2010-04-18

"フラットランド" Edwin A. Abbott 著

古本屋を散歩していると、前々から目をつけていた古典に出会った。本書は、1884年に出版されたサイエンス・ファンタジー、いや!数学ファンタジーである。
「フラットランド」は、アボットが生きたヴィクトリア朝時代の社会風刺として名高く、しばしば科学書や数学書で引用される。そこには、数学を用いた社会学とでも言おうか、哲学的にも意義深い異色の世界がある。
発表当初、この作品はそれほど脚光を浴びたわけではなかったそうな。エドウィン・アボット・アボットは、校長、牧師、シェイクスピア研究家、古典学者として知られ、熱心な教育者だったという。彼の思想は英国教会の中でも広教会派で、カトリックやプロテスタントあるいは神秘主義とも一線を画していたという。よって、この作品は、思想を啓蒙するために数学的に考察した、おまけのような寓話的な存在だったのかもしれない。それが後に、理系の人間を中心に好評を博すところに歴史のおもしろさがある。

本書は、「次元とは何を意味するのか?」という疑問を哲学的に提示する。そして、科学や数学の意義を考えずにはいられない。かつて人類は地球を表面的な大地としてしか認識できなかった。古代ギリシャ時代に天動説が登場すると、地球を宇宙空間に存在する一球体として捉えるようになった。だが、それは天体観測で裏付けられた知識であって、人類の認識レベルが進化したわけではない。現在でさえ、地球が球体であることを実際に観た人間はごくわずかであり、大昔のように球体的な認識がなくても日常生活に不都合があるわけでもない。
ところで、人間の空間認識は、人間の持つ価値観に通ずるものを感じる。プラトン時代からの古代哲学がいまだに通用するのは、人間の価値観が大して進化していない証でもあろう。ただ、科学の進歩が人間中心主義を徐々に放棄させ、少し謙虚にさせているかもしれない。次元が加われば、物体の姿を違ったように見せる。同じ物体であっても、観測者が認識できる次元の違いによって、見える姿にも制約を受ける。一次元では、点が移動すると2つの端点を持つ線分を認識でき、二次元では、線分が平行移動して4つの端点を持つ正方形を認識でき、三次元では、正方形が平行移動して8つの端点を持つ立方体を認識できる。更に、四次元では立方体が平行移動して16の端点を持つ神聖な物体が認識できるはず。ここに、2,4,8,16,...の幾何階級を辿ることによってアナロジーが膨らむ。
数学者は物体の幾何学的正体を解析するために、微積分という次元を仮想的に変化させる道具を編み出した。では、人間が日常生活で認識している物事は、その正体のどのレベルの次元まで見えているのだろうか?人間の空間における次元認識とは、知識や精神能力の進化段階と解釈することもできそうだ。幾何学的限界は認識能力の限界を示しているようにも思えるから。人間の価値観とは、低い認識能力から別の次元を開眼しながら認識能力を高める過程と言えるかもしれない。
ただ、次元の低い世界の住人だからといって、別の次元を認識できないとも言えない。何かの機能に制約を受けることによって、別の機能が異常に発達することもある。物理現象を直接感じるのではなく、間接情報として投影することによって、鋭敏な感覚を身に付ける例は多い。サヴァン症候群は、左脳が障害を受けて右脳がその埋め合わせをした結果、ある方面の能力が異常に高められ、平均以上のIQを持つと聞く。また、視覚機能を奪われた人が、その機能を聴覚で補う場合もある。むしろ、恵まれた環境にある人の方が、認識能力が遅れるのかもしれない。狂気のないところに偉大な哲学思想も生まれないのだろう。

本書は、フラットランド(二次元世界)にスペースランド(三次元世界)の住人が現れて、次元を福音するという物語である。時空を超えた未来からやってきた使者は、優れた師に映るだろう。あらゆる知識や認識を先行させていれば、神の代理人と崇めるかもしれない。突然変異のように進んだ思想や哲学を持った人間が出現すれば、宗教や信仰の創始者ともなる。
だが、人間は、自分の想像力や理解力を超えた考えを、なかなか受け入れることができない。新しい価値観は、歴史の中で試行錯誤されながら見出されてきた。人間は、時間に支配された三次元空間に幽閉されている。過去と未来に挟まれながら、もがき続けている。現在という瞬間だけで得られる絶対的な価値観を見出すこともできず、過去の亡霊に憑かれながら社会を構築するしかない。四次元世界の住人は、こうした光景を滑稽に眺めているかもしれない。その先には地獄があるよ!と囁きながら嘲笑っているかもしれない。大昔の伝統的な価値観が否定されるように、現在の価値観も未来人によって嘲笑われるのだろう。人間が三次元空間から脱することができないとすれば、精神の領域だけでも高次の世界へ向かうしかあるまい。それが、真理という次元なのかは知らん!

数学者はあらゆる次元を表記し、無限さえも手なずける。まるで妖術師や魔術師であるかのように。だが、数式によって仮想空間をドライに記述したところで、それを精神と結びつけるにはかなり時間がかかる。いつの時代でも数学は哲学的認識よりも先行しているように映る。いや!どこかで追い越したのかも。
しかし、人間の空間認識は、精神を突然変異させて急激に価値観を進化させるかもしれない。そして、地球環境でしか住めない人間が遺伝子の突然変異によって、宇宙を動き回ることのできる体を獲得した時、多次元認識へ改宗される日がやってくるのかもしれない。空間における次元認識とは、まさしく精神のうちにある次元にほかならないであろう。

1. フラットランドの社会
フラットランドには様々な図形が住むという。社会的身分は図形の辺の数で決まり、辺の数が多いほど地位は高い。最下層には婦人の線分がある。その上の階層には、兵士や下層労働者の二等辺三角形があり、底辺が短いほど線分に近いので婦人と区別がつかない。角度が尖っているほど、知識や身分も低級というわけだ。中産階級には正三角形があり、紳士階級は正方形と正五角形からなる。その上の階層には、貴族階級の正六角形から始まり、名誉を得れば多角形の称号が得られる。そして、辺の長さが短く円と見分けがつかなくなると聖職者の階層となり、円が最高位にある。こうした階級は子孫に受け継がれ、運がよければ辺を一つ増やして上の階級へ出世できる。しかし、下の階級ほど、図形に対する辺の占める割合が強調されるので、なかなか辺を増やすことができない。鋭角な二等辺三角形がどんなに努力したところで、底辺が少し伸びるだけのこと。ただ、多角形の称号を得た者同士であれば、それほど辺の差も目立たないので婚姻関係も結びやすい。つまり、貧乏人はいつまでたっても貧乏のまま、無知はいつまでたっても無知のまま、けして下流階級から逃れることのできない社会秩序が維持されている。扇動されて鋭角な二等辺三角形が群集として団結しても、互いの鋭い角で傷つけあって自滅する。これがフラットランドの自然法則というわけか。
こうした社会構成を眺めるだけでも、ヴィクトリア朝時代の価値観や女性の社会的地位への痛烈な風刺が込められることが分かる。下流階級は、読み書きも教わらず計算知識がないので、角度を測ることもできない。円階級は、下流階級の人々を、愛やら、正義やら、憐れみといった美しい言葉で操る。感情的な概念をでっちあげて精神的に押さえ込むために。ひたすら瞑想を重んじる宗教的教えは、個人の意志を捨てさせ政治的に利用するのに格好の対象となる。なるほど、政治団体が宗教的に洗脳されれば、票田パワーが炸裂するわけだ。
現在ですら、聖書以外を悪書とするキリスト教的な神秘主義が蔓延る地域がある。政治家は、平等や正義や美しい社会や友愛といった言葉がお好きだ。数学的な真理を封じ込め、やたらと感情的な物言いで扇動する。
ところで、フラットランドの住人が、互いの姿の二次元図形を見渡すことができるのだろうか?それは、投影という物理的現象を使って間接的に情報を得ることができるという。三角形であれば、実際にぶつかってみれば、その角度も分かる。鋭角であればそれだけ危険。線分であれば突き刺さりもする。しかも、婦人である線分はうまい具合に寄り添って姿を隠すことができる。なるほど、ホットな女性は、しばしば影から忍び寄り、おいらの心を突き刺すわけだ!

2. 不規則図形
フラットランドの住人は、ほとんど正則図形で成り立つ。不規則な図形は犯罪者や障害者として扱われ社会の厄介者とされる。ただ、辺の数が少なければ長さの不均衡も目立つが、辺の数が多い上流階級になると、その不均衡さも目立たない。したがって、政治家のような不規則図形が蔓延ることになろう。支配者階級は、多角形の利益のために不規則図形に過酷な生活を強いる。ある確率の低いところで天才が生まれるならば、その逆にある確率の低いところで障害者が生まれる。大昔の社会では、障害が認められた子供が抹殺された時代があった。フラットランドでも、赤ん坊の角度が0.5度ずれているだけで、あっさりと殺されるという。不規則図形の家族たちは、医学的に苦しむことなく慈悲深く抹消すると考えるそうな。それが生まれつきでなくても、衝突を繰り返すことによって変形する場合もある。正則社会を維持するためにも、変形した不規則図形は隔離される。
ところで、線分には奇形がないので、男性階級にしか奇形は現れないことになるではないか。なるほど、犯罪や破廉恥な行為は、すべて多角形に欠陥があるから生じるのであって、上流階級ほど陰湿で巧妙な犯罪が行われるというわけか。

3. フラットランドで退廃した芸術的要素
フラットランドには、色彩めいた芸術的要素が何一つない。しかし、太古には色彩芸術を実践した時代があったという。色で区別できるならば、辺で区別する意味が無くなる。多くの人々が色彩文化にかぶれた結果、下流階級の人々は多角形の階級とあまり違いがないと思うようになる。そして、平等の権利を主張し、貴族的な独占的社会に反抗したという。数少ない天才の存在は、文化のかぶれ者たちによって凡庸化し、純粋であり続けるのは色彩のない婦人と聖職者のみとなる。そこで、婦人や聖職者にも同等に色を塗るべきだという風潮が生まれる。これは、婦人を色彩革命に引き入れるために巧妙に仕組まれたもので、いわば人気取りの選挙運動のようなもの。あらゆる住人が色彩に汚染された結果、知性は腐敗し純粋な認識能力を退化させたという。知的な学問は急速に衰え、幾何学や力学の研究などが疎かになる。階級の区別がつかなくなると、下等な連中が聖職者を名乗って主張を肩代わりするといった社会現象が起こる。こうして、貴族制度の転覆を目論んだが、色彩暴動は武力行使によって鎮圧された。もはや文明の発達は、野蛮に取って代わったというのか?それとも、芸術的な思惑は純粋数学によって駆逐されたというのか?

4. 三次元からの訪問者
物語の主人公はスクエアさん。つまり、正方形(square)。そこに、スペースランドからエイリアンのスフィアさんが訪れる。つまり、球体(sphere)。とはいっても、フラットランドとスペースランドは別空間ではない。単に住人の認識範囲の違いがあるだけ。フラットランドの住人からは、球体は円にしか見えない。球体が近づいてくると、一つの明るい点から始まり、徐々に大きくなっていき、やがて小さくなって、点となって消滅する。フラットランドでは、円は聖職者の最高位にあり、しかも不可解に大きさを自在に変化させるため、崇高なものに神秘性が加わって見える。
では、三次元目は、どの方向にあるのか?それはスフィアさんが来た方向で、フラットランドの住人からは見えない方向。認識できない次元は、住人が知覚できるすべての方向と直交しているわけだ。突然!姿を現す様子は、時間を超えた宇宙旅行をしているようにも見えるだろう。その得たいの知れない存在から発せられる声は、まるで霊界からの呼びかけのように、悪魔の囁きにも神の囁きにも聞こえるだろう。

5. 次元の福音
スフィアさんは、球体を説明するために、ラインランド(一次元の世界)を持ち出す。すべての多角形が高さという次元を失えば、すべて線分に見える。そこに、円が近づくと、明るい点から始まって、自在に長さを変える線分が見えるはず。ラインランドでは、空間とは長さである。相手を隔てるものは長さしかない。その位置関係も左右しかない。フラットランドの住人がラインランドに入って移動すれば、ラインランドの住人はそれが消えたり、現れたりするのが見えるだけ。まさしく、空間を瞬間移動しているように見えるだろう。つまり、時間とは、その空間の住人にとって、一つ上の次元を示していることになりそうだ。
スクエアさんは、同じアナロジー的考察から四次元の可能性も想像する。しかし、スフィアさんは、四次元なんて想像もつかないと、かたくなに言い張る。なんで?二次元世界の住人に柔軟な思考を押しつけるくせに、自分の住む世界より高次なものを想像するとなると、思考が硬直するのか?なるほど、高貴な人間ほど自らの次元に高慢となり、意地っ張りになるのかもしれない。
こうして見ていると、階級認識なんてものに意味があるのか?と疑問を持たざるを得ない。人間は、次元認識を進化させることで、階級認識を無にすることができるかもしれない。いや!階級認識を高度化させて、もっと巧妙な手口を考案するだろう。

6. 数学と次元
幾何学で、ピタゴラスの定理を四次元に拡張するという考えは自然であろう。ユークリッド空間から始まった幾何学は、今では平行線公理でも説明できない非ユークリッド幾何学へと進化した。この幾何学は、三角形の内角の和がニ直角であるという常識すら通用しない。人間の住む空間は、膨張宇宙説が有力で、曲率がわずかに正の非ユークリッド空間とされる。
しかし、空間概念を進化させたのは幾何学よりも代数学と言った方がいいだろう。中でも、オイラーやガウスらが持ち出した複素平面による解析学の貢献は大きい。また、ベクトルや行列の概念を使っても、なんの違和感もなくn次元を表記することができる。代数学の道具は、幾何学に持ち込まれ数学者の想像力を膨らませてきた。リーマンは曲がった空間を表記し、後のアインシュタインに影響を与えた。そして、相対性理論は第四の次元を時間で固定する。だが、数学者たちは、柔軟な発想から次元の性質を時間だけに固定するのを嫌うようだ。時代が進むと、超ひも理論を支持する素粒子物理学者たちは、Dブレーンという10次元宇宙論を持ち出した。ビッグバンという現象は、退屈で安定したブレインに、別次元から突然現れたブレインが衝突した結果なのかもしれない。
ところで、10次元という数字には、なんとなく崇高な香りがする。ちなみに、鏡の向こうには、「十の時が流れる」という名を持つ赤い顔をした住人がいるという。彼はテトラクテュスの申し子か?もしかしたら、崇めなければならない酔っ払いかもしれない。

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