2010-09-19

"雇用、利子および貨幣の一般理論(上/下)" John Maynard Keynes 著

ちまたでは、「無利子国債や非課税国債の発行」やら、「国有財産の証券化」やらといった発言で騒ぎよる。従来の国債と区別するようなものを創出すれば、国債そのものが暴落しそうなものだが。そもそも国債とは、国家の価値を証券化したものではないのか?国債の価値判断を複雑化することによって、国家の潜在的価値を誤魔化そうとしているのか?無い財源を捻出するには、無を有に装うしかないというわけか。まったく金融屋の発想である。...酔っぱらったド素人には、この程度にしか映らない。
まさしく、価値判断を複雑化する金融商品によって実体経済をあやふやにした結果、金融危機に陥れた。そもそも、市場経済の最大の問題は、価値判断がまともに機能していないことによる信頼失墜ではないのか?まさか、国家がそんな低次元の議論をしているとは思いたくない。しかし、どんな優秀な人間でもお金が絡むと、ころりと幻想に憑かれるから不思議である。
ついでに不思議と言えば、利子率が限りなくゼロに近づくことがあっても、マイナスになるというのは聞いたことがない。実質金利がマイナスになることはあるにしても。人間は希望の持てない未来ですら、なんらかの期待を持つものらしい。

本書は、あの有名なケインズの「一般理論」の翻訳である。まさか、この難解な書に手を出そうとは夢にも思わなかった。序文には、これを読むのは経済学の専門家であろうが、是非大衆にも読んでもらい議論に参加してもらいたい、といったことが記される。この一文がド素人を勇気づけてくれる。
政治や経済というものは、科学や数学よりも、はるかに一般社会に親密なはず。だが、経済学というと、専門家でしか議論できないことを大袈裟に強調し過ぎるのように映る。政治屋やエコノミストたちは、明らかに素人を蔑む傾向がある。だから肩書きを強調するのだろう。科学や数学では、専門知識が必要なのは明らかなので、理論提唱者が素人だろうが知ったこっちゃない。理論そのものにしか興味がないのだから。
本書の締めくくりは、なんとも印象的だ。
「経済学者や政治哲学者の思想は、それが正しい場合も誤っている場合も、通常考えられている以上に強力である。...誰の知的影響も受けていないと信じている実務家でさえ、誰かしら過去の経済学者の奴隷であるのが通例である。...実際には、直ちに人を虜にするのではない、ある期間を経てはじめて人に浸透していくものである。経済学と政治哲学の分野に限って言えば、25ないし30歳を超えた人で、新しい理論の影響を受ける人はそれほどいない。だから、役人や政治家、あるいは扇動家でさえも、彼らが眼前の出来事に適用する思想はおそらく最新のものではないだろう。だが、早晩、良くも悪しくも危険になるのは、既得権益ではなく、思想である。」
時代遅れのイデオロギーに憑かれた政治家が、庶民感覚と乖離するのは当然というわけか。尚、イデオロギーとは、理論が巧妙に宗教レベルにまで到達した状態を言う。

確かに、本書は「難解!」と言われるだけのことはある。ただ、おそらくエコノミストたちが「難解」と言っているのと少々ニュアンスが違うだろう。これは、利子率や貨幣量や為替レートなどの経済指数ばかりに目を奪われる一般的な経済理論とは違う。どんなに巧妙な経済政策を施しても、局面の微妙な変化によって、善にも悪にも作用するとさえ述べている。そして、経済循環の重要な要素として、消費者の心理的動機や慣習を加えながら貯蓄と投資を分析し、主に有効需要と雇用の関係を論じている。ここでは、市場体系を不完全な存在とし、ある種の複雑系として捉えている。中には、代数学的な考察もあるが、それほど難しい数学を用いているわけではない。ただ、現在の経済状況に照らし合わせれば、莫大な人口増加が労働人口を増加させ雇用変動をもたらすなど、不確定要素はますます増える傾向にあり、変数を少しばかり追加してやる必要がありそうだ。
当時は、投資家、労働者、金利生活者といった階級的にも住み分けがはっきりしていただろうが、現在では生活様式も多様化している。ちなみに、おいらは労働者で、経営者で、投資家で、金利にも生活を助けられている。要するに実体を複雑化して誤魔化す詐欺師なのさ...
経済現象に社会学的な心理学的な見解を少し取り入れれば、やたらと多くの条件や前提を仮定するのも仕方があるまい。本書を難解にしているのは、経済学的論理の範疇を超えて、経済人の価値観から不整合を感じるからであろう。したがって、おいらが言う「難解」とは、「一般理論」と宣言しているわりには曖昧な点が多く、おまけに哲学的な面も見せるので、様々な解釈を生むだろうという意味である。
「ケインズは死んだ!」と言われこともあるが、ケインズの悪評はケインジアンたちの歪んだ解釈によって広められたのだろう。ましてや、福祉国家原理主義者や社会主義者ではなかろう。そこそこ景気が回っている状況であっても、不況に陥る一部の産業分野が必ず存在する。新興産業の登場もあり、すべての産業の足並みが揃うほど経済体系は単純ではない。ケインジアンを自称する政治家たちは、好況局面ですら公共事業の必要性を訴えてきた。マクロ経済を運用する立場にありながら、ミクロ的な思惑で業界と結びつき既得権益を固守し、一般利益を犠牲にしてきた。そして、選挙に勝つことしか頭になく、政治に寄生する民間団体の都合で経済政策を実施してきた。この構図が、結果的にケインズ批判を助長しているのだろう。いざ大不況の局面になって、ケインズ理論を実施しようとしても、もはや処方箋が効くはずがない。好況も恐慌も区別なく資金を湯水のように垂れ流してきたのだから。まさに現在の財政赤字はそのツケがまわってきただけのこと。ケインジアン政治家たちは、平等という癒し系の言葉を巧みに操りながら国家財政を破綻させてきた。マルクスは「私はマルクス主義者ではない!」と言ったとか言わなかったとか、ケインズもあの世で「私はケインジアンではない!」と嘆いているに違いない。
あらゆる思想や理論は、歴史的背景から育まれてきた。ニュートン力学が通用しなくなったからといって、「ニュートンは死んだ!」などと叫ぶ量子論学者はいないだろう。ユークリッド幾何学が通用しなくなったからといって、「ユークリッドは死んだ!」などと叫ぶトポロジー学者もいないだろう。重商主義は、封建的束縛から農奴が解放されつつある時代に、慣習的な価値観に若干の客観的視点を与えた。自由放任主義は、市場において人間のできない価値判断を、自然法則に委ねる役割があった。ケインズ理論は、市場原理の不完全性を唱え、市場の暴走によって引き起こされる「恐慌」の処方箋として登場した。近年、市場原理主義に対抗して、またもやケインズの復活が囁かれるが、そもそも理論が生死を繰り返す学問自体がおかしい。経済学はもっと歴史を取り入れ、もっと過去の偉人に敬意を払ってもいいのではないだろうか。

本書は「ケインズ革命」と呼ばれ、新古典派理論の唱える自然法則的な楽観主義から、経済危機においては政府介入の必要性を説いた改革の書とされる。そこには、自由放任主義が暴走すると、失業状態から抜け出すどころか、むしろ負のスパイラルが加速するという人間社会の特性が分析される。そして、大方の結論として、雇用刺激策として思い切った公共投資の必要性を唱える。つまり、ケインズ理論は、市場経済が優勢な時代に、経済における政治の存在感を復活させたことになる。これには、政治家たちも勢いづいたであろう。公共事業を狂気的に崇めるケインジアン政治家たちの思惑と合致するのだから。しかし、本書は自由放任主義を完全否定しているわけではない。アダム・スミスや重商主義を擁護する記述や、「セイの法則」ですら機能する経済局面があると述べている。これは、新古典派理論はあまりにも理想主義に偏り過ぎているという批判書でもあるのだ。
ところで、ケインズ理論を最初に実践したのは誰か?アウトバーン建設や軍備拡張で大失業問題を解決したヒトラーという意見も耳にする。いや、エジプトのファラオか?確かに、権威的な国家計画を論じたり、ピラミッド造りを擁護するという弱点を露呈する。だが、それは本質ではないだろう。本書は、権威的な国家体制のもとで展開される経済体系ではなく、あくまでも自由主義的な資本主義的な経済体系を相手にしている。となると、最初の実践はニューディール政策ということになろうか。ただ、この政策がどの程度機能したかは意見の分かれるところだろう。結局、第二次大戦がアメリカ経済を立て直したという意見をよく耳にする。おいらは、大戦への参戦も、ニューディール政策の一環と見ているが...

経済学は「おニュー」がお好き!
近年、「ニューケインジアン」という言葉も登場したが、抽象度がほんの少し上がったぐらいにしか映らない。それを言い出したら、「ニュープラトン」、「ニューデカルト」といった具合に、あらゆる言葉に「ニュー」が乱れ飛び、世間は騒がしくしょうがない。「ニューニュートン」なんて言い出したら、酔っ払いはろれつが回らない。「新古典派」って新しいんだか?古いんだか?「新自由主義」ってどんな自由なんだか?大して新しくもないから、わざわざ強調するのか?...経済学者は寂しがり屋なのだろう。そう言えば、80年代頃に流行した「ニューハーフ」という言葉は、今も使われるのだろうか?

1. ジョン・メイナード・ケインズ
ケインズは、イギリスの超エリート階級出身で、大蔵省の主席代表としてヴェルサイユ講和会議にも出席したという。彼は、経済学者でありながら政治家でもあった。更に、数学的な考察が絡む。数学者G.H.ハーディは、著書「ある数学者の生涯と弁明」で、友人ケインズは数学者から出発していると語っている。なるほど、これほどの大作は、広い視野がなければ書き下ろすことはできないだろう。
ケインズは、ドイツの経済力からして、莫大な損害賠償金を課したことに危機感を募らせていたという。経済的に無理難題を押し付けた結果が、ヒトラーの台頭を呼び込むことになるのだから、歴史とは皮肉である。となれば、第二次大戦は、既にヴェルサイユ条約から始まっていたと解することもできよう。
本書が1936年に刊行されると、60年代には古典派から宗旨替えする経済学者が続出した。とりわけ、世界恐慌から第一次石油危機に至るまでの間はケインズ時代と呼ばれた。ニクソン大統領は「われわれはいまやすべてケインジアンである」と言い放ったという。だが、70年代になると状況は一変する。「小さな政府」への回帰を表明する新自由主義があらゆる政治政策の指針となり、グローバル化も手伝って世界中に蔓延する。そして、「ケインズは死んだ!」と言われるわけだが、現在においても、雇用と有効需要や利子率と流動性を組み合わせた経済理論で影響力を持ち続ける。ケインズ理論が、「大きな政府」を前提とした経済管理の理論であることは確かである。そして、マクロ経済学を確立したと言われる。だが、崇めすぎれば、個人の自立をないがしろにして巨大福祉国家を助長する危険性がある。資本主義は完璧なシステムではないが、これを修正しながら実態経済に近づけるのが現実的であろう。そこで、ケインズ理論が、どんな条件の元で機能するかは、近代経済を研究する上でも避けられないだろう。新古典派理論では、資源分配の効率性、パレート最適化の分析に焦点を当て、市場経済が自然法則的に収束してすべての問題を解決すると考えた。失業問題ですら、自由放任のもとで自然に解決されると信じてきた。しかし、市場経済の流動性を煽った結果、資金移動による利ザヤへの執念は狂気の沙汰となる。その狂気が、本来あるべき経済活動への意欲を弱め、資源分配に大きな歪みを生じさせた。「金持ちはますます金持ちに、貧乏人はますます貧乏に」という構図から抜け出せないのは、それが人間社会の特性なのか?

2. 消費と貯蓄
消費や貯蓄の動機は、心理的慣習や所得に対する個人的価値観といった主観的要因に大きく左右される。民族性や文化慣習でも違いが見られ、やたらと貯蓄する国民性もあれば、やたらとカードローンに頼る国民性もある。ちなみに、クレジット履歴がないと人並みに扱われない国もあるらしい。おまけに、クレジットスコアってものがあって、借金もないのにカードを使わないとスコアが悪くなり、それをカード会社が金融機関や自治体などに報告するもんだから、融資や賃貸に影響を与えるという愚痴も聞こえてくる。これは、利用者の信用をスコア化するという一種の合理性の例であるが、何か間違っているような...カード業界の陰謀か?そりゃ、クレジット詐欺も横行するだろう。
社会が安定すれば計画的な消費が生じるだろうが、不安定ともなれば計画性のない無意味な貯蓄も増えよう。消費は、社会状況に対する心理的要因に影響されやすい。となれば、安定した消費を呼び込むためには、将来不安を緩和した社会の構築を目指すことになろう。景気刺激策によって一時的な消費を煽ったところで、短期的にしか効果がない。それどころか、問題の先送りとなり、むしろ長期的には経済不安を煽ることになろう。更に、自然環境の変化や気候変動など、社会の不安要素は過去にも増して複雑化した。もはや、経済学しか学んでいない専門家が、的確な経済政策を打ち出すことはできないだろう。
貯蓄は、預金者に関係なく金融機関によって間接的に投資に使われるのだから、貯蓄の増加が悪いことではない。だが、将来に備えて貯蓄を増やしたところで、効率よく投資へ向かわなければ、ますます経済循環を悪化させるだろう。利子率が上昇すると、銀行から借り入れてまで設備投資をしようとは思わない。では、現在のような超低金利時代が続いていても、投資が一向に活性化されないのはなぜか?投資が利潤になる見込みが立たなければ、投資行動が鈍るのも当然であろう。貯蓄も無駄、投資も無駄、となれば、投機へ向かうのか?そして、あっさりとバブルが弾けるとなれば、ますます閉塞感に囚われる。利子率がどうのこうのという前に、革新的な社会がイメージできないところに根本的な問題がありそうだ。経済は、利子率だけで動くほど単純な構造をしていない。
本書は、消費が不変であれば、雇用の増加はただ投資の増加に比例するという。そうかもしれないが、消費が不変であるはずがない。更に、消費は比較的安定した関数になるとし、それを前提で理論を組み立てているが、はたしてそうなのか?このあたりにケインズ理論の弱点があるような気がする。豊かな社会になるほど、投資が浪費になる可能性が高くなるだろう。そして、豊かな社会ほど収入の右肩上がりは幻想となり、富の奪い合いへと移行するのかもしれない。だとすれば、草食系モデルは一つの地球人の未来像を提示しているのかもしれない。

3. 労働資本
伝統的に、労働者は賃金引下げに激しく抵抗する傾向がある。物価が下落しても、実質賃金が変化しないのであれば、経済的には問題はないはず。だが、抵抗する労働者の気持ちも分かる。名目収入が減るというのは、心理的圧迫も大きいのだから。ただ、おもしろいことに名目賃金ばかりに目くじらを立てるわりには、実質賃金には寛容である。
本書は、労働者が貨幣賃金の引下げに抵抗して、実質賃金の引下げに抵抗しないのは、それほど非論理的ではないという。つまり、賃金の引下げが段階的に行われるのではないかという将来的不安が生じるというわけだ。賃金の引下げが、社会不安を募らせながら消費にも影響を与え、結果的に資本の限界効率や利潤率も引下げるとなれば、不況作用がますます加速するだろう。だから、仮に賃金の引下げを実施するならば、これ以上下がらないという心理的水準を与えるべきだと主張している。確かに、理屈ではあるが暴力的な解釈がなされそうだ。
どんなに経済的に苦境に追い込まれても、年々右肩上がりの生活が保障されるとなれば、経済は活性化する方向であろう。しかし、将来が現在よりも酷くなりそうな予感がするところに、現代社会の抱える問題がある。
こうしてみると、労働資本は、他の経済要素に比べて硬直性が思いっきり高いことになる。為替レートや株価は日々変化するが、労働賃金の変化が単純に追従したら、それだけで社会不安を煽ることになろう。いくら市場に柔軟性があろうとも、その動きが速すぎて追従できない経済要素との間に常にねじれを抱えることになる。したがって、労働資本を柔軟に調整するためには、必然的に失業が生じることになろう。自発的失業や臨時労働者の存在は、硬直性の高い労働資本にわずかながら寄与していることになろうか。

4. 投資の限界効率とピラミッド造り
本書は、投資を最も重要な経済要素として位置付けている。投資をするからには貯蓄がなければならないが、資産のうちの投資と貯蓄の割合が論じられる。ここには、投資水準は、投資の限界効率の原理に従うという考え方がある。つまり、投資によって、利潤が現在から将来に渡ってどのように変化するか、その期待尺度にかかるという。投資の限界効率は、企業家の市場予測や長期的戦略にも影響されるだろう。投資関数は、主に長期利子率と利潤にかかわることになりそうだが、それだけではない。そこに、物価の上昇率や貨幣価値の変化などを加味しながら、他の要因にどれだけ依存するかと考えだすと複雑極まりない。また、投資水準が高くなると、貨幣流量の増加に及ぼす効果は減少し、投資の限界効率も低くなるだろう。過剰投資は単なる浪費になるつながる恐れがある。
しかし、本書は、恐慌時には、資本の限界効率を大幅に上回るような思い切った投資が必要だと主張する。その中で、ピラミッド造りでさえ容認しているような記述がある。
「古典派経済学の原理に立脚するわが政治家諸氏の教養が事態改善への障害になっている場合には、ピラミッドの建設、地震、そして戦争でさえもが、富の増進に一役買うかもしれないのである。」
更に、将来に備える貯蓄の拡大や、金融的準備金の拡大は、現存消費を圧迫させ、将来のための準備金も確保することが難しくなり、結果的に失業を助長すると指摘している。平たく言えば、将来に備えるために大きく投資しろ!というわけだ。ここには、公共投資による雇用拡大政策への正論がある。しかし、あくまでも所得と貯蓄のバランスの問題であって、借金を拡大してまで投資しろ!というのも受け入れ難い。豊かな社会では、これ以上何を建設するというのか?という批判的意見も多い。だが、本書は、それは民間投資や産業拡大と同じ理屈だという。これ以上産業を拡大してどうするのか?これ以上科学を進化させてどうするのか?と問うのと同じというわけか。
本書は、公共事業の効果は、深刻な不況下で発揮されることを論証している。資本主義は、増殖が止まった時点で終焉を迎えるのだろう。となると、人間社会は、革新の歩むを止めた時点で終焉を迎えるのか?破壊と創造が宇宙の原理だとすれば、人間社会自体をデフォルトするしかないのか?

5. 有効需要の理論
「消費性向と新規投資率が十分な有効需要を与えない場合には、現実の雇用水準は実質賃金における潜在的な労働供給量に満たない。そして、均衡実質賃金は均衡雇用水準の労働の限界不効用より大きくなる。」
有効需要は、総供給曲線と総需要曲線の交点によって決定するというお馴染みの理論がある。ただ、総供給曲線と総需要曲線は異なる。供給関数や需要関数も、国家や産業の事情によって、はたまた企業の事情によっても異なるし、各商品によっても異なる。おまけに、主役となる産業も時代によって異なり、新産業が創出される一方で旧産業が衰退するといった現象を繰り返す。本書は、こうした関係から全雇用量がどのように決定されるかを議論するが、明確な答えが見つかるはずもない。複雑さは人口推移にも影響され、どんな天才的な数学者をもってしても、これらの関数を導くことは不可能であろう。したがって、、一度目に成功した経済政策だからといって、二度目に成功するかは分からないということである。なるほど、経済政策のほとんどが、あまり効果を上げられないのも道理というものか。となれば、セイの法則が成り立つのは、まさしく二つの曲線の交点であり、古典派理論がいかにごく稀なケースで議論していたかがうかがえる。古典派理論にとって、失業とは均衡に至るまでの過渡的現象という意味合いが強い。現実には不均衡状態の方が普通であるが...

6. 流動性選好の理論
労働の全雇用量は有効需要の理論によって決定されるわけだが、総需要量は市場の利子率との関係も絡む。投資需要は利子率の変化で大きく変動するだろう。消費需要も、どの程度かは分からないが利子率とのかかわりがある。
本書は、流動性選好の理論で、雇用量と利子率との関係を考察する。
「利子率は貯蓄に対する報酬ではない。そうではなく利子率は流動性をある一定期間手放すことに対する報酬である。」
資産移動の手段は、債券、株式、手形、国債などまちまちであるが、特に金融資産の中でも重要な役割を果たすのが貨幣であろうか。ただ、本書の言う貨幣とは、中央銀行が発行する一般的な紙幣だけではなく、市場性の高い短期の金融資産も含むようだ。かつて、貨幣量を調整する経済政策はそれなりに機能していた。現在、そうした経済政策があまり機能しなくなっているのは、複雑な金融手段が乱立するからであろうか。資本主義は、資本の流動性の円滑によって発達してきた。そして、経済循環を良くしようとすれば、流動性を煽ることになる。だが、過度の流動性は、生産収益よりも投機的収益を優勢にし、市場の価値評価は実態経済からますます乖離させてきた。資本主義は、経済循環の活性化や資産の流動性を煽った結果、その本質によって自滅するのだろうか?
貨幣保有に対する需要は利子率と所得水準にもかかわるだろうが、慣習的に保有するところもあり、必ずしも貨幣価値に対して合理的な行動が生じるわけではない。政治情勢や経済情勢が不安定ともなれば、元本を割らなければいいという安全志向も働くだろう。
ケインズは、理性的な財政政策と合理的な金融制度が雇用を安定させ、所得分配を平等化させると考えていたようだ。このあたりはケインズも理想主義的ではある。市場利子率は、貨幣需要が貨幣供給に一致するような水準に定まる方向にあるのかもしれないが、それだけでは説明できないだろうけど...

7. インドの根深い怨念
後書きには、訳者間宮陽介氏が興味深いことを記している。ケインズがケンブリッジ卒業後にインド省に勤務した頃、イギリスとインドの間に通貨を巡る摩擦が社会問題になったという。イギリスが金本位制だったのに対してインドは銀本位制で、ポンドとルピーの為替レートは金と銀の相対価格で決まる。イギリスの軍事費や国家公務員年金は、主にインドが負担していてルピーで支払われていたそうな。イギリス軍がインド国防のために存在するという名目で、軍事費の大半をインドに負担させていたわけだ。また、イギリスの国家公務員は、任期中に一度はインドに赴任する慣わしがあったという。インドのために働くという名目が公然となされ、退職後の年金はインドが負担するのは当然という感覚がイギリスに蔓延していたという。インド植民地支配は、歴史的に冷酷で残忍さで悪名高い。現在でも、300年に渡る植民地支配の怨恨は深く残っているらしい。間宮氏は、ケインズはこのことを不問にして、ただ為替レートの研究に没頭したあたりは、いかにもエリート感覚であると指摘している。そのエリート感覚に対する批判が、新興国アメリカで多くの経済学者の反発をかっているのかもしれないと...

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