2010-04-11

"フェルメール全点踏破の旅" 朽木ゆり子 著

時代は、宗教改革の影響でカトリックとプロテスタントが反目し合う中世ヨーロッパ。伝統的には、カトリック的な聖像崇拝をテーマにした美術品が多かった。しかし、この時代に堕落した庶民を題材とするプロテスタント的な禁欲や倹約をテーマにした作品が多く現れる。こうした流れは、美術品が政界や教会などのエリート階級だけのものという意識が庶民層に広がり、ようやく市民権を獲得したと解釈することもできよう。
西洋の美術品は、宗教観や歴史的背景を理解しないと味わえないというのが一般的な認識ではないだろうか。キリスト教的象徴、あるいは寓意や暗喩といったものは極めて慣習的なものなので、日本人には理解の難しいところがある。
ところが、だ。フェルメールとなると、日本人にも人気を博す不思議な世界がある。鑑賞者に思想を強いるところがまったくなく、教説的なものも感じない。専門的には優れた技法もあるのだろうが、語りかけてくる物語が自然に想像できるのがいい。電子メールや携帯電話に追われた毎日を忘れさせてくれるような、時間の止まった無限の安らぎを与えるような世界である。日常生活を題材にしたドキュメンタリー的な様相を見せるところに、親しみを感じるのかもしれない。いや、一見日常的でありながら、非現実性が混在する訳の分からないところに、癒しの空間を与えてくれるのかもしれない。これは明らかに宗教の崇高さとは違う。謎めいた崇高さとでも言おうか。したがって、これぞ純粋芸術!という気がする。
しかし、本書を読むと、実はそうでもないらしい。フェルメールにも宗教的要素が多分に含まれているそうな。ただ、既存の宗教というよりは、宗教を超越した独自の信仰と言った方がいいかもしれない。鑑賞者の心を動かす作品には、芸術家の信仰や哲学が顕になる。日常的な題材を象徴的な美にまで高める能力、これこそ芸術家の真骨頂であろうか。

言うまでもないが、ヨハネス・フェルメールはオランダの画家である。17世紀頃のオランダといえば、ミュンスター条約でオランダ王国が独立を勝ち取った時代。16世紀、スペイン王ハプスブルク家のカルロス1世(神聖ローマ皇帝で言えばカール5世)は、徹底的にカトリック化を進め、イベリア半島からユダヤ人や異教徒を追放した。植民地ネーデルランドは、カルヴァン思想が広まり、迫害を逃れた人々が集まる地でもあった。フェリペ2世の時代には、ネーデルランドにも弾圧や処刑の手が伸びる。そして、ユトレヒト同盟はネーデルランド連邦共和国(オランダ)の独立を宣言する。カルヴァン派は、聖像崇拝を否定し、カトリック美術の中心だった聖人画や聖母子像を禁止した。カトリック教国では、最大のパトロンは教会であり大部分はキリスト教をテーマとしていたが、宗教改革で教会の祭壇や聖画のほどんどが破壊された。そして、顧客は教会から裕福な商人となる。裕福な階級が貴族ではなく商人というところがオランダらしい。オランダ東インド会社といった重商主義が優勢になり、裕福な商人が台頭した時代である。
市民は親しみやすい作品を好み、宗教画から独立した風景画、静物画、風俗画といったジャンルで細分化したという。こうしてオランダ芸術の黄金期を迎える。だが、英蘭戦争やルイ14世の侵略で芸術も衰退し、生活苦に悩む画家が溢れた。フェルメールは、辛うじて黄金期の終焉間近を生きた画家である。したがって、フェルメールもカトリック系の宗教画から離れやすい環境にあったのだろう。だからといって、プロテスタント的な誇張もなく、まったくの自然体で、それほど大きなテーマが隠されているようには感じない。ちなみに、哲学者スピノザもこの時代と重なる。

フェルメールの絵は、わずか37点しかないという。本書は、その少なさ故に、世界中の美術館に散在する作品を訪ねる至福の旅が成立するという。専門家の間では、34点に関しては本人の筆によるものだと大筋で合意しているという。そして、「フルートを持つ女」と「聖女プラクセデス」の2点は、本人のものではないと大筋で合意しているという。ただ、あくまでも大筋であって、本人の作品であると主張する専門家もいるようだ。逆に、「赤い帽子の女」は真作性に疑問を持つ学者も少なくないらしい。「ダイアナとニンフたち」も、少数の専門家は本人のものではないと指摘しているという。したがって、真作は34点というのが、国際標準なのだそうな。
そこへ、2004年「ヴァージナルの前に座る若い女」が新たに真作として認定されたという。これが、「ヴァージナルの前に座る女」と似ていて紛らわしいので、本書は区別するために「若い」という形容を付している。ただ、その認定にも疑いを持つ学者もいるらしいが。
こうした、真作、非真作論争が絶えないという謎めいたところに、この画家の魅力があるのかもしれない。43年間の人生でわずか50枚程度の絵しか残さなかった寡作な画家である。偉大な芸術家が描けば、その意図を深く考えずにはいられない。そこで、無理やりな解釈を持ち込めば、作品にも箔がつく。だが、本当に芸術家に深い意図があったのだろうか?単に気まぐれで、その風景を描きたくなることだってあるだろう。依頼主から、好みを指定されただけかもしれない。あまり難しく、哲学や歴史の意味を気にせずに味わえるのがフェルメールの世界だと思っていたが...学者たちの想像力は、そう簡単に片付けることを許さないようだ。
画中画は、絵の中に描かれる絵であるが、ここにも共通認識のようなものがあるらしい。例えば、海の絵が描かれると、恋愛の状態を意味するという。海が荒れていれば希望はないが、海が穏やかだと恋愛も順風満帆といった具合に。フェルメールは、初期の作品で物語やメッセージ性を意図的に排除したという。だが、後期の作品では、画中画や小道具を多く登場させているという。

フェルメールの絵には様々な来歴があるようだ。一世紀にも渡って個人所有で美術関係者に知られなかったものから、盗難や略奪を繰り返すという暗い面を持ち合わせる。中にはフェルメール自身が個人的に思い入れがあって贈呈したものもあるだろう。もしかしたら、まだ個人所有の中に埋もれている作品があるかもしれない。贋作も多いことだろう。なんと、ダリの中にも贋作があり、フェルメールの絵があまりに少ないのを嘆いて「レースを編む女」を複製したという。
また、権力者による略奪や、多くの富豪が買いあさったことも想像に易い。ヒトラーは、ムッソリーニと会談した時、フィレンツェのウフィツィ美術館を訪ねてルネッサンス美術に感銘を受けたという。そして、「ヒトラー美術館」ことリンツ美術館を充実させるためには、ドイツの所蔵品だけでは不十分と見るや、ウィーンから名画を略奪した。その過程でフェルメールの作品も手に入れようとしたとされる。オーストリアはヒトラーの祖国で、ウィーンは彼が画家を目指した地でもある。ヒトラーは美術学校の入学を拒否されたことに恨みを持っていたのだろうか?彼はハプスブルク家の退廃や東方文化との融合を嫌悪し、印象派あるいは表現主義や抽象芸術を堕落と見なしたという。ウィーンには収集家やパトロンにユダヤ人が多かったこともあり、財産や美術コレクションを奪い尽くす。
当時、新興国アメリカでは、富を蓄積する過程においてフェルメールの絵が大きな役割を果たしたという。大富豪がヨーロッパ中から買いあさった結果、三分の一はアメリカの美術館に残っているらしい。したがって、フェルメールの絵を追いかけるだけで、ヨーロッパ各地にアメリカを加えた旅が成立するわけだ。なるほど、本書は、旅行ガイドのような様相を見せる。そして、一枚ずつ観て回る巡礼の旅へと導かれる。

1. 「真珠の首飾り」
少女が鏡に向かっている眼差しからは、なんとなく希望に満ちたものを感じる。室内を満たす金色の光は、夕日からの照り返しか?朝日が差し込んでいるのか?重々しい質感がある。白いはずの壁に黄金のグラデーションがあるところに崇高さが表れる。ここに宗教的な象徴はないのだが、宗教色がないとも言い切れない。フェルメールの妻はカトリック教徒で、結婚時、カトリックに改宗したとする説があるという。よって、この作品には、キリスト教的な観点から伝えるという解釈もあるらしい。

2. 「紳士とワインを飲む女」
二人の男女が描かれ、その横の椅子に楽器が置いてあることから、二人の間に愛があることが暗示されるという。音楽を表すモチーフには、愛の小道具として使われることが多いらしい。
また、窓のステンドグラスに描かれる青い服を着た女性像には、節度を擬人化した寓意が隠されるという。したがって、この作品は飲酒と性愛に溺れることに自制を説いたものだそうな。ただ、二人の男女に溺れるような見苦しい姿があるわけではないのだが...

3. 「取り持ち女」
奇妙なタイトルである。売春婦斡旋屋の女が、客と売春婦を取り持つという意味だそうな。なるほど、金を持って女性の胸をもんでいる男と、後ろには異様な雰囲気の黒頭巾の女が描かれる。なんでこんな絵を描いたんだろう?
これは初期に描かれた絵で、市場のニーズに合わせて風俗画家へ転身を図ろうとしたものだという。プロテスタント的な観点からは慎むべき題材であるが、その規範を示す作品という解釈もあるらしい。流行に関心を持ちながら、その滑稽な姿を揶揄する風刺的な意味があるのかもしれない。いや!あまり性的にいやらしそうには見えないので、単に金のない画家が売春婦に憧れたと解釈できなくもない。

4. 「窓辺で手紙を読む女」
本書は、この絵が大きな転換点になったのではないかと推察している。そこには、部屋に光が差し込む中で、女性が一人佇んでいる定番の構図がある。ソフトで平明な光が導入され、そのグラデーションには、なんとなく崇高さを感じるのも定番である。読んでいる手紙が、ラブレターという解釈もあるらしいが?右に描かれるカーテンが、鑑賞者と距離感を保ち奇妙な奥行きを与え、その距離感が手の届かない女性の存在を印象付けるという。
しかし、ラブレターのように明るい印象はなく、むしろ不幸な報せのような気がしてならない。夫が戦死した悲しみか、あるいは家族の死か、その絶望を距離感で表しているような。奥行きと立体的な暗い空間には、なんとなく重苦しさを感じる。こうした遠近法的な工夫が、崇高さを与えるのかもしれない。

5. 「絵画芸術」
ハプスブルク家のコレクションにピッタリと嵌りそうな作品だが、長い間個人の所有物だったという。この絵の主役は寓意だという。描かれる女性は、歴史の女神クリオ。菩提樹の冠をかぶり、名声を意味するトランペットを持ち、歴史を象徴する分厚い本を持っている。したがって、手前で背を見せる人物は、歴史画を描く画家ということになる。
歴史画とは、聖書、神話、そして歴史上の物語や寓意などを描いたもので、当時は最高位だったという。歴史画を描くということは、歴史や聖書に独自の解釈や構想を示すことで、自らの知識や哲学を世に知らしめる行為であったという。壁にかかる地図は、オランダがハプスブルク家の支配下にあった時代のもので、地図のまん中にある大きなひび割れは、ネーデルランド北部7州が南北に分裂していた様子を表すという。シャンデリアの上部には、双頭の竜の彫刻があり、これはハプスブルク家のシンボル。画家の着ている衣裳は高級そうに見え、テーブルに広げてある本は知識を表しているという。つまり、この絵のテーマは、歴史を題材にする画家という職業の崇高さを賛えることにあるという。

6. 「真珠の耳飾りの少女」
フェルメールの絵でもっとも有名で、もっとも人気のある作品だという。少女の投げかける視線は親密なものがあり、なんとなく少女への憧れのような恋愛感情が表れる。彼が描く人物のモデルは、フェルメール家の人々や女中や本人の自画像と推察されるものや、パトロンの妻や娘たちとされるという。専門家によっては、モデルなどいないと信じる人もいるらしい。いずれも想像に過ぎないようだが、金持ちたちが家族の肖像画を依頼することは想像に易い。そこに、威厳をや美化を追加するように要求もされよう。
ところで、トローニーという風俗画のカテゴリーがあるという。不特定の人物の半身像といったものだそうな。肖像画よりも大げさに表現し、肖像画の範疇を超えるといったところだろうか。肖像画は依頼主の要求に応えるが、トローニーは画家の想像力を解放し、買い手も不特定多数に向けられる。もともと、トローニーには宗教的や神秘的や寓話的な意味合いがあったという。トローニーにもモデルが必要で、身近な人物から思考をはじめて想像を膨らませるのだろう。まさに「真珠の耳飾りの少女」はトローニーだという。

7. 「デルフト眺望」
これがフェルメールを有名にした絵だそうな。美術評論家テオフィール・トレが書いた有名な論文が引き金になったという。トレは、19世紀的な観点から17世紀のオランダの絵を眺め、17世紀の都市景観画の中に、この絵に似たスタイルがないと指摘したという。
風景を近距離から描いたものではないにもかかわらず、近くから眺めているような親密さを感じるのも不思議である。フェルメールが残した数少ない風景画だけあって、その意義にも想像が膨らむようだ。

8. 「ダイアナとニンフたち」
ニンフたちの中で左に背中を見せた半裸体の女性が描かれる。これがフェルメールが描いた唯一の女性の半裸体だという。この絵には、月の女神ダイアナというキリスト教的な比喩がたくさん隠されているらしい。金属製の水盤は純潔のしるし、足をふく動作はマグダラのマリアがキリストの足に涙を流したり、キリストが弟子の足をふく動作と重なるという。そして、キリスト教的な純潔と忠節が描かれているそうな。
ただ、それほど重要なテーマがありながら、日常的な風景に見えるところに不思議な魔力がある。また、ニンフたちの表情がなんとなく見えるのに対して、中央のダイアナだけ表情が見えないことがこの作品の評価を曖昧にしている原因だという。

9. 「マルタとマリアの家のキリスト」
フェルメールが描いたもっとも大きな絵だそうな。絵のサイズにもそれなりに役割があって、宗教画が大きいのはそこに威厳や雄大さを求めているのだろう。ちなみに、フェルメールの絵は、初期の宗教画は大型だが、二、三の例外を除いてだいたいが小型だという。
この物語は、新約聖書のルカ伝のもので、キリストがマルタとマリアの家を訪れる場面である。忙しくもてなす姉マルタが、キリストの御言を聞くために座り込んで動かないマリアをなじると、キリストがマルタに「あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、なくてはならないものは一つである。マリアはそれを選んだのだ。」と諭したもの。キリスト教的には、マルタのもてなしよりも、マリアの御言を聞く霊感的な行為の方が大切にされるという。そして、一般的にはマリアとキリストを中心に描き、マルタは脇役に位置付けるものらしい。
ところが、フェルメールはマルタを中心に描いている。そこで、マルタのように懸命に働く姿を美徳としたプロテスタント的な意味合いが強いという解釈も成り立つわけか。

10. 「天秤を持つ女」
この絵の画中画には「最後の審判」が描かれるという。なるほど、栄光のキリスト像の下で地獄に喘ぐ人々が描かれる。となれば、女の影で見えない場所には、天使ミカエルが死者の魂を天秤にかける姿があるはず。「最後の審判」の図では、ミカエルが人間の魂を天秤で量り、重い方の人間を生前の行いが善であったとして天国へ送ることになっている。
しかし、この絵には、その部分を女性の姿で隠して天秤を持っている。ここに意味ありなところがあるという。つまり、描かれる女性はミカエルに代わって何かを量っていると解釈できるそうな。
では、何を量っているのか?その曖昧さが多くの解釈を生む。精神には、あらゆるバランスが重要だとでも言っているような。あるいは、女性が熱中している姿には、精神のバランスをとることの難しさを訴えているような...

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