おいらは学生時代、酒が全然飲めなかった。未成年だから当り前である。おいらは歩く六法全書なのだ。それが、不思議なことに30歳過ぎてから急激に飲むようになった。飲まないとやってられないような仕事に追われていたかは定かではない。なぜか?どんなに飲んでも酔わない時期があった。その頃出会ったバーテンダーは、いまだに勘違いしている。学生時代はヘビースモーカーだった。ちなみに、歩く六法全書は、しばしば六法全書の置場所を忘れる。当時、お前の部屋は煙草が原因で火事になることはないと言われた。フィルタが焦げて、自然に火が消えるまで吸っていたからだ。貧乏性は残さず綺麗にたいらげる。それが、煙草の量を減らそうと思ったこともないのに、いつのまにか減った。1箱あれば4, 5日はもつ。量が減ったのは、煙草の美味さが理解できるようになったからかもしれない。昔は手持ち無沙汰で吸っていたが、頻繁に吸うとそれほど美味いとは感じなくなる。ただ、いまだに煙草の有害説には無理やり難癖をつけ、脳の活性化に効果があると信じている。とはいっても、直観的に煙が体に良いわけがない。すっかり愛煙家は世の中から迫害されてしまった。主治医は、おいらの煙草を止めさせるのが目標だと宣言している。なんと無駄なことを!と呟いても、医者の目標を失わせて落ち込ませるのも悪い。著者は、たとえ体に悪くても止めない理由は、実は長生き願望が強くないのではないかと分析しながら、「七十三まで生きて、何を言っとるか!」と自らにつっこみを入れる。おいらも、体に悪いと思いながら、毎月定期検診を受けている。人間の精神は、矛盾の概念をもご都合主義で凌駕できるものである。

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