2010-03-07

"パンセ" Blaise Pascal 著

ブレーズ・パスカルといえば、理系の人間には「パスカルの原理」や「パスカルの定理」の方が馴染みがある。だが、本書に登場する「人間は考える葦である」という言葉や、「クレオパトラの鼻」の一節は広く知れ渡り、多くの書物で引用される。よって、ずーっと前から一度は読んでみたいと思っていたが、いかんせん大作だ。ようやく気が向いてくれたのはありがたい。彼の才能はあらゆる方面に向けられるため、その本業が何かは知らない。ただ、偉大な科学者や数学者が哲学や神学に目覚めた例は多い。天才たちは、自然科学や論理学に限界を感じ、ついには哲学や神学に踏み込まないと説明できない領域があることを悟るのであろうか?
「パンセ」とは、一般的に「思想」と訳されるようだが、ここでは「宗教よりの哲学」とでも言っておこうか。本書を読めば、パスカルが純真なキリスト信者であることが分かる。だが、ここに顕れるのは単純な宗教心ではなく、論理的に信仰しているように思える。単なる宗教を崇めるだけの書ならば読む気にもなれないが、随所に皮肉が込められるのがいい。したがって、本書をキリスト哲学と解釈している。
「哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである。」

本書は、「神なき人間」としての生来の人間の姿を考察するところから始まり、悪徳から生じる醜さと、考えることの偉大さという二重性から精神の矛盾を指摘する。この二重性は、人間性と神性という霊感で説明される。そして、矛盾の原因は人間の罪にあり、罪から解放し幸福を導くものはキリスト教に他ならないと結論付ける。そこには、キリスト教の弁証法的な考察が展開される。また、イエスをメシアと崇めながら、キリスト教の運営については批判的な言葉が随所に鏤められる。真のキリスト信者は少ないだとか、信者の多くは迷信に頼っているとか、宗教裁判を「堕落した無知」と嘆く。なるほど、キリスト教徒とイエス信者では意味が違うというわけか。
「キリスト教をほんとうだと信じることによってまちがうよりも、まちがった上で、キリスト教がほんとうであることを発見するほうが、ずっと恐ろしいだろう。」
おそらく、あのヘブライ人は噂されるほどの偉大な人物だったに違いない。だが、偉大な思想を伝承するのは凡庸な人々であり、崇高過ぎる思想は都合の良い解釈で歪められる。司祭たちは、自らの存在意義を強調するように解釈するだろう。罪人たちは、改心すれば全てを水に流してくれると解釈するだろう。伝統や思想を思考することなく、ただ従うのであればカルト化するしかない。となれば、聖書を単なる読み物として出版し、解釈を一般の読者に委ねた方がいい。聖書を宗教書としてではなく哲学書として読むならば、悪くないかもしれない。宗教は遠くから眺めるぐらいでちょうどいい。近づき過ぎれば、盲目となって狂乱してしまう。
キリスト教の根幹が、本書の言う人間性と神性の共存だとするならば、それほど悪い信仰だとは思えない。ただ、宗教に頼らなくても、自己の人間性と同時に、何か崇高な神からのお告げのような、良心の呼びかけのようなものを感じることがある。経験だけでは説明のつかない「良心の呵責」と言おうか。これを霊感と言うのかは知らん。あらゆる宗教の創始は素晴らしかったに違いない。だから、少なからず信者がいる。だが、崇拝の度が過ぎれば脳死状態に陥る。まさか、偉大な神が「人間に思考を止めろ!」とは教えないだろう。そのように解釈する人は少ないだろうが、そのように実践している人は多い。ならば、最初から精神なんて機能を与えなければいいものを。神は残酷だ!ならば、宗教として崇めるのではなく、生き方として示す程度にすればいいものを。人間にとって重要なのは生き方である。宗教や哲学は、生き方の参考にする手段に過ぎない。

無限の空間と永遠の沈黙が人間を恐れさせる。人間は、無限の存在をなんとなく感じても、その正体を知らない。無限という数字が存在しても、その正体が偶数なのか奇数なのかも知らない。有限と無限の境界線を定義できても、そこに何があるかを知らない。したがって、人間が神の正体を知らなくても、神の存在を信じても不思議ではない。たとえ無神論者であっても、なんとなく神のような、到底敵わない絶対的な真理のような存在を感じる。それにしても、神の代理人と称する人間の数の多さには驚くべきものがある。宗教を信じるも信じないも、人生の賭けというわけか。
「人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない。」

1. パンセのいきさつ
「パンセ」は、パスカルの言葉の断片集である。その経緯をたどると複雑な事情があるようだ。彼の死後(1662年)、発見された文集はあまりにも未完成なために出版が断念されたという。初版が出版されたのは死後7, 8年も経った後、これがポール・ロワヤル版と呼ばれる。ちなみに、この編者の名は不明らしい。
そして、1842年に哲学者ヴィクトール・クーザンが原稿と大きく違うことを指摘し、1844年に原稿に忠実な版がフォジェールによって公刊されたという。なるほど、なんとなく熟成ワインの香りがするわけだ。「パンセ・ド・フォジェール」なーんて極上のワインがあってもよさそうなものだ。
その後、1897年のブランシュヴィック版が多数派になったという。ちなみに、この版が初心者にはとっつき易いらしい。本書もこの版を主体にしているという。
更に、戦後ラフュマが唱えた版など、多くの研究者によって改訂され続けたそうな。

2. 普遍的な人
社会では、専門家という看板を揚げなければ、その分野では相手にされない。人々は、なにかと代名詞を欲しがり、名刺にはややこしい肩書きを付ける。しかし、普遍的な人は看板などまっぴらだという。
「人は普遍的であるとともに、すべてのことについて知りうるすべてを知ることができない以上は、すべてのことについて少し知らなければならない。なぜなら、すべてのことについて何かを知るのは、一つのものについてすべて知るよりずっと美しいからである。このような普遍性こそ、最も美しい。」
そもそも、専門家ってなんだ?あらゆる学問が人間精神にかかわるのであれば、すべての人が専門家になりうるはず。そして、その方面に好奇心を持った人が専門家となるのが自然であろう。一つの専門分野を徹底的に探求したところで、その分野を悟るところまでは到達できないだろう。その領域で精神の悟りのような境地に達することができるのは、一部の天才たちに与えられた幸せであろう。どうせ悟れないなら、広範に学問してみるのも悪い選択ではない。いずれにせよ、生き方の好みの違いであろうか。

3. 想像力と誤謬
想像力は、誤りと偽りの主で、いつもずるいと決まっていないだけに一層ずるい奴だという。そして、理性を脱線させるものが想像力であって、理性が想像力に完全に勝つことはできないという。また、識者は自信を持って議論するが、真に分別のある人は恐る恐る議論すると指摘している。確かに、想像力には賢さと愚かさが同居する。想像力は誤謬へ導くための欺瞞的能力を持っている。法律家は客観的判断力の持ち主と自認する。その想像力はますます理性に自信を持たせ、より一層の判断力の持ち主と自負する。だから、一般的に常識とされる「見直し」という態度がとれない。エリートの自信とは恐ろしいものがある。古い考えが誤謬へ導くとは限らない。逆に、新しい考えの魅力によって誤謬へ導くこともある。人間は、慢性的に誤謬の原理という病を患っている。したがって、世界一公平無私な人間であっても、自らの事件の裁判官になることは許されないはずだ。しかし、政治家たちは自ら立法権を持つ。しかも、議員たちは論争で相手を罵り合う。そこにある矛盾は共存できるかもしれないのに、無理やり排他論理に従う。おまけに、彼らは「平行線の原理」に憑かれながら「先送りの法則」を見出す。
エピクテトス曰く、「われわれは、人に頭が痛いでしょうと言われても怒らないのに、われわれが推理を誤っているとか、選択を誤っていると言われると怒るのは、なぜだろうか?」
人間が悪徳や欠陥を持つことは悪であろうが、それが人間の持つ属性ならば受け入れるしかない。だが、それを認めようとしないがために、更なる欺瞞で覆い隠す。真実を語る人を憎み、自分に有利に働きかける人を好む。おまけに、自分の本性とは掛け離れた欺いたところを評価されたいと欲する。これが自己愛というものか?
「びっこの人が、われわれをいらいらさせないのに、びっこの精神を持った人が、われわれをいらいらさせるのは、どういうわけだろう。それは、びっこの人は、われわれがまっすぐ歩いていることを認めるが、びっこの精神の持ち主は、びっこをひいているのは、われわれのほうだと言うからである。そうでなければ、われわれは、同情こそすれ、腹を立てたりなどしないだろう。」

4. 気を紛らわす
人間を楽しませるのは、戦いであって勝利ではないという。すべての探求や賭け事までもが、終わった途端にうんざりし、支配欲は支配してしまうと萎える。討論とは、意見を戦わせたいだけであって、結論を求めているのではないのかもしれない。何かに熱中するのも、人生というギャンブルをするのも、単に気を紛らわしているだけかもしれない。人間は、騒ぎを好み揉め事を好む。他人の不幸に関心を持ち、自分の境遇の気を紛らわせる。批評するのも気の紛らわしにちょうどよい。人間は永遠に評論家であり続けるであろう。たとえ、不幸に見舞われても、それが気を紛らわしてくれるならば、その瞬間だけ幸福を感じられるのかもしれない。逆に、どんなに幸福であっても倦怠感が募り、気を紛らわすことができなければ虚しくもなる。
権力者は、朝から忙しく多くの人に面会し、自分というものを考える余裕がないという。そして、ただ他人がやってくるだけで自分の存在を実感し、その地位であることに喜びを感じることの他に何があろうか、と皮肉る。どんな権威も、その真偽は別にして、ただ自分を経由するだけで満足する。単に存在感を誇示できればそれでいい。人間は、自分の愚かな姿を知らない方が幸せであろう。世間体ばかり気にしながら生きるのも、気を紛らわす手段である。では、気を紛らわすことを排除した時、そこに何が残るのだろうか?あまりの退屈さに精神は消耗するのであろう。

5. クレオパトラの鼻
「人間のむなしさを十分に知ろうと思うなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めてみるだけでいい。」
ここで、クレオパトラの鼻がもっと短かったら歴史が変わっただろうというフレーズが登場する。もっとも、これは精神の虚しさを恋愛の原因に求める例え話であって、真面目に歴史を語っているわけではない。恋愛の原因が何かは分からないが、その恐るべき結果は全世界を揺るがす戦争をも引き起こすというわけか。
「人間は死と不幸と無知とを癒すことができなかったので、幸福になるために、それらのことについて考えないことにした。」

6. 正義と無知
「自然法というものは疑いなく存在する。しかし、このみごとな腐敗した理性は、すべてを腐敗させてしまった。何ものも、もはやわれわれのものではない。われわれのものと呼ぶものは、人工的なものである。元老院の決議と人民投票とによって、罪が犯される。われわれは、昔は悪徳によって苦しんだが、今は法律によって苦しんでいる。」
誤りを正すという類の法律ほど、誤りだらけのものはないという。そして、法律が正しいという理由だけで法律に服従する者は、精神の内に正義を持たず、法律の本質に服従しているのではないと指摘している。なるほど、法律を持ち出して正義を唱える者は、もはや理性感情を失っているわけか。それで、政治家は法律を持ち出して言い訳に徹するわけか。
「世の中で最も不合理なことが、人間がどうかしているために、最も合理的なこととなる。」
人間は笑うべきものであり不正であるから、人間が作った法律が合理的となり公正になるという。政治指導者に最も有徳で有能な人物を選ぼうとすれば、たちまち罵りあいとなる。理性的な人間ほど、自らをわきまえ、自己主張を宣伝することはしないだろう。したがって、政治報道はR-18指定するがよかろう。
「流行が好みを作るように、また正義をも作る。」
社会の秩序を守るためには、権力に従わなければならない。したがって、正しいものに力を与える必要がある。だが、人間は、正義がなんたるかを見極められずに、多数決という実践的で巧妙な手段を編み出した。力の正当化は多数派に支配される。しかも、高度な情報化社会には、ほんの小さな正義っぽい意見を増幅する力がある。ただ、世論が大衆の叡智となることもあるから、一方向からの観察だけでは決定できない。本書は、真理が自然的な純粋な無知のうちにあるという。無知の結集が叡智となりうるのか?なるほど、思い上がった知識を、抑制できる唯一の方法は、無知を悟った時であろう。こうなると、無知を馬鹿にはできない。もしかすると、無知が真理に近づく最高の方法なのかもしれない。
「多数主義は最善の道である。それはあらわであり、服従する力を持っているから。とはいえ、これは最も無能な人々の意見である。...人は、守らざるを得ないことを正義と呼ぶ。」

7. 人間は考える葦である
「理性は主人よりもずっと高圧的にわれわれに命令する。なぜなら、後者に服従しなければ不幸であるが、前者に服従しなければ、ばかであるから。」
人間は、ひとくきの葦に過ぎず、自然の中で最も弱いものであるという。しかし、それは考える葦である。人間は考えることによって偉大にもなれるし、考えることに道徳の原理があるという。そして、立てつづけの雄弁さが退屈させるように、偉大さを感じるにはそこから離れる必要があるという。人間は考えることによって尊厳が得られることもあれば、愚かな行為を招くこともある。自らの尊厳を守るために、自殺という矛盾を犯すことすらある。世間では、極度の才知は狂乱者と批難される。だが、中庸を良しとするのは、多数者が編み出した概念であるという。多数者が凡庸な人間を好むのは、そこに仲間意識があるからで、単なる才能への僻みなのか?自分よりも劣っていると認識した人間に優しいのは、自己の優位性に満足するからか?人間社会には、運命とも言うべき不平等が付きまとう。だが、それが最高の圧制にまで高められるところに虚しさがある。精神には偉大さと惨めさが共存する。この二面性は、並外れた思い上がりから絶望にまで及び、どちらに偏っても精神病を患うから困ったものだ。
「あることについての真理が知られていない場合、人間の精神を固定させる共通の誤りがあるのはよいことである。...なぜなら人間のおもな病は、自分の知りえないことについての落ち着かない好奇心だからである。こんな無益な好奇心のなかにいるよりも、誤りのなかにいるほうが、まだ、ましである。」

8. キリスト教の解釈
「自分の悲惨を知らずに神を知ることは、高慢を生み出す。神を知らずに自分の悲惨を知ることは、絶望を生み出す。」
信仰には、理性と習慣と霊感の三つの手段があるという。キリスト教は霊感を排除する信仰を受け入れないという。それは、理性と習慣を排除するのではなく、理性と習慣が霊感に謙ることを教えているという。ここで言う霊感とは、自然原理のような偉大な宇宙原理のような存在であろうか?だが、現実には、理性と習慣を排除して、ひたすら霊感に頼る輩が多いようだ。しかも、その霊感を幻想と錯覚し、外的なものに助けを期待する迷信と化す。これこそ、人間の高慢ではないのか?
本書は、キリスト教批判者の誤解を解こうとする。それは、一人の偉大な神を崇拝することではなく、自己の二つの性質「人間性」と「神性」を結びつけるものだという。
「二種の人々がいるだけである。一は、自分を罪びとだと思っている義人、他は、自分を義人だと思っている罪びと。」
この二重性を知るところに神の憐れみが現れるというのが、キリスト教の根本原理だという。しかし、キリスト教を崇めている連中が、本当にそう解釈しているのだろうか?邪悪な人間は、ご都合主義によって、なんでも救いを求めれば助けてくれると信じるであろう。世界に絶対的な価値観を提示できる宗教があれば、こんなにも多くの宗教は存在しないはずだ。どの宗教を信じようが勝手であるが、異教徒を罵ることが宗教の本質とは思えない。ならば、その中間にある無宗教が良さそうだが、彼らは無宗教者ですら異教徒扱いする。所詮、その宗教に所属しないと分かち合えない理屈がある。宗教の矛盾は、知恵と愚かさが共存していることに気づかないことであろう。酔っ払った天邪鬼は、宗教のように「信じろ!」と言われれば疑うし、哲学のように能書きを並べれば「ほんまか?」と思考を試みる。そして、完璧な論理性を主張すれば、そこに矛盾性を探さずにはいられない。
「奇跡を信ぜよ!...人が真の奇跡を信じないのは、愛が欠けているからである。」
その通りかもしれない。酔っ払いには愛が欠けている。愛が何たるかも知らない。だが、世の中には、愛を語りながら愛の欠けた凡庸な人々で溢れかえっている。となると、キリスト教は凡庸な人々を救済できないということになりはしないか?どうりで、アル中ハイマーには宗教など理解できないわけだ。

9. 論争の原理
「信仰は互いに矛盾しているように見える多くの真理を含んでいる。...これらの矛盾のみなもとは、イエス・キリストにおける神人両性の結合である。...信仰と道徳とについて、相容れないように見えながら実は一つの驚くべき秩序においてことごとく共存するきわめて多くの真理がある。」
論争は、排他論理を前提としているように映るが、単に相手の真理を批難しているだけのことかもしれん。平和主義者は、戦争を完全に否定するが、戦争状態を知らなければ、真の平和を説くことはできない。遠い場所で起こる戦争を安心して眺めながら、平和論議はお盛んだ。戦争を国と国の喧嘩と解釈するならば、喧嘩は至る処に存在する。人間社会は、平和ボケと戦争狂気を繰り返す運命にあるのかもしれない。矛盾と排他論理を混同すると、奇妙なことが起こる。人間は、矛盾に対して激しく目くじらを立てる。矛盾という真理から、わざわざ遠ざかろうとするかのように。人間は、精神の持つ矛盾を弱点と解釈するのだろうか?もし、矛盾を長所と解釈すれば、人間はどういう反応を示すのだろうか?まぁ!酒でも飲もうや!となるかもしれない。
「僕は主人のすることを知らない。主人が彼に用事だけを言いつけて、目的を示さないからだ。そして、これこそ僕が盲目的に従い、しばしば目的にそむくゆえんである。しかし、イエス・キリストは、われわれに目的を示された。だのに、あなたがたはその目的を破壊している。」

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