2010-09-12

"経済史の理論" John Richard Hicks 著

今年のW杯でのメディア報道は、経済学的様相を見せた。ベスト16が出揃った時点で「欧州サッカーの危機!」と一斉に報じながら、ベスト4の段階になると「個のチームは時代遅れ!」と南米スタイルの限界を報じた。節操がないというか...「サッカーの専門家は国際経済の専門家ぐらい信頼できない!」と誰が言ったかは知らん!

実は、J.R.ヒックスの著者「価値と資本」を読んでみたいと考えているが、絶版中!復刊しているのを一瞬見かけたが、たまたま気が向かずに逃してしまった。手に入らないとなると、余計に燃えるのが禁断のなんとかというやつか...電子書籍の話題で盛り上がる昨今、古典の復活にこそ期待したい。

本書は、経済学を歴史に照らし合わせ、経済活動に慣習や宗教的観点を加えながら考察を試みる。ここでは「商人的経済」と表現されるが、現代風に言えば「市場経済を信奉する経済人モデル」とでも言おうか、その出現と思考の源泉を古代ギリシャや古代ローマに求め、ルネサンスや産業革命に至る流れを論じている。言い換えれば、金融的思考の勃興を探求しながら、市場原理だけを専門とする経済学者が登場した背景とは何か?という疑問と対峙していると言えよう。
訳者新保博氏と渡辺文夫氏のあとがきには、興味深いことが記される。それは、ヒックス自身が、前期の作品を後期において大きく修正したり、自己批判に至っているというのだ。「経済史の理論」は、ちょうど前期ヒックスと後期ヒックスの転換期を象徴する作品だという。彼が「一般均衡と厚生経済学」に関する業績でノーベル経済学賞を受賞した時、次のように述べたという。
「そこからすでに抜け出してきた仕事に対して栄誉を与えられたことについては、複雑な心境である。」
偉い学者が自分の理論を検証し改めることは、自己を否定するようなもので勇気のいることだろう。本書が公刊された時、多くの経済学者から批難されたという。従来の経済学から脱皮し、政治学、社会学、歴史学、科学などの複合体であることに目覚めると、完全競争原理の仮定を放棄することが必要だと感じていくのだろうか?経済学が分化して専門馬鹿になっていく様子を皮肉っているのだろうか?偉大な経済学者の思考の変化を眺める上でも、自己批判の対象でもある前期の代表作「価値と資本」にますます興味がわく。自己批判というよりは、理論の不完全性に苛立っていたのかもしれないが...

商人的経済の発展は、経済活動をする人々を富ませてきた。そして、生存競争の名目において、あらゆる行為は正当化された。市場の浸透が暴走して武器の売買を促進すると、敵国を増強することさえある。わざわざ旧式の武器を売って、自国の軍事産業を活性化させる行為が公然となされる。
その一方で、経済交易が、文化交流や社会交流と同じように、互いの安全保障を強化する役割がある。交易相手が消滅すると自国経済を混乱させるとなれば、経済交流が民族的反目を緩和させることにも貢献する。したがって、民族的感情よりも、商人的欲望の方がグローバリズムに合っているのだろう。現在では、国家間の政治的結びつきよりも、商人的経済の結びつきの方が強いように思える。

経済理論に限らず、社会理論や歴史理論においても、体系的に説明できる場面があれば、説明できない場面がある。人間社会は自己矛盾のない単純な体系をなしてはいない。人間は、その人の立場になって考えられる時に、どのような行動をとるか想像を働かせることができる。逆に言えば、想定できない価値観に対しては想像が働かない上に、認識すらできないだろう。
貨幣量や利息あるいは資本理論といった価値観だけで経済理論が成り立つはずもない。だが、エコノミストたちは、ますます複雑な統計論の深みに嵌り、実存しないモデルばかりを持ち出す。ヒックスが生きた時代、経済学者はあまりに市場に浸り過ぎて、市場以外のものに考えを巡らすことはなかったという。相変わらず、金融業界は複雑な金融商品を開発しては実質価値を欺き、必要以上の流通量を煽る。現実逃避するかのように...
市場は、あくまでも価値評価を客観的なものに近づけようとする手段であって、社会混乱を防ぐための方策であるはず。物の価値を市場に委ねるということは、人間にできない価値判断を自然法則に委ねることである。市場原理が投資を活性化させ、経済発展に大きく貢献したことも事実である。となれば、経済学者の仕事は、市場をより完全に機能させる方法を模索することになろう。にもかかわらず、ますます市場は混乱の様相を見せ、経済危機の根源になっているのはどういうわけか?

1. 慣習経済と指令経済
原始的な仕組みに、慣習経済と指令経済の二つのタイプがあるという。いずれも純粋で極端なタイプであり、実際には中間的な形態が存在する。安穏な社会では民衆は慣習を重視する傾向にある。純粋な指令形態は非常事態でしか機能せず、専制君主であっても慣習を打ち破ることは難しい。それは企業組織でも見られる傾向で、一旦非常事態に直面すると共同体は軍隊のようになるが、いずれ民主的組織へと戻るだろう。複雑な民主的組織において、成功は完全な成功とはなりにくく、失敗も完全な失敗とはなりにくい。軍事体制が民主体制へ転換する過程で、だいたい革命や戦争の大敗といった経緯を辿るが、穏便に済むケースもある。
軍事国家は、他国を侵略すると、その土地を養わなければならない。征服地は占領すれば守るべき領地となり、かえって経済的負担となるかもしれない。かつて捕虜を奴隷として強制労働させた時代があったが、それでも奴隷を養うために税負担が必要となる。となれば、侵略的略奪は、自国の経済圧迫に見合うだけの利益がなければならない。
専制君主制では強制的に税負担を課す。だが、税負担によって社会が住み良くなるのであれば、強制する必要もないだろう。そして、税が完全に均衡すれば慣習経済となる。現実には、一部の人間によって搾取したり既得権益に固執するような動きがある。歴史的には、税は生かさず殺さずの精神で運営されてきた。官僚制が登場すれば、封建制よりも優れた体制に映っただろう。科挙のような官僚制は、試験によって広く民衆から登用され、貴族支配からの解放という意味では絶大な効果がある。しかし、民主的な風潮が根付くと、試験対策と出世欲に長けた人々が集まり、応用力のない硬直した組織となりがちとなる。官僚制に限ったことではなく、どんな組織でも大規模化や長期化の過程で腐敗が進むのが自然法則なのだろう。それは個人精神でも同じで、いかに自己検証を続けられるかが問われるのだろう。

2. 貨幣の起源
いつの時代でも、国家と貨幣制度は緊密であった。だが、貨幣の起源は少々意外で、国家が鋳造する以前から存在し、国家はその利便性を継承したに過ぎないという。それは、村落市場の集団社会に自然に登場する仲介者によって、財産の代替から始まったそうな。
古代から人類の価値観に、「価値保蔵」「価値尺度」いう概念があるという。家畜だって貨幣として扱うこともできるが、利便性に欠ける。金、銀、銅は、同じ自然鉱物でありながら、人間認識はその価値に重みをつける。貨幣が用いられると、金属の供給にも影響を与え、金属取引が活況となる。となれば、金属取引の独占者が経済を支配できる。ここに国家権力が目を付けた。そして、造幣局が製造したものに特別な価値を与える法律ができる。ここに、国家が後ろ盾になった貨幣の信用というものが確立される。
経済政策では、貨幣量を調整することが、経済を安定させる手段となる。逆に言えば、偽装貨幣を氾濫させて貨幣価値を暴落させるような極度なインフレを引き起こせば、敵国の経済を破綻させることができる。古代から、こうした策謀が企てられてきた。国家権力者たちは、自由経済や貨幣流通が、国家を窮地に陥れることを恐れてきた。したがって、経済の発展に商人たちを利用する反面、自由商人たちが迫害を受けてきた歴史がある。現在では、国家権力ですら及ばない市場経済が、巨大な怪物へと成長してきた。ウォール街の連中が、いまだにインフレに過敏に反応するのは、自分の財産価値の下落に怯えるからであろう。貨幣には、流通の利便性と裏腹に、欲望による策謀の機会を与えてきた歴史がある。

3. 空虚化する価値
貨幣が登場して以来、どんな政治形態であっても市場原理が存在したという。かつて、農業による生産階級と、それを税で搾取する領主が存在した。物の価値は、生産物に向けられた。やがて、経済の主眼は生産から流通へと移行し、物の価値も生産物という実体から貨幣という実体らしきものへと移る。更に、預金は小切手や手形で譲渡することができるようになる。小切手は振替えを銀行に指図する証書である。手形は小切手と似ているが銀行の保証付きで、手形を振り出した預金者に問い合わせることなく、持参者に支払われる。利便性を煽れば詐欺行為も生じ、財産を保護するための保険業が活況となる。純粋な価値には利息が加わり、おまけに保険料が加わる。現在でもコンピュータ業界が利便性をもたらせば、システム保護のためのセキュリティ業務が活況となる。これも安全対策という保険料を払っているようなものか。利便性とは、奇妙な付加価値をつけるものだ...
土地所有者が圧倒的に優位であった時代から、資本の所有者が台頭する時代になると、金融業界は、実体と仮想の差が分かりにくいほど儲かる仕組みを築き上げてきた。巧妙な制度が価値判断を複雑化させ、とんでもない金融商品を続々と登場させる。おまけに、その制度は政府の保証付きときやがる。専門知識を駆使して、世間に価値判断できないように武装してしまえば、それだけで社会を支配できる。収入を銀行に預け、決済能力を銀行が独占すれば、利率だけで経済を支配できる。農作物の流通や収入をすべて農協を経由するのであれば、農業は農協によって支配される。となれば、生産業者は販売ルートを自ら構築し、ローン決済も自らシステム構築したいと考えるだろう。
かつて、あらゆる工業製品を総合商社を通して購入すれば、様々な情報を得ることができた。総合商社には、製品スペックの比較や、より安価な製品など、企業戦略に必要な情報が蓄積されていた。それなりにマージンを取られる。だが、情報戦略が多様化すれば、総合商社を通す意味も薄れていく。流通ルートに独占的要素が減少すれば、価値を決定する市場経済の役割はますます大きくなるだろう。しかし、現実には、市場の混乱がそのまま社会混乱に直結し、市場に参加していない人々までも窮地に追い込む。いや、市場関係者はさっさと自己防衛に走り、無関係な人々に被害を押し付けたままだ。一部の連中の都合によって一時的に価値を釣り上げたり釣り下げたりすることは、専制君主が自らの利益追求のために価値観を押し付けているようなものである。

4. 金融の登場
ルネサンス時代になると、貨幣は金融と結びつき、その性格が変わったという。仲介業者の原理には利子の概念がある。古代ローマ人は利子をとることに良心を痛めなかったが、キリスト教の登場で利子は罪悪という価値観が生まれる。ルネサンス期に信用の概念も現れたという。それは、返済不履行で破綻した時の担保という形で現れる。契約は、法廷での判定材料として使われ、多くの訴えに対して裁判効率を上げる。担保物件が貸し付け価値よりも高ければ、債務不履行で債権者は得をする。そして、合法的に抵当権が執行される。無担保であれば、高利貸しが登場し、いずれにせよ生産活動をする人々を圧迫する。生産活動で国家経済を支えてきた人々は、資金面で仲介業者の風下に立たされてることになる。
金融仲介業者は、その立場上、中立でなければならないはず。プロテスタントの倫理がその立場を強調したが、宗教改革以前からそうした倫理的流れがあったという。その流れで登場した証券市場は、あくまでも仲介中立の立場を目的とするのだろう。商業取引は金融取引に発展し、利便性サービスの提供を金融業者が一手に引き受けるようになる。そして、証券業や金融業が高度に発達すると、無理やり取引を煽り、大量のマネーを動かし、高額なボーナスを享受する巨大な怪物へと変貌するわけか。彼らは、返済義務のない株式を登場させ、これを都合良く自己資本と呼ぶ。
ヒックスの時代、財産税や資本税が所得税よりも優れているという意見が多かったという。税の基本理念は公平性である。だが、財産を評価する手間もかかれば、正当に評価することも難しい。公平性を実践する上では、所得税は現実的なのだろう。消費税は、消費した量に対する課税なのだから、一見公平そうに映る。税の直間比率を個人の財力に合わせるという目論見であろうが、生活必需品もあれば贅沢品もあり、すべての税率が一律というのも疑問が残る。
いずれにせよ、税の公平性は国家が担い、価値評価の公平性は金融が担うことになる。これらをセットで制度化しないと、公平性は構築できないだろう。そもそも、金融は単なる仲介業者に過ぎない。銀行が利潤を得ようとすれば、預り利率は貸出利率よりも低く設定することになる。仲介業務は、投資先を見つけたり価値評価を第三者の立場で検分する役割を担い、それを仲介料や手数料とすることができる。やがて、銀行が国家へ貸し付けをするようになると、制度上の恩恵も受けられるようになる。債務不履行が発生すれば、国家が頼りにする銀行が潰れる危険性もあり、それだけで国家からの保護対象となる。
銀行は、無理やりにでも預金額を増やすことに躍起になるように映るが、本書は必ずしもそうではないと指摘している。預金金額が増加すれば、取付けの危険性が高くなるからである。金融の原理は、仲介業こそ基本であって、そこから乖離しつつある危険性を指摘している。

5. 奴隷労働から自由労働へ
本書は、商人的経済には階級がなく一見ドライな社会に映っても、従者的労働や慣習的精神と深く結びつくと語る。そして、奴隷制の廃止よりも奴隷貿易の廃止の方がより重要であると主張する。雇用主は、利潤率を高めるために労働賃金を最低水準に抑えようと考えるだろう。かつて、指令体制は階級社会によって形成され、封建社会も主従関係によって成り立ってきた。奴隷が子供を持って家族を形成すれば、主人は家族ごと養い、そこに主従関係が生まれる。だが、奴隷が転売されれば、主従関係の安定が崩れる。これも、労働市場に臨時労働者が増えれば、いつ解雇されるかわからないのと同じか。労働者を道具として扱えば、雇用主もいつ見限られるか分からない。ストライキも起こる。労働力が不安定であるのは雇用主にとって重要な問題である。したがって、労働者への福祉を導入した方が得策となる。現在では奴隷という言葉を使わないが、現実に大会社と下請け業者の間で微妙な力関係が存在する。結局、土地の所有から、企業体の所有、労働資本の所有、これらを独占しようとする脂ぎった所有欲は抑えられない。持つ者と持たざる者の関係は、永遠に続くようだ。
キリスト教以前ですら、ローマ法で若干ではあるが奴隷の保護を与えていたという。キリスト教が奴隷制の廃止を唱えているわけではないが、キリスト教的倫理観が自由の風潮を加速させたという。そして、15世紀のアフリカ航路が開かれるまでに、自由労働は確立されていたという。だが、異民族に対しては、厳しい人種差別が続く。
ここで注目したいのは、「自由労働が確立すると、自由労働はいっそう低廉になる」と指摘しているところである。結局、奴隷並の賃金に抑えられ貧困層はますます貧乏になり、資本階級はますます金持ちになるという構図は変わらないのか?プロレタリアートの中にも知識層が誕生し、労働者階級の中でも格差が生じる。そして、プロレタリアートの知識層が、知識を持たない労働者階級を扇動するという、ややこしい社会関係が生じる。プロレタリアートの知識層が、労働者から資金を募り政治活動をする。現在でも、労働組合が政治団体と化し選挙活動と強く結びつくが、こうした組織が労働者を代表しているとは到底思えない。労働賃金が上昇すれば、人件費が上がり、生産コストが上がり競争力を失う。民衆の生活水準が上がれば経済成長は小さくなり、国際競争力を失うというジレンマに襲われる。したがって、先進国ほど大幅な経済成長が期待できないのは自然であろう。高度経済成長期に見られるような給料の右肩上がりは当然であるという時代は、80年代末に終焉したと考えねばなるまい。

6. 産業革命と工業化の意義
経済的には手工業と商業は似ているという。市場向けの生産を行う職人は、同時に商人である。純粋な商人は買う物と売る物が同一であるが、職人は買った物を形を変えて売るという違いぐらいか。企業の経済活動の状況は会計上に現れる。製造業の会計方式と商業の会計方式の双方に、同一の勘定項目を見かけるのも、経済的には似ているのかもしれない。金融業の貸借対照表は、ちょっと異質だが...
商業の資本は、主として運転資本や流通資本といった回転資本だという。商業は、事務所や倉庫といった固定資本も使うが、これらは営業の中核をなす財の保管場所に過ぎないという。手工業では、道具は使ってもそれほど高価ではないので、原材料の回転こそが本質的な仕事である。
しかし、産業革命期に商業と工業には明確に違う現象があるという。それは、近代工業で固定資本が中核になったことである。固定資本財には、建物や運輸手段である機関車や船舶が中心となり、資本蓄財の拡大だけでなく設備投資の拡大がある。この現象は、産業革命と工業化に大きな意味を与えそうだ。金融市場が、有価証券の売買を円滑にし、資金の動きやすい状況をつくり、資金流通の基盤が産業革命を後押しする。だが、最大の根底には科学の進歩があると指摘している。それは、蒸気機関に代表されるような新たな動力源の発明である。科学の進歩は、産業界に異種交配といった相乗効果を生む。多くの工作機械が開発されると、戦争手段までも変えてしまう。
また、工業化が実質賃金を上昇させてきた。ただ実際には、実質賃金の上昇は工業化からかなり遅れているという。経済成長は労働需要よりも先行するのだろうが、過剰労働がなくならない限り実質賃金の上昇は起こらないらしい。古典派経済学では、資本を増大させるものすべてが労働需要を上昇させる要因になると考える。だが、工業の労働需要と強い相関関係があるのは、工業資本全体ではなく流動資本のみだと指摘している。実際には、流動資本は固定資本への切り替えがあり、結果として総資本が上昇しても流動資本が低下する場合があり、労働需要の伸びが鈍化することもありうる。新たな機械を導入すれば生産コストが低減でき、固定資本による生産効率が上がる、そして、機械が労働者にとって代わる。となれば、過剰労働は抑制されるかもしれないが、労働需要が上がるとは言えないだろう。
本書は、近代工業が景気変動に影響を受けやすく、工業労働者の失業が流動的であることを指摘している。その流動性を吸収しているのが臨時労働者ということになろうか。失業も必然的に生じるだろう。常雇労働者の賃金は固定費として扱われる。近代工業が固定資本に依存するとなれば、その要素自体が革新的性質を持たざるをえないだろう。設備は必要に応じて新たな機械と入れ替えられる分、革新的性質と言えそうだ。労働者を固定資本とするならば、労働者自身が革新的精神を怠ることはできいないということかもしれない。

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