2010-09-26

"経済発展の理論(上/下)" Joseph A. Schumpeter 著

ユーロ圏のように、流通の利便性を促進するために通貨を統一するという考えもあろう。しかし、ギリシャ危機はその考えに疑問を呈する。ギリシャ国家の財政破綻は、世界的に規模が小さいにもかかわらず、ヨーロッパを震撼させた。ユーロを導入していないアイスランドやイギリスも財政赤字で喘ぐのは同じである。ギリシャが独自の貨幣を持っていたら、流通レートを変えることで経済危機をヨーロッパに波及させることはなかったという意見も聞く。そもそも、ユーロ創設の過程で、貨幣の受け入れ準備ができていない国々にまで単一通貨を押しつけた経緯がある。欧州のリーダたちは、共通価値の幻想のようなユートピアにでも憑かれていたのだろうか?国々で貨幣が統一されていないのは、ある意味リスク回避になっているのかもしれない。それにしても、財政再建のために、神話に登場するイオニア海やエーゲ海の島々が売却されるという噂を聞くと心苦しい。世界的遺産は、国家の思惑の及ばないようところに置きたいものである。
もう一つ、国家危機と言えば、先日の中国との外交問題における日本政府の態度には呆れた。伝統的に危機管理に疎い体質を見れば、予測できる展開ではあったのだが...しかも、高度な外交問題の責任を他部門に押し付けるという前代未聞まで演じるオマケ付きだ!本当に地検が勝手に判断したとしても、そんな言い訳をする政府の態度は国家戦略が存在しないことを宣言しているようなもので、むしろ最悪だ。なるほど、この分野の地方分権化は進んでいるというわけか。
更に、大きな問題を露呈したのは、政府ばかりでなく一国に依存し過ぎる産業界の体質である。しかも、その相手国というのが、いまだ共産主義の旧体質に憑かれたままという恐ろしい現実がある。冷戦構造が終結したとはいえ、もはや平和ボケでは済ませられまい。おそらくリスク管理を怠ってきたのは、政府や産業界ばかりではないだろうから。さて、愚痴はこのぐらいにして...

本書は、経済学の古典としてケインズの「一般理論」と並び評されるらしい。近代経済学の巨人とも言われるヨーゼフ・シュンペーターは、20歳代にしてこの大作を書き上げたという。彼は「エレガンス」という言葉を好んだというが、これが優美な体系を具えた書かどうかは意見の分かれるところだろう。
シュンペーターは、社会現象や歴史現象などから分離した純粋な経済学の領域だけで理論立てようと試みる。その結論が彼の意図したものかどうかは別にして...種別すると、純理経済学という分野があるらしい。終始、批判に対する防衛的な態度で語られるあたりは、思いっきり批判に曝されたことがうかがえる。ちなみに、アル中ハイマーは、社会現象や歴史現象、あるいは、慣習性や心理学的要因などの多角的な観点を取り入れない経済理論に対して、批判的な態度をとる天の邪鬼である。本書に触れたからといって、その根本の考えが揺らぐわけではない。
しかし、だ!方法論として、どのようにアプローチするかは別である。経済現象の分析の第一歩として、社会学や歴史学との境界を明確にしようと試みることは悪いことではなかろう。何もかも複雑に入り乱れた状態のままでは客観的に考察するにも無理がある。社会学などのカテゴリー分析論がいったい何を解決してくれるのか?と疑問を持ちつつも、現実に分析しようとすれば、まず対象の定義や境界を明確にするところから始めるしかない。
古来、人類の歴史には、哲学的な難題を解明するために、数学的な公理から始め、徐々に抽象度を上げるという伝統的思考方法がある。すなわち、客観的考察の限界に対して、精神にかかわる主観的思考を組み合わせることによって、より実態に近づこうとする試みである。本書も、その流れを汲む分析の第一歩と捉えれば、経済学において貴重な存在と言えよう。その筋道が納得いかないにせよ、ここまで論理的に順序立てて考察を進める経済学書は珍しいかもしれない。
したがって、これを経済学書としてではなく、分析論における思考方法の参考例として読んでいる。

本書は、まず経済現象から、社会的現象、歴史的現象、政治的現象、自然現象などの外的要因を切り離すと宣言する。社会的現象とは人口増加や技術革新など、歴史的現象とは慣習的な民衆心理によって生じる行動など、政治的現象とは戦争や政治情勢など、自然現象とは気候変動などで、こうした影響をまったく無視するというのである。その前提を語る丁寧振りには、いくら前戯の大好きなアル中ハイマーでも「なに無味乾燥的なことを言ってんだ!」と愚痴をこぼし、一旦は「この本を買ったのは失敗だったか!」と思わせた。だが、そこは貧乏性の悲しい性、買った以上は元を取らないと気が済まない。そして、読み進むうちに、その感情は沈静化していく。
その主旨は、経済の内的要因だけで経済理論が構築できるならば、それに越したことはないが、その理論構築に限界があるとすれば、そこではじめて他の学問と連携すればいいということであろう。この分析論が実態経済から乖離する可能性を承知した上で考察され、経済学的思考の意義というものを認識させてくれる。ただし、解釈が偏れば、市場原理主義的な思想も見えてくるわけだが...したがって、社会現象や歴史現象などを無視しているという批判は適当ではないだろう。それらを無視した上で、純粋な経済理論がどこまで構築できるか?という問題と対峙しているのだから。
そして、本書の経済理論は未完成に終わる。当然と言えば当然であるが...著者も、理論としての本質が十分でないことを認めており、その結果、最初から意図したものではなかったと回想している。
また、「経済発展の理論」が第一次大戦前に発表されたことは注目すべきであろう。当時、アメリカは資本主義の新興国として、市場経済を武器に経済力で台頭してきた。その過程で莫大な富が集中したりと、市場原理的志向が強まりつつある時代である。経済発展の過程で、好況と不況の波が生じるは必然であって、その過程で恐慌現象の可能性を指摘している。つまり、世界恐慌を経験する前に、経済理論の観点から市場の暴走を説明しているわけだ。そこには、経済人の心理的傾向も考察されるので、社会学的分析とも言えるわけだが...
ところで、企業体や個人といったミクロ経済の観点で眺めると、それが常識的な行動であっても、マクロ経済で眺めると、たちまち矛盾が生じてしまうのはなぜか?群をなすと、まるで別の生命体に生まれ変わるかのように。そして、良くなるように考案された経済政策は、しばしば悪しき作用をする。科学現象では、単独の光子が粒子性を示すのに対して、光という群をなすと波動性を示す。個と群の二重性とは...それが自然法則なのだろうか?

1. 経済循環と経済発展
本書は、「循環」と「発展」という二つの経済過程を切り離して考察し、「発展なき経済」から循環要因を語り、続いて「発展する経済」のための必要な要因を語る。
まず、単純な循環経済では、自由競争や帰属作用によって価値の増殖があったとしても、それは根源的な生産要素である土地用役や労働用役などの価値変化に吸収されて余剰価値の存続する余地はなく、利潤も利子も発生しないとしている。そして、永続的な循環においては、失業という概念も登場しないという。
その一方で、発展経済では、連続的な成長というよりは断続的な飛躍であり、循環とは異質である。その要因は、企業者の「新結合の遂行」という言葉で説明される。ひとことで言えばイノベーションであろう。例えば、新しい財貨の生産、生産の新方式、販路の開拓、原料の新たな供給源の獲得、新組織の構築や体制の見直しなど、経済活動における効率性を求める行動である。つまり、企業者の革新的精神こそ、経済発展の根幹ということである。ここでは、滑稽な消費者の欲望という動機を度外視すると言っているが、企業者側の儲けを拡大する欲望と言ってしまえば、純粋な経済行為だけでは説明できないような気もする。だが、その欲望が生産の効率性と捉えるならば、純粋な経済行為なのかもしれない。つまり、自由競争に参加すれば、生き残りの原理が働き、自然に革新的な態度が現れ、経済人の合理的活動が生じるというわけだ。ただ、現実に、企業者は生産量の最適値を知っているわけではなく、試行錯誤で経験的に雇用量や生産財を調整しているに過ぎないのだが。
企業者は自社の効率性を求める行為を連続的に行っているわけだが、同時に新体制への移行や新興勢力の出現には反抗的に振る舞う。新しい風潮は最初から馴染むわけではなく、徐々に社会に浸透する。先駆者はいつの時代でも苦労するもので、追従者たちが新たな風潮を加速させることになる。したがって、新結合の遂行の効果は、連続的な成長として現れるのではなく、群生的なエネルギーの塊として現れることになる。
また、共産主義のような権威的な経済では、新結合の遂行が命令的で支配的に行われるが、資本主義経済では、企業者の購買力が重要だという。生産財を購入するには資本が必要であり、それを利益だけから捻出するのは難しい。そして、企業成長には投資が欠かせない。銀行から投資を得るにしても、信用が重要な役割を果たすことになる。したがって、資本主義社会では、信用を通じて購買力が創造されることになる。しかし、信用もまた社会的な慣習という性格が強く、純粋な経済活動だけで説明することはできないだろう。結論として、経済発展の根幹は、企業者の革新的精神から余剰価値が生まれ、その要素として利潤や利子概念が生じるとしている。投資循環の原理からすると、企業者利潤と生産的利子の存在は必要不可欠であろう。尚、利子にもいろいろな種類があるが、ここでは生産的利子だけを対象にしている。

2. 信用と投資
経済発展の源泉である投資循環では、貨幣の影響や銀行の信用問題を議論する必要がある。信用の根底にはすべての価値評価があり、どんな経済的評価においても、共通の指標とされるのが貨幣である。現実に、貨幣があらゆる物の価値の代価として使われ、バランスシートが示す評価もすべて貨幣換算される。したがって、貨幣価値の信用が、市場を支配しているといってもいいかもしれない。
銀行の信用問題では、慣習的な動機や財務実績などの評価が経済活動の指針となろう。銀行は、主に支払いの約束を貸し付けることによって所得を得るという業務を遂行する。つまり、銀行の本業は決済業務であり、銀行の信用が支払い手段を増加させる役割がある。企業者が財産を担保にできるならば、銀行からの信用を容易に獲得できるだろう。だが、こうした活動は本質的な動機ではないという。経済発展における企業者の意義は、現存の財産にあるのではなく、将来における生産価値にあるからである。将来評価を過去の実績に頼るならば、新興企業は成り立たない。だが、購買力によって得られる財貨を担保にするならば、まさしく信用を担保にすることになる。そして、銀行業務で最も困難なのは、企業の将来価値を評価する目利きということになろうか。借り入れができなければ、企業は設備投資や業務維持も難しいので、信用が産業発展に貢献することは明らかであろう。だが、将来の企業評価の重要な要素に経営陣の能力があり、その評価も主観的にならざるをえない。そこで、企業の将来評価を示す役割を果たすものに金融市場がある。本書は、「発展なき経済」では金融市場は存在しないだろうという。金融市場が正常に機能すれば、経済情勢の天気予報ともなろうが、実際には複雑なデリバティブ商品などによって、貨幣の移動量が実態経済を上回る勢いで煽られる。金融市場が金融関係者によって信用を失墜させるとは、なんとも皮肉である。経済循環の域を脱する経済発展とは、信用に基づくものであり、これが資本主義の基本原理ということであろうか。
投資循環においては、まず、企業者は債務者になるのが原理的にある。そして、銀行の貸し付けに対して、企業者は利子を付加することによって信用金額を返済することになる。銀行も企業者も安定した信用を得ようとすれば、銀行はお得意様に利子率を低くし、企業者は購買力における利子を長期的に流通過程にとどめるだろう。信用が低ければ、担保評価も厳しく利子率も上昇する。経済発展が新興企業によってもたらされるならば、過渡的な時期では産業界の構図は信用のインフレ状態となろう。だが、取引を重ねるうちに信用を獲得する企業だけが生き残り、いずれは信用のデフレ状態となろう。不良債権が生じるのは、産業発展の過程においては、ある程度覚悟しなければならない。だが、現実には、信用評価は貸付け側の権利である。銀行は信用確率によって絶対に損をしないように調整することができる。万が一失敗しても、大銀行が潰れたら社会への影響が大きいという理由で、真っ先に公的資金が注入される。そうなると、銀行の信用評価がずさんになり、ことごとく周辺企業を倒産に追い込みながら、自分自身の保全だけが確保されることになり、信用バランスは崩壊するだろう。信用の均衡という観点からすると、銀行も平等に倒産させる方がいいのかもしれない。

3. 資本と資本主義
「資本とは、企業者の必要とする具体的な財貨を自分の支配下におくことができるようにする挺子(テコ)にほかならず、また新しい目的のために財貨を処分する手段、あるいは生産に新しい方向を指令する手段にほかならない。」
ちなみに、レバレッジとは、挺子(テコ)の働きという意味があるようだ。
資本の機能では、借入資本によって投資を行い、利子率よりも高い利潤率を見込むことになる。借入れ資本は、間接的に生産財の役割を果たす。だが、資本は生産過程では必ず生じるので、なにも資本主義経済を特徴づけるものではないという。
では、資本主義経済を特徴づける資本とは何か?本書は、資本を単なる資金や資材と捉えずに、購買力の基金や生産に向う財産と捉えている。生産財では、労働資本の重要性を認めることになろう。労働資本の評価では、賃金という貨幣手段を用いる。信用も流通量を示す貨幣量で評価せざるをえない。だが、資本は単なる交換手段ではなく、生産手段を調達するための目的として働かなければ、それは資本ではないという。つまり、「発展なき経済」では資本は存在せず、資本が生産過程に組み込まれて、はじめて資本主義が機能することになる。ここで言う資本とは、あくまでも私的資本であって、社会的資本は対象外としている。となると、資本主義とは、経済発展を目的として機能する私的活動ということになろうか。資本家も資本を持つ人であるのは間違いないだろうが、本書風に言えば、購買力や生産手段を目的とした資本を供与する人ということになろうか。
本書は、本質的な資本は永続的な生産手段となりうるので、それは購買力や創造力であるという。原料や消費財は生産過程で消滅し、道具や機械はいずれは廃れ破棄される。いずれも生産手段として転用されるが、これらは本質的な資本とは扱っていない。貨幣は、消耗することもなく、廃れることもないという意味では、連続的に人手を渡り歩く。貨幣そのものが生産手段になるわけではないが、生産手段として転用される部分は資本ということになる。ここに、貨幣と財貨が区別されるようだ。
「資本は特殊な動因であるが、それは言葉の通常の意味における財貨ではない。それは新結合を遂行する過程、方法を特徴づけるものである。」
こうして見ると、同じ資本主義でも、専門家によって資本の定義が微妙に違うことに気づかされる。

4. 資本と負債の区別
企業価値を評価する時、その資本額の尺度はバランスシートの借方に記載される総額で明示される。これは一般的な表記に過ぎないが、すべての資産は生産財になる可能性があるので、まったく無意味とも言えないだろう。企業の将来性の指標としては、生産性の創造力や流通手段における信用能力を見込む方が重要であり、これらを貨幣量として資産総額に加えることは難しい。ちなみに、ドイツ民法典では、資本を「営利のための貨幣量」の総額と定義しているという。ここで語られる資本は、バランスシートに現れる資本金と一致しない点も多い。こんなことは本質的なことではないのだが、借方と貸方の区別でずっと疑問に思っていたことが、この書で見かけられるのはうれしい。
本書は、資本は借方で負債は貸方に分類すべきだという。確かに、バランスシートでは資本は貸方に現れる。企業者からすると、資本を注入する立場なので、借方という解釈の方が良さそうに思える。株式が、返済義務が生じないという意味では、負債と同列というのも奇妙かもしれない。その分、資本家の監視の目がきつくなるという負担の意味での負債という解釈もできるわけだが。帳簿上の借方と貸方の区別は、本来的な意味があるのだろうが、現在ではあまり意識されないようだ。税務指導では左側と右側という捉え方で機械的に考えた方がいいと助言され、それに従っている。こうしたものは、論理的な解釈よりも、慣習的に是認されているとでも考えないと眠れなくなる。資本は、企業活動のために経費や資材などに交換されることになるので、帳簿上の右にあろうが左にあろうが、結局は相殺される。その区別が企業者の主観で区別されると、会計基準は成り立たなくなる。そもそも簿記の目的は、会計の明確化であり、むしろ税務的な役割が大きいと解釈している。企業成長を示すためのものであれば、PERやPBRなどの指標の方が有意義であろう。

5. 企業者利潤と労働賃金
本書は、労働賃金は労働の限界生産力によって決まるが、企業者利潤はこの法則の著しい例外であるという。労働力の確保にも競争の原理が働くならば、労働賃金もまた自然に決まるだろう。だが、現実には個人の価値観に委ねられるところが大きい。そうなると、利潤の定義は微妙となる。賃金を低くすれば搾取利潤が生じるが、これは本質的な利潤とは言えない。労働賃金に対する解釈も微妙で、企業者からの搾取と見るか、労働に対する報酬と見るかで世界観は変わってくる。
それはさておき、生産物価格が自由競争によって決定されるならば、利潤はひとえに生産効率によってもたらされるだろう。そして、企業者は利潤を最大限にするために、生産効率を上げようとする。
「発展なしには企業者利潤はなく、企業者利潤なしには発展はない。」
経営陣の報酬を規定できるものはないが、少なくとも労働者が社会保障に頼らなければ生活ができないほどの低賃金を強要して、経営陣が莫大な収入を得るような企業体は経済発展の弊害ということは言えそうだ。安定的で永続的な経済発展をもたらすには、経営者のよほどの倫理的資質によるところが大きいのだろう。

6. 利子の原理
利子は、現在の購買力に対する将来の打歩であるという。消費的利子や国家の信用需要も将来に渡って生じる。消費的利子とは、災害などの経済破壊によって生じる利子、あるいは、巨額な相続によって生じる利子などで、こうした利子は単純な循環経済においても存在するという。
本書が対象とするのは生産的利子で、それは新結合の遂行から生じるという。企業者利潤こそ利子の源泉であり、購買力需要の増減を媒介として利子の変動を引き起こすというわけか。もちろん信用需要にも影響を与える。
利子と物価の関係を眺めると、経済活動が活発になれば利子率が上昇し、そのために物価も上昇する。逆に、物価が上昇すれば利子に影響を与える。物価の上昇は、企業にとってはいっそう大きな資本を必要とするため、むしろ企業活動を鈍らせる。この場合、物価上昇が利子を引き下げることになる。したがって、利子の高い状態は、国民経済の繁栄の一つの指標となる。しかし、購買力の供給が大きくても、やがて需要によって吸収される。高度に発展した経済大国においては、利子が低いといった現象を見る。利子が高いということは、リスクも高いことを意味し、利子が低いということは技術が進んでいるとも言える。発展途上国の方が成長率も高く、利子も高くなる。となれば、利子の適正値は、国の経済力や技術力に依存することになろう。利子の基準だけでも、様々な見方ができ、それだけで利子理論の難しさがうかがえる。
本書は、利子は発展の成果に対するプレミアムではなく、むしろ発展に対する抑制要因であるという。同じことが株価にも言えそうだ。先進国の株価が発展途上国並に上昇すれば、それだけで異常を警告していることになろう。成熟した経済では、資金需要が枯渇していき投資効率も下がり利潤率も下がり、やがて、利潤はゼロに近づき利子率もゼロに近づくことになろう。となれば、資金需要の増加を継続しない限り、恒常的な価値増殖を形成することはできないのか?人口増加が続けば、必然的に世帯数が増え、需要はいつも創出される。生活レベルを維持するだけならば、生活用品はいずれ古びて買い替え需要が循環するだろうが、技術革新が続けば生産物の性能な品質も上がる。更に、競争の原理が続けば、いくら生産効率を高めても、やがて生産物価格は消費者の収入の範疇で買える価格まで下落し、利潤率は限りなくゼロへ近づくことになろう。

7. 景気循環の原理と恐慌
経済発展において景気の波が生じるのは必然的現象で、好況の原因は不況であり不況の収束のうちに好況の基盤が築かれるという。そして、不況を打開するには、新事業の出現が不可欠としている。新事業の生産物が市場に現れるまでに要する時間が、景気回復の鍵ということになる。
ただ、新たな企業者は慣習的制約を受け、新たな風潮を社会が受け入れるのに時間がかかる。新たな風潮が徐々に浸透すれば、追従者の参入を容易にし、群生的なエネルギーの塊として現れることになる。好況に向う本質的な要因は、資本投下と新企業の大量出現ということであろうか。逆に、好況を終わらせる要因は、過剰投資や過剰生産となろうか。
一般的にどんな不況も悪としたものだが、経済学的には、正常な不況と異常な不況があるということである。異常な不況の典型として恐慌がある。恐慌は、発展そのものを終結させ、多くの価値を崩壊させる。恐慌になる兆候が、すべての産業に一様に現れるわけではないが、パニックが加速すると正常な信用価値まで巻き添えを食う。恐慌の引き金になるのは、戦争や突然の保護関税の撤廃などの政治的問題もあれば、投機熱や過剰生産を煽るといった社会的問題もある。
では、純粋に経済学の領域で議論できる恐慌とは何か?本書は、投資が期待通りに利潤に結びつかない場合を考察している。つまり、あらゆる新結合の遂行は、難破する可能性があるというわけだ。しかし、企業者は、投資に対して成果が認められなければ、すぐにでも撤退するだろう。生産は出鱈目に行われるのではなく、あらゆる事態を想定しながら慎重に行われるはず。企業者たちはそれほど無能ではないだろう。こうした議論は、一部の会社の倒産で済みそうなもので、それが恐慌までに発展するのかは疑問である。とはいっても、現実に銀行家の過剰投資が金融危機を招いた例は少なくない。経営者たちは、なぜ暴走を黙認するのか?単に気づかないだけなのか?欲望に目がくらむのか?単なる楽観主義か?現実に人間社会には、それが問題の源泉と知りながら、都合の悪いことをタブー化する傾向がある。人間には、目先の不快なものが直接害とならない限り、見ぬ振りをする習性があるのだろう。
また、本書は、恐慌の処方箋についても考察しているが、ケインズとは異なる。その唯一の方法は景気予測の改善だという。つまり、正常な不況があることを認め、異常な不況から恐慌に至る前に事前に察知するということである。これは予防法であって解決策になっていないような...

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