2009-06-21

"近代の政治思想" 福田歓一 著

著者福田歓一氏を知ったのは、森嶋通夫氏の著書「思想としての近代経済学」に一瞬登場するのを見かけたからである。本書が書かれたのは1969年、まだ共産主義と自由主義の二つのイデオロギー論争が激化していた時代、なんとなく60年安保で盛り上がった学生運動の余韻が残っているかのようだ。60年代はおいらの生まれた時代でもあるが、学生運動と言われてもピンとこない。70年代までは政治運動が盛んであったが、80年代に入ると急激に冷め、思想や政治に無関心な人々で溢れた。平和の蔓延や安定した生活が人々の感覚を麻痺させるのかもしれない。おいらもその無関心世代に属す。
本書は、アメリカモデルや近代化という言葉にあまり良い印象がないと、当時の風潮を語ってくれる。そして、日本が経済大国になり、もはや西洋から学ぶものがなくなったという論調も巻き起こったという。こうした現象が、日中戦争時代に現れた風潮に似ていると指摘している。それは「近代の超克」という言葉で表象され、日露戦争以降、全戦全勝で驕った姿である。

古くから人間社会の行動様式には、信念や生き方という伝統がある。その伝統に従って共存関係が成り立ち、その様式の中で争い事も処理される。そこには、迷信めいたものや呪術のような滑稽なものがあり、そこから道徳的倫理観といった思想が生まれる。西欧やインドなどでは、道徳を体系づけるものが宗教である。アフリカでは、血縁を中心にした集団なしに人間社会を語ることはできないらしい。したがって、人間思想には慣習が大きな影響を与え、突然わいて出た論理だけでは説明できない。本書で印象に残ったのは次の言葉で、人間の思考様式の本質をついているように思える。
「政治思想というのは不自由なもので、どんなに抽象的な理論でも歴史の制約を受ける。」

資本主義の根底には二つの価値観がある。それは、世界の総資本量は決まっているという考えと、総資本量は無限に増やす方法があるという考えである。この考えは人間の行動にも現れ、一方では、資本の争奪戦を繰り返し、もう一方では、生産努力によって富を増やすといった二面性がある。ある科学者は、前者がスペイン流で植民地の争奪戦、後者がイギリス流で産業革命に代表されると語っていた。かつて西欧では、地球規模の領地という資本を元手に帝国主義を発展させ、植民地で稼いだ生産物を自国で消費し、生産労働は奴隷が行うものと蔑む思想があった。帝国主義では、植民地から搾取して市民生活をまかない始めると、逆に自国農民を崩壊させるという矛盾も生じる。しかし、宗教改革で労働の価値が見直されると、生産労働によって富を増やす行為が肯定されるようになり、経済発展を加速させる。しかし、資本が枯渇してくると、生産労働による利益拡大も陰りを見せる。総利益は以前ほど拡大することはなく、少ない利益の中で分配されるが、争奪戦の意識だけが強く残り、格差社会を助長する。そして、世間は、経費や税金の使い道など、無駄を無くすことに躍起になる。無駄を無くすということは、効率良く使うということである。だが、とにかく減らすことばかり考える連中で溢れかえった結果、必要なところには使われず、不必要なものは残るという奇妙な現象が起こる。しかも、それを世論が後押しするという滑稽な風潮がある。そもそも、一番無駄なのは政治ではないのか?ニーチェ風に言えば、余計な人々は政治と新聞である。では、なぜ政治なんてものが存在するのか?本来あるべき政治の姿とは?素朴な疑問が酔っ払いの中を渦巻く。考えてみれば、人が生まれながらにして、無条件で税金を納めるという奇跡的な社会システムがある。これは、生まれながらにして基本的人権が守られるという約束がなければ成り立たないはずだ。にもかかわらず、拉致問題を放っておいて、この件で国家反逆罪に問われた政治家を一人も知らない。政界というのは、表向きイデオロギー論争をしたがる連中の集まりに見える。だが、政治屋の本音には、政治を動かしているのは力であって思想ではないという意識があるだろう。見せかけのイデオロギー論争は、多数派工作と民衆への宣伝であって、後付けの飾りに過ぎない。そうした論争を勝手にやる分にはいいが、政治の恐ろしいところは、その最終手段に軍事行動も含まれ、民衆の生命に直接影響を与えることである。したがって、政治とは、国民の死者の数を計算しながら行動する統計的仕組みと言えよう。

国家や社会は人間によって組織され、国家権力もまた人間によって組織される。権力は民衆の代表者で構成されるが、この代表者という論理がくせものである。民衆の信託を受けた人間の義務であり、権力がその信託に違反すれば、代表者を撤回できるはずだ。ここには、政府と人民、権力と自由が対立する構図がある。そもそも、自律した人間で構成される社会であれば、政府組織を必要としないだろう。となると、政府の存在価値を強調するには、民衆は自律した人間ではないことを証明するのが手っ取り早い。金融庁の存在意義は、まさしく自律できない金融機関の存在を証明している。共産主義のような大きな政府を訴えるのは、社会には自律できない人間で溢れていると叫んでいるようなものである。権力者は、自律できない国民が多ければ歓迎するだろう。それだけで権力組織を拡大する理由付けができるからである。過保護からは自律した子供が育たないように、他律によって自律を促すところに矛盾がある。完全に自律した人物による君主主権と、不完全で自律できない民衆による人民主権とではどちらが良いか?と問えば、おそらく前者である。しかし、完全に自律した人間がいない、あるいは、いたとしてもそういう人物ほど権力欲がないところに問題がある。結局、政治は「比較的まし」という論理でしか動かない。そもそも、民主主義とか自由主義といったものは面倒なシステムで、意志決定の効率性が非常に悪い。そこで、多数決を正義と崇める風潮がある。だが、多数決は、少数派に犠牲を強いることにもなり、社会運営の効率性を促す一つの手段に過ぎない。また、個人が本当に自己の意見を持っているのかも怪しい。公共の場では他人の意見に翻弄される。しかも、巧みな話術で扇動する報道屋にかかれば、いちころだ。報道屋はデマを流すわけではない。些細な事実を盛り上げ、重大な事実をささやかに伝える。したがって、彼らの情報操作は超一流だ!神は人間に自律を促すために、あえて政、官、報の魔のトライアングルを創ったのか?そして、人間に本質に近づく努力を怠るな!と励ましているのか?

1. 中世ヨーロッパ
ルネッサンス時代、人々が新しい時代を実感したために、逆に昔のギリシャ時代やローマ時代を懐かしんで文化の再発見をした。こうした現象は、ヨーロッパに限らず日本にも見られる。ただ、歴史学的には、「中世」という言葉はヨーロッパ発だという。世界を見渡しても、現代の思想や学問の根源を遡れば、古代ギリシャ時代に辿り着くことが多い。まず、古代ギリシャで、都市国家を単位とした社会体制が生まれた。その後、ローマ時代にキリスト教を単位とした全ヨーロッパで同じ価値観を持つ普遍社会が形成された。中世ヨーロッパを形成した民族は、ローマ帝国に侵入したゲルマン民族の移動で象徴される。奴隷制に目を向けると、古代ギリシャやローマ時代が奴隷社会であったの対して、中世ヨーロッパは農奴としての地位を勝ち得たという。農奴は土地に縛られてはいたが、家族を持ち農民として生活できるようになったという。中世のゲルマン人の最底辺には共同体があり、その共同体の一つ上に軍事貴族という支配層がある。軍事貴族と個人の忠誠関係では、個人的な契約関係の上に支配機構としての封建制が成り立つ。地域によっては、一番偉い軍事貴族を国王としている。そこには、ばらばらの支配層がありながら、ヨーロッパ全体としては観念的に統制されたキリスト教社会があるという奇妙な社会構造がある。もともとEUとして結束する土壌があったと言えそうだ。また、王様は直接国民を支配していたわけではないという。王様が支配したのは貴族の封建領主で、その封建領主も王様との個人的な契約関係に過ぎない。領地を給付してもらう代わりに、いざという時に忠誠を尽くす関係で、君主に契約違反があれば、封建領主は他の君主と忠誠関係を結ぶ。中には二人の君主と契約した領主もいるだろう。国王が存在しても厳密に国境があったわけではなく、契約を結んだ貴族たちの領地の総和でしかない。貴族の相続人次第では別の国の領地に移ることもある。そうした事情から、最底辺に暮らす農民たちが国民という意識を持つはずがない。支配単位は政治的に統一されておらず、民衆にしてみれば国家の形態よりもはるかにローマ教会の影響が強かったという。ローマ教会は武力を持たないので、民衆を教化して権威を確立することが死活問題となる。教会は優れた組織を持ち、高度な政治力を発達させ、権力と権威の二元性を確立した。封建社会では、生まれながら身分は確定し、親の仕事を継ぐ。教会を中心とした伝統思想の力は圧倒的である。国王ですら伝統的慣習は絶対で、「国王は人の上にいる、しかし法の下にいる」と言われたらしい。中世の政治理論では、国王は絶対的な地位ではなく、理論構築には教会の聖職者が圧倒的に強かったという。

2. 政治思想の誕生
中世風の国家で少しずつ統一が進み、貴族、聖職者、平民といった身分の代表からなる議会が成立する。また、イギリスのマグナ・カルタで代表されるような成文憲法も現れる。その力を大きくしたのが、ルネサンスの文化運動と宗教改革であるという。ルネサンスがもたらしたものにマキャベリの理念があるという。それは、人間は理性的な秩序なしに、決定的に利害関係から行動するというものだ。人間が利己的な欲求という本能に従うならば、そこに秩序を生み出すのが政治ということになる。しかし、政治を行うのも人であり、そこに権力欲を持った人間が出現する。マキャベリは、権力支配の手段として最も確実なのは、暴力むきだしの物理的な力しかないと考えたという。国家を支配者自身の権力にものを言わせて構成する、いわゆる「君主論」である。その正反対の思想に、強烈な理想主義である「ユートピア」がある。トーマス・モアは、人間が人間をむさぼり食うような非人間的な現実を見て、空想的な社会を描き出す。私有財産のない人間が平等に労働できる社会、そこでは労働は人間の義務となる。万人の平等な労働によって平等な余暇が生まれる。そして、戦争のない平和な世界を夢想する。現実主義と理想主義の論争はいつの時代でもつきもので、だいたい現実主義が勝利するような気がする。差し迫った問題では、理想論は無力ということか?人間社会とは不思議なもので、理想を追いかけ過ぎると逆に紛争が起こる。歴史には、平和主義者が結果的に戦争を招いた例は多い。

3. 宗教改革
宗教改革は、伝統的秩序を批判する立場である。ルネサンスとは逆に、人間の尊厳を徹底的に無力化する。人間に人間を救済する力はない。救済は教会活動からくるのではなく、精神が神を求め神の恩恵を受けた時にくると考える。そして、宗教組織に頼らず、個人の良心が絶対的な意味を持つようになる。人間の内面の解放といった思想は、ドイツ農民戦争という形で現れる。しかし、ルター自身は農民を弾圧する側に立っている。次に、神を人間社会から切り離した徹底的な思想が、カルヴァンによって進められる。人間は善悪を判断することができない。それを判断するのは神である。では、神の恩恵を受けるためにはどうすれば良いのか?それを人間が知るはずもない。もし知るとなれば、人間を神の心を知る地位に崇めることになる。したがって、ただ自我をコントロールしながら、神から与えられた仕事に励むしかない。結果はどうであれ、合理的な組織をつくり、理性によって人間自身を統制するように努力する。そこには、人間が自己統制能力のうちに、人間の意味を開眼するといった高度な思想がある。そして、労働するのは奴隷であるという考えを放棄し、人間の本分は労働であるという反対の価値観を生む。中世の政治像は、伝統主義という凝り固まった不自然な理性を見出したが、普遍社会が疑問視されると、その理性は宇宙法則でもない限り危うい立場となろう。そもそも、人間の内面の問題に、聖職者が介入する必要はない。

4. 主権の誕生
本書は、近代国家の基本的な枠組みは絶対主義で確立したと語る。そして、絶対君主制で避けられないシステムが二つあるという。一つは官僚制で、王室の家産管理を司る私的機構がそのまま政治権力を握る。もう一つは常備兵で、傭兵であった君主の私兵から変化する。常備兵が、かつての普遍社会の枠組みの縄張りから権力を確立する。ただ、武力だけで政治はできないので、絶対主義は「公共の福祉」という言葉で民衆を操る。この言葉が、無条件に税金を払うという奇跡的な仕組みを誕生させたという。中世では、人道的な立場を宗教によって操っていた。絶対主義では、宗教思想を利用して人間の内面までも操る。権力と自由が激しく対立すると、権力という強い立場は逆に人権という概念を生む。絶対主義において、自由ほど厄介な問題はない。なるほど、人間は行き過ぎる思想に違和感を感じると反抗心を剥き出しにする。これが「天邪鬼の原理」というものか。主権は、身分、地域、言語、宗教など全ての違いを超越して最高権力の存在を強調する。つまり、無条件に国家を維持するための権力である。近代国家では、主権は国民と結びつく概念であるが、歴史的には君主主権という形で現れたということらしい。権力者が民衆を納得させるには、秩序を維持し、共存できることを約束という形でとりつけたわけだ。当然、約束違反があれば暴動が起こる。自然法という概念があっても、所詮は人間がつくるもので、人格やモラルといったもので構成されないと秩序は生まれないのだろう。

5. 国家
近代哲学は、世界観の認識のメカニズムを考えるようになったという。人間を自覚し能力の限界を考察する。こうした傾向はカントに代表されるという。カントの批判哲学は、理論認識、道徳認識、芸術認識といったものが、人間のどのような能力や資質によって行われるかを考察したという。人間が自然に属すという科学的認識から、自律した人間状態を考えるようになると、はたして圧政が自然状態なのか?という消極的な考えに疑問を持つだろう。そして、自由意志によって抵抗するという積極的な考えが生じる。個人を自覚し、社会が人間個々によって構成されるという意識がはっきりする。とはいっても、完全な自由放任の下で無政府状態になっても人間社会は成り立たない。そこで、二つの考えがある。一つは、権力は不愉快なもので個人を超えて存在するが、民衆の同意を得て存在する分には良いのではないか、という権力の制限である。二つは、権力自体を被治者によって治める、という自治の考えである。国家は人間の組織であるという認識は当り前に思えるが、人類には国家は国土であるという認識が暴走して、帝国主義へ進んだ歴史がある。戦争で負けて国家が亡ぶということは、人間組織を破壊されることである。それを認めたくないために、国家を国土とすることで、永遠に亡びないという幻想に憑かれたのであろうか?日本人の感覚は、国家は国土であるという認識が強いように思われる。本書は、それを「建国記念日」で説明する。だいたいの国で建国を祝う日は、革命記念日だったり、民主体制が確立した日が選ばれるらしい。だが、日本はなぜか神武天皇まで遡る。国家は、人間の組織であるという認識があれば、日本国憲法の制定日あたりになりそうだが、日本人にはもともと民主主義を民衆の手で勝ち取ったという意識が薄いのかもしれない。ちなみに、国家は人であるという考えは、古代ギリシャに遡る。政治家ペリクレス曰く、「アテナイとはアテナイ人のことであり、アテナイの町を取り囲んでいる城壁その他の土木施設のことではない」

6. ホッブズ
「リヴァイアサン」の著者トマス・ホッブズは、彼自身の人間観に深刻な問題があったという。伝統的な社会理論では、人間の欲求は身分的に制限される。身分制度が神の定め、自然の掟とされる時代には、庶民階級の美徳は「節約」である。逆に、少数派の支配者階級は気前が良い方がいい。身分制度は、人間の美徳をも身分によって変えた。ところが、ホッブズは、こうした階級制度があった歴史的事実を無視したという。彼の「自然状態」には、身分制度など前提になく、人間はすべて平等である。人間が神から命じられる義務は、第一に自己保存である。これは生物としての本能であるから、この欲求を抑制することなど無理である。ホッブズはこれを自然権として肯定する。動物のように本能のままに、腹が減った時だけ獲物をとるならば、問題はない。始末が悪いのは、人間には他の動物よりも知能が進んでいることである。人間は未来予測する。現在の飢えや渇きだけで行動するわけではなく、未来の飢えや渇きを避けるように準備する。そこに、世界の富の総量が固定されると考えると、深刻な事態となる。人間は互いに争い、人口増加は争いの量となる。そして、人間は怪物リヴァイアサンへと変貌する。「人間は人間にとって狼である。」となるわけだ。下手に先見性能力を持っているがために、弱肉強食よりも一層深刻な紛争となる。自律できない人間どうしで共存できないのであれば、他律に頼るほかはない。そこで、ホッブズは強力な権力を要求する。そして、無限の欲求を制御するには、国家権力は無限でなければならないという理論が組み上がる。ここにホッブズの絶対主権の主張が引き出される。ただ、絶対主権も人間が管理するもので、そんな公正な人間はいるのか?という永遠の矛盾からは逃れられない。

7. ロック
ホッブズの人間が生きるための富の総量は、あらかじめ決まっているという考えに対して、ジョン・ロックは無限に生み出すと考えたという。富を生み出すには、労働が不可欠である。人間が農業をして食物を育てるのも、人間の予測能力からくるもので、将来の不安を解消するために働く。それが、自らの世代だけに留まらず、子供の世代まで心配すると、収穫の限界が見えない。企業も、今年は儲かっても、来年はどうなるか分からない。将来への蓄えという行動様式には、自己規律があり、人間の予測能力からくる合理的行動と言えるだろう。ただ、将来への不安は欲望の限界を教えてくれない。では、安定収入が保障されれば、自己規律は必要なくなるか?と問えば、むしろ危険だから人間の欲望というやつはやっかいである。また、富は金銭的なものばかりではない。財産には知的財産や人格財産もある。人間は必ず死を臨むもので、自分の生きた意味が無駄だったと信じたくはないだろう。そして、生きてきた意味を探さずにはいられない。自らの生き様と対峙し、何かを悟ろうとする欲求にも限りがない。これが自律へと向かうのだろうか?ロックは、理性と勤勉という視点から人間を規定したという。伝統主義では、人間の感性は卑しいもので、理性によって抑制すべし!と考えたが、当時の思想改革派は人間の感性を解放することに本質を求めたという。本来、理性と感性は対立するものではなく、どちらも人間の持つ本質である。しかし、現在においても理性と感性は対立するものとして扱われる。あらゆるものを対立構図で煽り、それを民衆が注目するのも、人生に退屈しているからであろうか?

8. ルソー
ルソーは、人間の自律を強く求め、自分自身の尊厳への強烈な欲求があったという。彼は、人間の哲学に歴史の理論を加えたのが特徴だという。フランス啓蒙思想における感性の解放は、ホッブズやロックのように生存とは結びついていないという。生活が豊かになり贅沢になると、人間は怠惰になり、精神を堕落させることがある。ルソーは、人間の欲求について、原始状態へ遡って議論する。まず、人間は自然人であり、獣と同じく本能で生きる。だが、人間は獣のように共食いはしない。人間には憐れみの本能がある。仲間意識と同情心がある。しかし、ルソーは、この美しい本能が、更に高次の能力へと発展させ、文化を築くことにより失われると考えるという。たいていの場合、贅沢を悪徳と考えるのは、嫉妬心からくるであろう。贅沢は敵だ!と叫んでも、経済システムは贅沢が貢献しているところが大きい。生産労働を肯定し、富の欲求を肯定するのも、結局、蓄財を正当化する言い訳と発言する人もいるだろう。感性の解放といいながら、教育を受ける財力のない人々がいる。貧困層を人間扱いしているのかという疑問もある。ルソーは、理性を利己心と結びつけ、私有財産を人間疎外の始まりだとして批判しているという。ルソー風に言うと、文明社会で一番人間らしさを失っているのは、恵まれた人間ということになる。理性ばかり働かせている道徳家や哲学者などは、もはや人間性を失っているということか。それに比べて、無知な庶民はまだ同情心を持ち続けている。これが、ルソーの文明批判というものらしい。これは、人間が道徳的に悪いからではなく、社会制度が人間をそのように強制していると指摘している。結局、ホッブズやロックの理論に立ち返って、国家は人間が組織するものであって、国家制度を見直せ!ということになりそうだ。ルソーは、人間の人格性が完全に実現できるような国家構想を「社会契約論」で示したという。その構想は、組織のメンバーが共同してつくる制度で、かつ、全てのメンバーによって運営される社会でなければならないという主張である。その意味で徹底的に平等でなければならない。とはいっても、これを実現するためには、人間を超越した人間でなくてはならないことになる。本書は、フランス啓蒙思想では人間の自律には労働が必要であるという意識を欠いていたと指摘している。ただ、生み出された文明だけを礼賛した時、感性の解放は庶民にまで浸透するが、逆に感性を没落させることになる。思想だけ進化しても、現実を直視しなければ、単なる空想で終わるということか。

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