2009-06-14

"時間と自由" Henri Bergson 著

人間の時間認識には奇妙な抽象化が見られる。数学の立場の違いのように離散と連続を使い分けたり、過去、現在、未来で大別する。その中で現在だけは明らかに異質である。過去や未来が無限性を示すのに対して、現在は今という瞬間認識である。昨日はもう来ない。明日は来るかも分からない。人間ができることと言えば、今を精一杯生きることぐらいしかできない。なのに、過去と未来の意識は人間行動に大きな動機を与える。突然人生の岐路を迎えると、その重要さにも気づかず、後になって準備ができていなかったことを後悔する。おまけに、神は「おとといおいで!」と囁きやがる。これを「後悔先に立たずの法則」という。人間は、過去から現在までの連続性の中で、未来を思考し続ける。過去を振り返れば自虐の念に陥る。じゃりン子チエ曰く、「ウチは日本一不幸な少女やねん!」そして、はかない明日に希望を持つ。じゃりン子チエ曰く、「明日はまた明日の太陽がピカピカやねん!」
人間にとって現在や過去は、未来を処理するための手段のように映る。幸福とは未来の目的である。それは、将来もまた生きたいと願っている証であろう。人間は幸福のための準備ばかりしている。たとえ幸福になれないとしても。人間はしばしば不幸を言い当てる。それは、幸福の正体が分からないからだろう。人間は現在について絶えず思いをめぐらし、現在という瞬間を拡大解釈する。その一方で、過去や未来の無限性は想像を絶するので見ぬ振りをする。その結果、認識の中で、無を永遠に、永遠を無にする。人間は、恐ろしいほど無知の中にいる。人間にとって永遠ほど恐ろしいものはない。無限の時間軸上で自分の存在を失うことに無関心ではいられない。しかも、自分の存在している間に地位を失ったり名誉を失うことを恐れる。もしかしたら、宇宙原理には、創造主による絶対時間なるものが存在するのかもしれない。しかし、人間は、平坦に続く宇宙で、ほぼ一定に刻まれる相対時間しか認識できない。だから、過去と現在と未来の連続性の中で、慣習と経験に基づいた予知能力によって相対的な価値観しか見出すことができないのだろう。もし絶対時間なるものが認識できたら、現在という瞬間だけの認識能力で絶対的な価値観を見出すことができるかもしれない。人生とは、死を宣告された死刑囚のようなものだ。絶えず誰かが死んでいく。残った者はそれを傍観しながら自分の番を待つしかない。その絶望から逃避するかのように生き甲斐を求め続ける。これが、人間の状態図というものか?死の重圧を感じずに死ねたら幸せであろう。
おっと!時間について語るには、時間がいくらあっても足らない。時間が永遠である限り、酔っ払いのお喋りを止めることはできない。もはや酔い潰れるのを待つしかないのだ。などと、心の中でブツブツと能書きを垂れながら本屋を散歩していると、精神を時間の概念から考察する書籍に出会った。

古来、哲学論争には、自由意志は存在するという立場と、それは宇宙法則の一部に過ぎないという立場の対立がある。アル中ハイマーは、精神は気まぐれに支配されると思っているので、どちらかと言えば後者の立場に近いのだろう。だからと言って、自由意志の存在を否定する気にはなれない。そもそも、対立しなければならないのか?感情と宇宙法則は互いに補完しあっていると言った方がいい。何かに完全に集中した時に現れる、ある種のフロー状態は、精神を別の宇宙へと導いてくれる。そこには、無我の境地とも言える心地良さがある。精神を意識的にフロー状態へ誘導することは可能かもしれない。だが、その状態になるまでに時間がかかることもあれば、どうしてもその状態になれない時もあり、完全に自我をコントロールできるわけではない。この現象は、単に本能が心地よさを求めている結果であって、精神の衝動と解釈することもできる。その一方で、ある種の義務や信念が持てるのは、経験的に培われた意志によって得られるように思える。これを理性と言うのかは知らん。精神は時間と空間の中でうごめく。それは、精神が時間の流れの中で空間として存在し、その瞬間では宇宙空間が絶えず変形するような、多様性の連続体とも言おうか、その実体を説明することはできん。精神は、時間と空間が一体化した時空として存在するかのようでもあるが、一定の物理量として定義することもできない。仏教には「因果応報」という言葉があるが、これを自由意志でコントロールできると解釈するのは、いかにも教育者らしい。単に原因となる行動があって結果があるだけのことで、むしろ自然法則に近いように思える。人間は、ある原因にはある結果が得られるという関係を、経験的に定式化する。だが、その原因には、偶然性という異物が紛れ込む。しかも、偶然性は、人間には手におえない複雑系に支配され、ほとんど無限性を示す。人間の行為には、自我の中にある行為と、現実にする行為がある。やろうとした行為と、やってしまった行為とは違うことも多い。検証されるのは、実際にやった行為の方であるが、意志はその双方に存在するからややこしい。今宵は一杯しか飲まないと堅く決意したところで、気がついた時には実体は既に次の店に存在する。こうした意志の現象は、「気まぐれ」という概念を持ち出さないと説明できない。

本書は二元論批判という形で展開される。著者アンリ・ベルクソンという人物は根っからの批判家なのか?一方に、自由、内面性、質的感情、精神を置き、もう一方に、必然性、外面性、量的感情、物質を置く。そして、自我の時間を「持続」という概念で語る。持続とは時間の純粋認識のことか?人間の認識には物理的なものと心理的なものが混在する。量と質の感覚とでも言おうか。その中で、真の持続は心理的なもので決定され、真の人間認識は空間とは独立したものだと言っているように思える。となると、空間的な認識は物理的情報から思い浮かべるので、純粋認識ではないということか?時間認識を空間認識と切り離すことができるのか?んー!やはり、酔っ払いの精神には、時間と空間が混在しているような気がする。いや!調和すると言った方がいい。また、自由を時間の外に置いたというカントの「純粋理性批判」を思いっきり批判している。そして、カントの誤謬が持続と空間を混同していることだと指摘している。んー。自由意志が理性によって制約を受けるかどうかといった議論もあるだろう。理性は純粋認識か?と問えば、本能に従うところもあれば経験に従うところもある。理性のないアル中ハイマーは、理性認識という領域を意識的に避けていた。スピノザやカントにいまいち踏み込めないのは、著書のタイトルの仰々しさにある。しかし、そこまで批判されると酔っ払った天邪鬼は逆に興味を持ってしまう。批判が見られるのも、それだけ存在感がある証でもあろう。いずれこの方面にも挑戦してみたい。

1. 感情の測定
かつて、科学は時間と空間を別物としていた。空間は物理現象の起こる入れ物であり、時間はどの宇宙空間でも一定に刻まれるものとして扱われた。しかし、アインシュタインは時空の概念を持ち出して、物体の運動状態によって時間の進み方も変わると主張した。運動状態は、物体の存在する空間状態とも言える。この空間状態を、人間の意識の状態、あるいは感情の状態と換言できなくはない。自我は時空の旅を続け、自我の持続とは、空間の連続性と捉えることもできる。アインシュタインは引力の正体を空間の曲率で説明した。感情の力も精神空間のゆがみで説明できるかもしれない。本書は、感情を量的に測定した科学者の実験を紹介してくれる。世間には、精神物理学という分野があるらしい。精神を測量するからには量の相対的な定義も必要となるが、主観の領域にあるものを定量化できるとも思えない。本書は、精神には量的感情とは別に質的感情があることを指摘し、こうした実験に批判的な立場をとる。だが、物理的な刺激によって感情をある方向へ向かわせることもある。主観を客観で量ろうとした、その試みには賞賛を送ろう。感覚や感情が、外的要因によって影響される部分と、もともと存在する神経系の活動との融合によって得られるならば、エネルギー保存則に従って自由意志の持つエネルギーを説明できるかもしれない。そこには精神の物理的決定論とも言えるものがある。

2. 心理学
精神を体系化しようとした試みは心理学でも見られる。心理学者は、心理状態をあまりにも簡単な理由で結論付けてしまうように思える。彼らは、なんでも分類して抽象化の型にはめるといった手法をとる。それはどんな学問でも見られる傾向で、人間はあらゆるものを抽象化し分類しようとする癖がある。難問の本質に近づくには有効な手法であり、人類の歴史は抽象化の歴史とも言えよう。ただ、心理状態の遷移は、もし同じ条件下であっても、ある確率でしか予測できない。その条件は無限に存在し、とてもパターン化できるとは思えない。こうした現象は、心理学者よりも障害者施設などで働く人々の方が理解しているように思える。彼らは全ての障害者を同じように扱おうとはしない。全ての人が違う症状を持っているのは最初から承知している。観察方法もパターン化したところが見られず、常に試行錯誤の中にあり、最初から理解できないのは当り前という態度で臨む。こうした光景を見学していると、心理学者ほど心理を理解していない人も珍しいと思わせるものがある。そもそも、障害者で括るのもおかしな話かもしれない。完全な人間など存在しないわけだから、どんな人間もなんらかの障害を持っていることになる。どんな分野であれ専門家という自負が、その専門の理解を妨げることがある。知識の豊富さは自信を高めて驕りとなり、精神をもコントロールできると信じてしまう。その結果、自分の精神分析を怠るのかもしれない。

3. 外面的自我と内面的自我
精神には外面と内面の二面性がある。それは、言語能力の限界によって分類できそうだ。精神の表現が難しいという壁を感じた時、思考自体はその限界の境界線をまたいでいることになろう。アル中ハイマーの場合は単にボキャブラリーが乏しいだけであるが、しばしば自我がその境界付近で浮遊している感覚になる。外面的には思考の限界は、思考の表現の限界に等しいと言っていい。人間は、感覚、感情、情念、努力といった意識の状態を、強弱や大小で表現する。すごく悲しいとか、そんなに悲しくないとかいった具合に、量的多寡で区別することが多い。しかし、相対的に比較できる対象というと、その人の主観の中にしかない。にもかかわらず、日常生活でなんの違和感を感じないのは不思議だ。本書は、量的感情とは別に質的感情の存在を指摘している。そして、量的感覚を表現する言葉は豊富でも、質的感覚を表現するのは難しいという。なるほど、感情の領域では質的な違いを感じることの方が多いが、複雑な感情を表現する時に発する言葉は、悲しいとか嬉しいといった感情を大別して、強弱と組み合わせる。精神が高まった状態で言葉がどもるのは、言葉にはできない何かを表現しようとする苛立ちを感じているのかもしれない。芸術家が意図している精神を感じられるかは別にして、鑑賞者の主観は勝手に何かを感じる。言葉のニュアンスの難しいところは、個人の経験則に基づいてイメージ付けられるところである。言語の限界が、外面的自我と内面的自我の二つに分裂させるならば、精神の解明に言語は邪魔な存在となろう。だが、言語で表現するしか手立てを知らない。精神分析とは、外見上の論理によって内にある不合理性を表現するという、なんとも理不尽な世界に映る。必要に応じて人類が言葉を作ってきたならば、案外、言葉で精神を近似できるのかもしれない。だが、精神の進化したスーパースターによって発明された言葉を凡人が理解できるはずもない。形成された言葉が一般に浸透するまでには時間もかかるだろう。人類が言語の枠を破り、精神を知覚する願望を永遠に持続するならば、言語もまた永遠に進化するだろう。そして、外面的自我は内面的自我に近づこうとする。ひょっとしたら言語という手段がテレパシーという手段に替わるかもしれない。

4. 自由意志の体系化
自由意志の存在を信じる人は、あらゆる状況で選択する権利を持っていると思っているだろう。その一方で、選択権も確率論に落ち着くという考えがある。こうした議論を眺めていると、コンピュータの分岐命令と似た思考パターンを思い浮かべる。高速動作させようとする分岐方向のスケジューリングや、両方の条件を並列評価して不要な値を破棄するなどの手法は、予知能力や想像といった思考に似ている。そして、即時に判定処理できるかは経験に対応する。人間の思考は無限の条件分岐で成り立っているような気がする。これが判断力というものか?これが、自由意志の正体だとすると、機械的な決定論者の言い分も理解できなくはない。機械的に表象できるから単純化あるいは体系化できたと主張する人もいる。だが、現実に数学は不完全性の中でさまよい、科学は不確定性の中でさまよう。人間は、体系化で説明できれば、その学問を高度なレベルに引き上げたと錯覚するのだろうか?むしろ、わけが分からないから高度な学問に見えることもあろう。天気予報が確率論に持ち込まれるのだから、人間社会の方向性も確率論で語ってもいいだろう。ちなみに、自分の意見が間違っているかもしれないという政治家や経済学者を見かけない。人々を扇動する評論家は、自らの正当性を主張するために、見せかけの証拠まで持ち出して同意を求める。彼らは占い師か?ただ話を聞いてほしいだけの寂しがり屋か?経済学にしたって予測の8割も当たれば大したものだが、一度の予測ミスで経済危機が招く。カリスマ政治家やカリスマ経済学者と崇められる人は、じゃんけんトーナメントの優勝者をカリスマじゃんけん師と呼んでいるようなものであろう。

5. 予知能力
未来の全ての先見条件を知ることができれば、そこから得られる結論は決定付けられるだろうか?偶然性は、まさしく未来予知できないために起こる現象と考える人も少なくない。未来予測できれば、全ての人間行動は予測できると信じる人もいる。人々は、原因がはっきりしていれば、合理的に行動するというわけである。典型的な例では、経済学者は、将来、株価が上がると分かっていれば、株を買うのは当然だと考える。未来予知ですべての人間の行動規範が同じになるとしたら、もはや人間の多様性を否定しており、それは経済構造そのものがおかしい。そもそも、なんのために経済があるのか?という素朴な疑問に立ち返らなければならないだろう。人類滅亡の危機が迫れば、すべての人間に共通意識が生じて統一の行動規範が現れるかもしれないが、それだって社会混乱の中で、自分だけ助かろうと悪あがきをしたり、最後の人生を精一杯生きると覚悟を決めたり、様々な行動が現れるだろう。資産価値が正当に評価されなければ、経済は正常化しない。株価の上昇で見せかけの資産が増えても、資産価値が相対的に下がれば同じことである。人々は合理的に行動するとは言えないのではないのか?というより、それは人間の勝手な解釈であって、そこに本当に合理性があるのかも疑わしい。したがって、人間に正確な予知能力があったとしても、結局、複雑系からは逃れられないような気がする。特定の人だけに予知能力があるとしたら、それは他人を出し抜く能力として存在するだけである。先見性があって事業に成功したというカリスマ企業家の話を耳にすることがある。もちろん、他人を出し抜くために人一倍努力しているのは間違いない。だが、そこには偶然性が潜むことも見逃せない。現実には、隙のない論理を組み立てて予知能力を補完しようとするが、結局、不完全性に支配され確率論におさまるような気がする。これが、自由意志の正体だろうか?

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