オケラのアル中は、ドスの利いた声でつぶやいた。
「一人勝ちするのは悪い奴!これが、ハコテンの美学というものさ!」
鏡の向こうの住人に、「勝ち逃げの死神」と呼ばれた伝説の雀士がいるという。いつも赤い顔しながら「ああ気持ちええ!」とつぶやくのだそうな。滅多に出会うことができないのだが、今日四月一日、偶然そこを通りかかった。桜祭りに招かれて夜の社交場へ向かうところらしい。そこで、ドサクサに紛れてインタビューを試みた。その、しつこく!まったり!とした言葉を、脂っこく!記述してみよう。
勝ちたいという欲望が、負けたくないという恐怖を掻き立てる。欲望と恐怖は人間の持つ本能であり、そこから逃れることはできない。本能が故に、相手との距離をはかり、間合いはかり、そこに駆け引きが生まれる。恐怖心とは、防衛本能であり、それすら呑み込む力、それが相手に無気味さを与える。つまり、勝負とは、恐怖心のやりとりに他ならない。
となれば、恐怖心を凌駕する方法は、精神を無心、無我の境地に置くしかあるまい。そして、本能のままに、その瞬間を楽しむ快感と喜びを養うことが肝要となる。自分の能力を信じ、迷いを払拭できれば、自らの行動に恐怖を感じることはない。いや!純粋な恐怖を感じることができると言った方がいい。純粋な恐怖は、脂ぎった欲望の裏にある恐怖とは異次元にある。勝負に集中する純粋な精神に、脂ぎった欲望の入り込む余地などないのだ。無意識無想となれば相手に隙を与えない。その狂気こそ無気味の正体である。
博奕打とは、楽をしながら金儲けをする人種である。そのために、情報収集に努め、敵を知り、己の技を磨く奇妙な人種でもある。怠惰を求めるが故に、勤勉に辿りつくというわけさ!
1. 博奕の法則
人間は、理は避けられても、偶然は避けられない。となると、偶然をも味方にすれば無敵となる。合理性は、個人の経験によって育まれる。すなわち、合理性とは、個人の持つ哲学的思考である。相手にとっての不合理性は、こちらにとっては合理性となる。勝負を仕掛けるならば、相手の合理性では計れない領域に誘い込むことだ。相手の思考回路を狂わせるとは、神経戦で精神の風上に立つということである。なんの得もない、ただ無意味に勝負に人生を委ねる。その理不尽こそ博奕の本性!そこには、怠惰を求めて匠を究める精神がある。そうした境地に辿り着いた時、初めて人生の博奕が打てる。
しかし、人間は金が絡むと性格が豹変する。レートが上がれば、勝負の流れを冷静に見極めることができなくなる。すると、精神は、確率論では計り知れない領域へと踏み込む。挙句の果てに、流れを悪くし、自ら蟻地獄へと誘ざなう。博奕とは、賭けるものがあるかないかで、決定的に勝負の性格が変わるゲームである。勝てば賞金が得られるのと、負ければ財産を失うのとでは、プレッシャーの質がまったく違うのだ。失うものがなければ、勝負は単純な能力で決する。だが、失うものが大きければ、純粋な能力を超越した能力が要求される。いくら、相手の手の内が読めても、自分の読みが信じられなくては、既に勝負を降りたことになる。そこには、怯えという防衛本能との葛藤がある。怯えは、精神の論理において最高位にある。怯えに支配された精神は、制御不能に陥る。ここには「負け犬の原理」が働く。つまり、自分の能力に命運を委ねる器量があるかが問われるわけだ。
人間は危機に直面すると、本性を顕にする。人間に完璧な精神力は求められない。完璧な駆け引きなどありえない。もし、完璧な自信に裏付けられる勝負勘があったとしても、それが完璧であるが故に崩れ始めると脆い。もちろん、自らの過信は問題外。強気とは、意地や頑固などではない。それは「強がり」というもので、怯えの裏返しにある。強気の本質とは、流れを読む冷静な判断力である。そこに、博奕のセンスが問われる。
博奕の根底には、人間が生涯に渡って対峙する恐怖心との戦いがある。守るものが大きいほど思い切った行動力が発揮できない。したがって、人生は博奕の最高位にある。
2. 麻雀の原理
麻雀は、先に和了(アガ)ることを競うゲームではない。いかに相手を降ろすかというゲームである。自らのイメージを増幅させた者が勝機を掴む。弱い奴の臭いを嗅ぎつければ、ハイエナのように群がってくる。麻雀とは、神経戦を楽しむゲームである。したがって、打ち筋には人生観が現れる。
打ち筋には、重要な情報とノイズが混在する。その中から重要な情報を嗅ぎ分ける能力と同時に、わずかな偽装情報を絶妙のタイミングで混入させる能力が要求される。これが麻雀のセンスである。勝負の流れを、牌が語りかけてくれる。それに耳を澄まさなければ、はかない誘惑に負け、迷いを見切れず、つい目先の点棒を拾いにいく。麻雀の論理は、一旦流れを失うと、身勝手な合理性に支配され、考えれば考えるほど相手の術中に陥るようにできている。悪い流れで突っ張れば、吸い込まれるように振り込む。これが「絶好のカモの原理」である。
そこで、流れを変える勝負術が必要となる。勝負術で最も重要な前提がブラフだ。それも、単なるブラフでは通用しない。自らの身を削ずるほどの演出がなければ迫力が出ない。まったく採算の合わない愚かな行為に相手は惑わされる。気迫が疑惑を呼び、疑惑が妄想を呼び、妄想が恐怖を呼ぶ。人間は、自分の価値観を完全に超越した不合理性に恐怖を感じる。一度でも場の気配を支配してしまえば、虚もまた実となる。すると、優位な立場にある人間には、安全に打とうとする誘惑が忍び寄る。この誘惑こそ流れを変える好機。一旦流れを呼び込んだら、怒涛のごとく押し潰すのみ。少しでも弱みを見せた相手には、二度と歯向かえないように完膚なきまで叩きのめす。勝負付けは、その場できっちりと済ませておくことが肝要。それで、次の勝負から精神の風上に立つことができる。これが勝負の鉄則である。
麻雀の基本構造は、確率で構成されるように見える。それも間違いではない。だが、賭けるものがあれば心理的要因で構成され、相手の精神を徹底的に捻じ伏せるゲームへと変貌する。牌を狙い撃ちする戦いは、心を狙い撃ちする戦いへと豹変するのだ。そこで、必要となるのが牌の嗅覚と精神の腕力。これは一種の度胸比べにも似た心理があるが、微妙に違う。最終的に、天に身を委ねる度胸を持ち続けられるかが問われる。一度でも精神のバランスを失えば、脆くも崩れ落ちる。
それは、「単騎待ちの原理」が証明している。単に和了(アガ)ることに合理性を問うならば、多面待ちに構えるはず。なのに、わざわざ単騎待ちに構えるのはなぜか?それは、相手に待ちを読ませないための駆け引きである。多くても九連宝燈の九面待ちか、国士無双の十三面待ちだが、単騎待ちは現物以外はすべて当たり牌の可能性がある。スジや牌種による読みは、まったく通用しない。待ちが読めないということは、それだけで相手に恐怖心を植え付ける。恐怖心のやりとりという意味では、これほど合理的な待ちはないというわけだ。
ここには、確率では計り知れない可能性を匂わせば、精神の風上に立てる原理がある。相手の思考を操作するところに麻雀の本質がある。麻雀の原理は、上手い奴が勝つのではない!強い奴が勝つ!
3. 勝ち逃げの法則
振り込めば楽になるという精神こそ肝要だ。死ねば助かるという気持ちが失せた時、勝ちの気配が死んでいく。そして、ただ助かろうとする。これは、博奕で負けが込んだ人間が、最後に陥る思考回路である。こうなると、自ら積み上げてきた合理性はすべて失われる。怯えは、まず、気のはやりや焦りという形で姿を現す。やがて、牌の語りかけが聞こえなくなり、手変わりの気配も見えなくなり、ついには精神のバランスを崩す。勝ち急ぎの気配を見せれば、後は相手のミスをじっと待てばいい。流れが見えれば、見えない振りをするのは簡単であるが、流れが見えなければ、見える振りをするのは難しい。集中力の持続こそ、博奕の生命線。安全に打とうとすると、防御一辺倒となり、完璧に読み切ろうとする迫力が薄れる。おまけに、希望と期待が追い打つをかける。希望ってやつは、危機が迫ると、願望となり、やがて祈りへと変貌する。希望とは弱さであり、期待とはご都合主義に陥ることを意味する。希望や期待は、幻想という形で精神に忍び寄り、精神が錯乱したら、後は地獄へまっしぐら。
相手が恐れるのは、こちらの狂気!だから、先制攻撃で脅しをかけてくる。その反面、脅しがきかなくなると崩れるのも早い。読みが当たったり、シナリオ通りに仕掛けがうまくいっても、その手柄を自慢しては全てが台無しとなる。あくまでも偶然性を装い白痴に振舞う。派手な手を地味に見せる。巧みな技を凡庸に見せる。
迷うから精神の起伏が現れる。迷いとは欲である。和(アガ)りたいという欲、裏をかきたいという欲、勝ちたいという欲、これすべて私欲。私欲の前では目が曇るのみ。欲が大きければ、それに反して、自己矛盾に陥り、自らの退路を狭める。目先の欲を捨て、無我の境地へ到達する集中力をまとわなければ、自我を克服できない。どうせ死ぬなら、強気に打って死ねばいい。常にその揺るぎない精神状態を保つことが鍵となる。これは、「どうにでもなれ!」といった心理に似ているが、無謀とはまるっきり質が違う。博奕の基本精神は、いかに泥酔者の精神が持続できるか、ここに集約される。
認めたくないが、人間は必ず老いる時が来るように、いつかは落ち目が来る。それを冷静に見極めることが肝要。それが引き際ってやつだ。自分の能力が信じられなくなったら、場から降りればいい。そして、伝説の雀士は何かを悟ったかのように雀卓から去ったのあった。これが「勝ち逃げの法則」である。
4. 博奕と市場原理
博奕の法則には、一種の経済学がある。あぶく銭に人生を委ねる点では市場原理に似ている。合理性の根拠を群集心理に求めながら統計学に熱中する。いまや、株式売買でプロとアマチュアの差別化も難しい。ネットが進化した現在では、トレーディングルームを自宅に構築することは容易い。情報格差において、インサイダー情報でもない限り、プロとアマチュアは急速に接近している。
では、どこに違いがあるのか?それは市場への参加を強いられるかどうかの違いである。プロは、他人の資産を運用するために、期限付で成果を出し続けなければならない。株価の上昇局面か下降局面かなど関係なく、常に成果が求められる。だが、経済情勢の複雑化の中で、常に儲かるように仕組むのは至難の業だ。だから、必至に逆ポジションといったテクニックを駆使する。安定した運営を試みるならば、資本力は大きい方がいい。そして、無暗に資金集めに熱中する。だが、資本力が巨大化し過ぎると制御不能に陥り、一旦、負債を抱え始めると後戻りできなくなる。ノーベル賞級のプロ集団でさえ、大規模な破綻は避けられない。逆に言えば、自己資金のみで運営するアマチュア投機家は、彼らよりも精神の風上に立っていると言えよう。リスク局面では静観していればいいのだから。十年に一度の絶好期に市場に参加すればいいぐらいの気持ちでやれば、気楽なものだ。この原理は、博奕の法則に基づいている。あぶく銭を稼ぐための心理構造は、いずれも基本原理は同じである。
2010-04-01
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