2010-03-21

"危険な世界史" 中野京子 著

宣伝文句には、「毒が強すぎてクセになる激烈エピソード100」とある。歴史的人物たちのスキャンダル!歴史をこういう角度から眺めてみるのも悪くない。ただ、著者が女性というと、こってりした恋愛もののイメージが強く、歴史ものには合わないような気がして少々躊躇してしまう。
ところが、どうしてどうして!毒舌とユーモアたっぷりの文面は、皮肉と解釈すべきか...どこまでが真実で、どこから冗談なのか?その境界が絶妙!歯切れの良さとリズム!ファンになりそう。

時代は17世紀から19世紀あたり、マリー・アントワネット前後100年を物語る。あらゆるエピソードに、アントワネット生誕何年前とか没後何年と補足される。そして、平気で時代が前後するので、目が回るかと思えばそうでもない。その構成が逆に緊張感をほぐし、ストレス解消にええから不思議だ。いつの時代でも、政界の陰謀や策略はつきものだが、その上に宗教改革以降の思想転換や、科学の進歩といった激動期も重なって話題には事欠かない。18世紀になると、医学界では人体解剖の関心が高まり、絞首刑の死体だけでは不足し、医学用の死体が売買される。無断で墓地から死体を掘り返す「復活屋」が現れたり、騒ぎ立てる遺族のいない浮浪者や売春婦や孤児が狙われ殺人が蔓延る。もはや、需要と供給の関係に憑かれた人間の欲望には限りが無い。本書は、宮廷世界に蔓延る亡霊の類いが、血なまぐさい香りを放ちながら、露骨な権力抗争、愛情の縺れからくる残虐、美徳と悪徳の表裏一体といった人間の本性を暴露する。そして、様々な人物の関わりに運命とも言える偶然性を味あわせてくれる。愛という感情はもっとも素直な分、その原因性から生じる恨みつらみはもっとも醜態を曝け出すというわけか。
人生に影響を与えそうな偶然の出会いや出来事に、運命的なものを感じることがある。まさしく、歴史とは、そうしたものの積み重ねであろう。本書は、「シンクロニシティ(共時性)」という言葉を紹介してくれる。
「いくつかの出来事が偶然に、しかしまるで偶然以外の何かが作用しているかのように、同時に起こること」

ユングは、「因果律とは別の連関で結ばれた心理的並行現象」と定義しているという。たまーに、恥ずかしげもなく「運命の赤い糸」などとロマンチックに語る人を見かけるが、こっちの方が恥ずかしくなる。技術革新が進めば、赤い糸もコードレス化するだろうに。皮肉屋バーナード・ショーは、ある女優から「あなたの頭脳と私の容姿を持ち合わせた子供がで生まれたらステキじゃない?」と暗にプロポーズされ、「私の容姿とおまえさんの頭脳を持った子ができたら、どうんするんだい!」と言い返したという話もあるらしい。
歴史に限らず日常においても、今にして思えば不吉な予兆だったと振り返ることがある。結果的に円満に済めば、ほとんど気づくこともないのだろうが。人間はしばしば不幸を言い当てる。それは幸福の正体を知らないからであろうか。

偉人が吐く言葉には、なんとなく説得力があり意味深長に見えるから不思議だ。「光を、もっと光を!」これはゲーテ臨終の言葉として名高いが、なにも崇高な意味ではなく、単に「寝室が暗いのでカーテンを開けてくれ!」ぐらいの意味だったらしい。後世のゲーテ信奉者が深読みしただけのことかもしれん。
それにしても、歴史上の人物たちの虚像と実像の落差には目を見張るものがある。なるほど、偉人ともなれば演技力も半端ではないというわけか。カメラのない時代、宮廷画家の腕次第で権力者の肖像画の値打ちも変わる。いくら偉大であっても、肖像画が傑作で残されなければ、その威風も伝わらない。逆に、無能な王でも、お抱え画家が天才であれば、威風が残せるというわけか。
「一国を統治する立場になった者は、何を言われてもびくともしない神経をもたないと務まらない。」
そう言えば、ちょっと前に鈍感力を貫いた首相がいた。これも本音であろう。社会を愚痴りながら、無責任を貫く一介の酔っ払いこそが、もっとも幸せに違いない。

1. フランスかぶれの時代
当時、ヨーロッパでは、なにかとヴェルサイユ宮殿に似た宮殿を建てたがり、フランスファッションに憧れるといった風潮が現れたという。各国の王侯たちは、競ってルイ14世の猿真似をし、大王フリードリヒですらパリに憑かれた。ルイ14世を崇めるライプニッツは学術書をラテン語で書いたが、一般書ではフランス語で書いたという。カサノヴァの回想録もフランス語だそうな。フリードリヒ大王からポツダムへ招待されたヴォルテールは、こうもらしたという。
「ここはフランスです。みんなフランス語しか話しません。ドイツ語は兵士と馬のためにあるだけです。」
ドイツ宮廷では、フランス語ができないと出世できなかったという。上流階級でフランス語を話せない人はいなかったが、ドイツ語を話せない人間はいくらでもいたんだとか。ロシアの状況も同じで、片田舎の地主ですら子供にフランス語を習わせたという。ちなみに、貴婦人が母国語で恋を打ち明けたことがないんだとか。
なんとなく日本人の英語コンプレックスと重なる。英語が苦手な親ほど、子供に幼少の頃から英語漬けにしたがるという話を聞いたことがあるが、ほんまかいな?パソコン教育にも似たような状況がある。学校でパソコン教育があるというが、何を教えるんだろう?使うだけならパソコンは道具に過ぎないが、コンピュータ工学でも教えるのか?携帯を使いこなす方が、よっぽど難しいと思うが...昔のそろばん教育のようなものか?ガキに道具を与えておけば数ヶ月で習得する。知人の3歳ぐらいの子は、字も読めないのに勝手に起動してゲームをやった後、きちんとシャットダウンさせるらしい。文字を追いかけるのではなく、感覚的にクリックする場所を覚えるそうな。言語も、文学的に探求するなら別だが、普段は伝達の道具に過ぎない。どうも教育の場は、学問と道具の使い分けを間違っているような気がしてならない。人間は恐れに対して過剰に反応するというわけか。

2. マリー・アントワネットと不吉な予兆
マリア・アントーニアが7歳の時、ただ一度ハプスブルク宮廷で6歳のモーツァルトに会っているという。二人の派手な生活と借金まみれ、その最期も共同墓地に埋葬されるなど似たような人生がある。マリアは、ルイ16世との政略結婚でアントワネットと改名。「赤字夫人」と言われる浪費家の彼女は、国家財政を崩壊させて処刑された。彼女には、結婚の悲劇を予感させるような出来事がいくつかあったという。オーストリアからフランスに贈られたゴブラン織の絵が、ギリシャ神話の王女メディアという最悪のテーマ。ちなみに、メディアは裏切った夫との間の子供を殺し、夫の新婦も殺したとされる。この贈り物の背景には、無神経なお役所仕事があったという。その証人がゲーテで著書「詩と真実」に詳しく記されるという。また、結婚契約書にサインする時、インクを落として染みができたり、式典の花火が晴天から突然雷鳴轟く大嵐となって中止になったという。
その100年後、ハプスブルク家150年で最高の美女と謳われたシシーことエリザベートの結婚式の時も、馬車から降りようとした瞬間、彼女の頭を飾っていたティアラが転がり落ちたという。これも、不幸な結婚生活と暗殺を暗示していたのか?
更に、オーストリア大公フランツ・フェルディナントは、狩猟で白いアルプスカモシカを撃った。「神の使いなので殺した人間は一年以内に死ぬ」という周囲の忠告を無視して。そして翌年、サラエボでセルビア人青年に暗殺されて、第一次大戦の引き金となった。

3. どんな病気にも瀉血
マリー・アントワネットは出産の時、部屋の蒸し暑さとストレスに耐えかねて失神したという。その時、侍医が脚の血管から血を抜き、しばらくして王妃の意識が戻ったので人々は安堵したという。これが、人類最古の治療法の一つと言われる瀉血療法である。長らくヨーロッパでは、病気になると血が腐敗するので人為的に体外へ出せばいいという考えがあった。この療法は中世で占星術と結びつき、瀉血カレンダーまでもが出回ったという。そして、外科医の前身である床屋が瀉血を受け持ったという。聴診器を発明した病理学者ラエネクは、肺結核の喀血を防ぐのに瀉血を推奨したことでも知られるそうな。瀉血の方法では、切開して静脈から血を抜く方法だけではなく、ヒルも使われた。現在でも、血行を助けるためにヒルを使う例を聞いたことがある。ちなみに、アル中ハイマーは、たまーに血を抜くと新たな血が生成されて循環がよくなるような気がする。なので、年に2、3回献血しているのだが、単に看護婦さんから血を抜かれるのを喜ぶMという噂もある。

4. 太陽王ルイ14世のコンプレックス
ルイ14世は4歳で即位し、ヨーロッパ史上最長の72年間フランスに君臨した。ただ、身長160センチそこそこ。ハイヒールを履いたり、17歳からかつらを付けて偉丈夫ぶりを演じる。おまけに、羽飾りの帽子までかぶる。寝る時もかつらを取る姿を臣下には見せなかったという。本書は、「太陽王にしてこのコンプレックス!」と賛える!

5. ナポレオンに翻弄された人々
ナポレオンが王よりも偉大な人民の皇帝となった時、交響曲三番に取り組んでいたベートーヴェンは、次のように吐き捨てたという。
「彼もだたの人間に過ぎなかった。これからは己の野心のため、全ての人権を踏みにじり、専制君主となろう」
そして、「ボナパルト」という題名を消して、「シンフォニア・エロイカ(英雄交響曲)」と名付けた。ナポレオンは、政略的に親族たちを王侯貴族に取り立てた。マルクスは著書「ルイ・ボナパルトとブリュメール18日」で、ナポレオンの甥を英雄の猿真似と評した。ナポレオンがエルバ島を脱出しパリへ進軍中との報は、全ヨーロッパを震撼させる。新聞も態度を一変させ、「コルシカの怪物」と罵っていたのが、「皇帝陛下パリへご帰還」と英雄に仕立てる。ルイ18世も慌てふためいて亡命。そこに、ジャン=ピエール・コルトーという彫刻家を紹介している。彼は、アカデミー・ド・フランスからナポレオンの全身像の制作を依頼されたが、途中で失脚したので、ルイ18世像に変更させられる。そこへ、ナポレオンの脱出騒ぎ。コルトーは、またまたナポレオン像の続きを命じられる。しかし、百日天下に終わってセント・ヘレナへ流刑となり、またまたルイ18世像に方向転換。いい加減にせい!と言ったかどうかは知らんが、大サロンに設置されたルイ18世像の出来はあまりよろしくないとの評判だそうな。

6. フリードリヒ大王の大ファン
フリードリヒは、各国の王侯たちの憧れでもあった。小国プロイセンを短期間で強国に押し上げ、軍事的外交手腕を見せつける。その一方で、詩作、作曲、演奏、哲学を書すなど精神的魅力もあり、啓蒙的専制君主のリーダー的存在である。オーストリア継承戦争でマリア・テレジアは大王を憎むが、なんとその息子ヨーゼフ2世は大王に憧れたという。ちなみに、テレジアの大王に対する恨みはカール6世の残した詔書からきているようだ。それは、豊臣秀吉が、我が子可愛さに五大老五奉行に繰り返し誓詞を書かせたのと同じで、詔書を無視して大王がオーストリアに軍事行動をしかけたわけだ。ただ、不倶戴天の仇になる前、テレジアと大王は政略結婚させられそうになったことがあるという。テレジアはハプスブルク家では珍しく恋愛結婚した。だが、もし実現していれば、ナポレオンの出る幕はなかったかもしれないと仄めかす。
ここで、もっと強烈な大王ファンを紹介している。ピョートル3世が即位した時、ロシアとプロイセンは七年戦争の真っ最中。前エリザヴェータ女帝が、フランスのポンパドゥール夫人と、オーストリアのマリア・テレジアと組んで三方から攻める。本書は、女性ばかりの攻撃なので、「ペチコート作戦」と呼んでいる。ところが、ピョートル3世は大王の肖像画に跪いたり、プロイセン式軍服を着るなど熱烈な崇拝者。彼は、エリザヴェータ女帝が崩御すると、プロイセンと講和を結び、軍事援助を申し出る始末。大王が敗戦濃く自殺を覚悟した時、ピョートル3世による援助は奇跡としか言いようがない。大王は「ツァーリ(ロシア皇帝)は神のごときお人です」と礼状を書いたという。人生最大のピンチを乗り切ったフリードリヒは、ますます国を強化して名声を轟かせる。一方、ピョートル3世は、この間抜けな皇帝では国の行く末が危ういと見て奥方に暗殺される。その奥方こそ!エカテリーナ女帝という巡りあわせ。

7. だんだんよくなるプロイセン遺伝子
「売り家と唐様で書く三代目」という川柳がある。初代で苦労して財産を残しても、三代目にもなると没落して家を売りに渡し、その売り家札の筆跡は中国風で洒落ているという意味。つまり、遊芸にふけって、商いの道をないがしろにする人を皮肉ったもの。歴史においても三代目が体制の鍵を握るとはよく言われる。本書は、世代が進むごとに出来がよくなる珍しいケースを紹介している。初代のフリードリヒ1世は、ブランデンブルク選帝侯の地位には満足できず、ハプスブルク家からプロイセン王という名目だけの地位を買った。無能な彼はそれで満足して贅沢三昧、ルイ14世の宮廷生活を猿真似して終わる。こうした父を眺めながら息子フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、一変して質実剛健を旗印にし「軍人王」と呼ばれる。しかし、音楽や文学といった教養を無意味と切り捨てた。質素、倹約、粗野な父にうんざりした息子フリードリヒ2世は、文武両道を具えた偉大な啓蒙君主フリードリヒ大王となる。こうしてみると、反面教師という遺伝子が受け継がれているようだ。

8. ピョートル大帝は分裂病か?
ロマノフ王朝五代目ピョートル大帝は、織田信長をスケールアップしたような独裁者にして改革者だという。領土拡大戦争と反対派弾圧で血みどろの政策、それと同時に近代化を推進したことでも知られる。彼は、ヨーロッパから多くの学者を招き、その中に数学のベルヌーイ一族や巨匠オイラーもいた。その一方で、正妻を修道院へ閉じ込めたり、息子に死刑を言い渡すなど分裂的な振る舞いもある。ヨーロッパの外遊では、一兵卒ミハイロフとして偽名で変装して一行に紛れたという。だが、身長2メートルもあるので誰が見てもバレバレ!歓迎する側も困惑して影武者にも挨拶するという気の遣いよう。彼は、「双子座生まれの二重人格者」と呼ばれるらしい。当時、太陽王ルイ14世を真似る王侯が多い中、その変人振りが逆に魅力があったと評されるという。

9. エカテリーナ2世の細い細い運命
ゾフィは、細い血縁を辿って、大ロシア帝国皇太子妃へと導かれたという。ピョートル大帝が急死し、権力抗争の中で、次々に5人の皇帝が即位する。まず、ピョートル大帝の後妻エカテリーナ1世、次いでピョートル大帝の先妻の孫、異母兄の娘、異母兄の曾孫、後妻の娘エリザヴェータと続く。そして、エリザヴェータに子がなかったために、姉の息子である甥を後継者に指名。ついでに、妃候補に甥の父方の遠縁にあるゾフィが選ばれる。ゾフィは美貌を誇る女帝の試験を受け、美しくないという理由で気に入られたという。彼女はエカテリーナと改名させられ、遊び惚ける夫を尻目に勉学に励み、女帝から嫌われぬように目立たぬように振舞い、密かに野心を育み貴族や軍隊を味方につけたという。そして、女帝が亡くなり夫が即位すると、愛人を妻にしてエカテリーナを排除すると知って先制して夫を殺す。ちなみに、その死は脳卒中と公表されたという。こうして、ロシア人の血縁ではない新女帝が、34年間に渡って君臨することになる。しかも、ロシア歴代皇帝のうちで畏敬をもって「大帝」と呼ばれるのは、ピョートル大帝とエカテリーナ2世の二人だけだという。

10. 不人気ナンバーワンのジョージ1世
国民の不人気ナンバーワンのイギリス国王と言えば、ジョージ1世だそうな。彼は、絶世の美女と名高い妻ゾフィア・ドロテアを北ドイツの古城に32年間も幽閉したという。かつて、ジョージ1世の母は天然痘で顔が醜くなったという理由で、ドロテアの父から婚約破棄されていた。おまけに、ジョージ1世はマザコンという噂もあるから、昼メロにでてきそうな設定だ。寂しいドロテアはスウェーデン貴族ケーニヒスマルク伯爵と駆け落ちの約束をする。だが、伯爵は行方不明となり、後に死体で発見される。そして、ドロテアは飼い殺しの運命となる。国民がろくに英語の話せない新王を嫌ったのは、この王妃への酷い仕打ちが最大の理由だという。ちなみに、ドロテアの娘は同名でフリードリヒ・ヴェルヘルム1世と政略結婚させられる。そして、二人の男子を産むが、次々と早死にし、三男だけは乳母まかせにせず自ら育てる。その子は母親譲りのフランスかぶれのため、父親から軟弱者と罵られたという。その子が、偉大なるフリードリヒ大王である。
ところで、神聖ローマ帝国ハノーヴァ選帝侯ゲオルク、このドイツ人がイギリス国王ジョージ1世となったのは、前王女アンに世継がなかったからだそうな。母方がイギリス王室の遠縁にあるのと、本人がプロテスタントということでの即位ということらしい。だが、アンは17回か18回か妊娠しているという。これほど死産流産を繰り返した原因は不明のようだ。アンは「ブランデーおばちゃん」と渾名されるほど酒好きだったという。アル中が祟って、身長が低いうえに激太りのため、なんと!棺は正方形だったとか。ほんまかいな?

11. 「着衣のマハ」と「裸のマハ」
スペイン史上最悪の王妃マリア・ルイサは、恋人マヌエル・ゴドイを見初めると、夫カルロス4世公認の不倫相手にしたという。しかも、宰相の地位まで与えるが、ゴドイは次々と愛人をつくる。当時、スペインは激しいカトリック国で裸の絵はご法度であったが、ゴドイは隠し持っていたという。ナポレオンの侵攻で家宅捜索された時に発見された有名なゴアの「マハ」の二枚の絵は、ゴドイの愛人がモデルだったとか。普段は「着衣のマハ」が飾られ、回転させると「裸のマハ」になる仕掛けだそうな。この裸体画が問題となって異端審問に問われるが、王妃とともに国外逃亡する。

12. 第九の呪い
ベートーヴェンが第九を完成させた時、ウィーンではロッシーニのイタリア・オペラが流行っていた。新聞も、モーツァルトやベートヴェンはもう古いと評したという。機嫌を悪くしたベートーヴェンは、第九はプロイセン王に献呈し、初演はベルリンで行うと宣言。慌てたウィーンの貴族たちは、初演の名誉をウィーンの都に与えてくれるように署名運動したという。ベートーヴェンは了承したが、自分で指揮すると言い張る。だが、彼の難聴は完全に聞こえなくなっていた。そこで、二人の指揮者で演奏することで妥協する。楽団員はもう一人の指揮者の指示に従い、ベートーヴェンの指揮は無視され、どんどん曲と動作は離れていったという。その演奏後、彼は三年足らずで世を去る。以来、大作曲家は交響曲を九作書くと死ぬという「第九の呪い」が囁かれるようになったという。なるほど、ブルックナー、ドボルザーク、ヴォーン・ウィリアムズなど、呪われた作曲家は多い。マーラーは、第九交響曲を交響曲と呼ばず「大地の歌」と名付けたが、十番目の交響曲を作曲中に病死。シベリウスは第八を書き終えた段階で楽譜を焼き捨て、そのお陰で長生きしたという。

13. さまようハイドンの頭蓋骨
ハイドンがコンサートツアーに出かける時、モーツァルトが「英語もできないのに大丈夫ですか?」と心配すると、彼は「わたしには音楽という共通語がある」と答えたというエピソードは知られる。彼の交響曲集「ザロモン・セット」の第六番ニ長調は「奇蹟」と呼ばれるという。イギリス公演中、聴衆がハイドンの指揮ぶりを間近で見たくて椅子を勝手に前へずらすと、突然巨大なシャンデリアが落下した。もし、椅子を移動していなければ大惨事になっていた。そこから「奇蹟」と呼ばれるらしい。幸運に恵まれたハイドンだが、頭蓋骨は不幸な彷徨をしたという。死後11年目に別の墓地へ埋葬しなおすことになって、棺を開けると頭蓋骨が消えていた。当時、骨相学が流行っていて、犯人は頭蓋骨研究者で、見せびらかすために居間に飾っていたという。その後、人手を転々とし、150年近くも頭蓋骨だけさまよい続け、ようやく墓場に戻されたという。ところで、戻された頭蓋骨は本物かいな?DNA鑑定なんて時代じゃないだろうに。

14. 早すぎる埋葬
キリスト教は基本的に土葬である。そこで、奇妙な現象を紹介してくれる。埋葬場所を移すために掘り返すと、遺体の腐敗が遅かったり、棺の中で遺体の位置が変わっていたりと。また、顔を恐怖に歪ませ、爪が血まみれだったこともあるという。つまり、埋められた後に蘇生して、苦しんで死んだ様子がうかがえるわけだ。こうした現象が、吸血鬼伝説を盛り上げる。エドガー・アラン・ポーは、小説「早すぎる埋葬」で、「まだ生きているうちに埋葬されるのは、疑いもなくこの世の人間の運命のもっとも恐ろしいもの」と記したそうな。サディズムで知られるサド侯爵は、この早すぎる死を恐れ、晩年ホテルのベッドで「死んでいるように見えますが、死んではいません」というメモを置いたという。ジョージ・ワシントンも「絶対三日間は墓に入れないでほしい」と秘書に残したという。現在では、棺に本人の愛用した携帯を添えるという話も聞く。電波が届けばなんとかなりそうだが、火葬だったら...?

15. 疑わしいルソーの名声
ナポレオンをはじめルソーの自然崇拝や文明批判に影響を受けた偉人は多い。ルソーは著書「エミール」で全人的教育論を展開している。ところが、この本が出版された二年後、匿名のスクープが出回ったという。彼には愛人がいて5人の子供を産ませたが、名前すら与えず孤児院に捨てたという。これは、ルソーの論敵ヴォルテールが流布したとされるらしい。当時の孤児院は、赤ん坊の場合、初年で三分の二が死んだというから殺すのと大差ない。彼は「告白」で弁明しているという。「エミール」には、「父親としての義務を果たせない者は、父親になってはいけない」とか、「貧困も仕事も、子どもを養育しない理由にはならない」などとほざいているらしい。捨て子が珍しくない時代とはいえ、ルソーの名声があまり傷ついていないのはどういうわけか?だから、酔っ払った天邪鬼は、極端な理想なんぞを掲げる教育者や道徳家という人種をイカサマ師と呼ぶわけだ。

16. 人間公衆トイレ
当時のパリは、トイレの臭いでいちころだったらしい。法律で規制しても、排水の問題で川の汚染は深刻だったという。死体解剖の後、ばらばらにしてトイレに流したりもしたそうな。パリは1830年まで公衆トイレがなく、ロンドンは更に遅れて1852年まで公衆トイレがなかったという。ところで、貴婦人たちは舞踏会でどうやってたんだろう?庭先で...
バケツをもって道端に立つ「人間公衆トイレ」といった仕事まであったというから、パリの優雅なイメージが一遍に吹っ飛ぶ。このあたりは酒を飲みながらは読めない。シラフだともっと強烈かも!

17. カストラート
大浪費芸術が華やかな時代、カストラートと呼ばれる去勢歌手たちが活躍した。アラブや中国の宦官たちとは違って政治的に去勢したのではなく、オペラのためだけに去勢手術を受ける。去勢することによって男性ホルモンの分泌を抑制し、変声期による声帯の成長を人為的に妨げ、少年のままの美しい声を維持するわけだ。ただ、手術の失敗で死ぬケースもある。性(せい)を捨てて声(せい)を取る、まさに命がけの芸術というわけか。したがって、カストラートのなり手は下級階層出身者ばかりだったという。

18. エスカリーナ2世に拝謁した日本人
一介の船頭で大黒屋光太夫という人が、ロシアの宮廷に行った記録が残っているそうな。船員16人とともに江戸へ向かう途中、暴風雨でアリューシャン列島の孤島に流される。彼らは、イルクーツクまで帰国許可書をもらいに行くが、日本語教師にさせられて嘆願書は揉み消される。年月が経って生き残ったのは3人。埒があかないので女帝へ直訴。その苦労話を聞いたエスカリーナは、憐れに思い帰国の手配をした。ところが、日本へ帰国するとそのまま幽閉されたという。本書は、貴重な体験をした人物を生かそうとしない幕府の無能さを嘆いている。そういえば、イラクで人質になって無事に解放されても、自己責任という言葉を浴びせ掛け、世論の餌食になった人達がいた。彼らも独自の人脈や貴重な情報を持っていただろうに、その体験だけでも外務省筋と仲良くなっても良さそうなものだが...その後どうなったのやら...

19. イメージだけが一人歩きするナイチンゲール
ナイチンゲールは、経済白書や保険関係の統計資料を研究し、統計学の草分けとも評されるという。彼女は、舌鋒鋭く誰にも容赦がないので、「足るを知らず怒れる者」との異名をとったという。ただ、彼女は生前から既に伝説的な存在だったそうな。ヴィクトリア朝時代、まだ働く女性が軽蔑される中、意志を貫いて療養所の監督職を得た。その直後、クリミア戦争が勃発。寄付金と個人財産を使って、38人の看護婦をひきつれてトルコへ向かう。新聞は「白衣の天使」ともてはやす。しかし、実際に看護婦をしていたのは、ほんの短期間だったという。高い知力と政治力を駆使して本当に活躍をするのは、それから先のことだそうな。

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