2011-09-25

"超ヤバい経済学" Steven D. Levitt & Stephen J. Dubner 著

全世界でベストセラーになった「Freakonomics(ヤバい経済学)」の続編、「Super Freakonomics」の登場。前作では、社会の相関関係や因果関係から生じる人間の行動を、経済的インセンティヴ、社会的インセンティヴ、道徳的インセンティヴの視点から見事に説明されていた。特に印象に残っているのは、アメリカにおける犯罪の大幅減少の要因を中絶の合法化にあるとしたことであろうか。これには、識者と呼ばれる人々から思いっきり批判されたであろう。今作では、一般的な話題の地球温暖化問題に殴り込みをかけたために、ノーベル賞級の識者たちから批判されることになる。
本書はミクロ経済学でも行動経済学の分野を扱うわけだが、その視点は一般的には反社会的ということになろうか。アル中ハイマーな泥酔者にとっては、こちらの方が正道だけど。全般的に理性的な方策よりも現実的な方策を重視している。経済的とも言えるけど。そして、人間行動を観察する上で重要なのは、「インセンティヴ(誘因)」にあるとしている。
「現代の世界では、危ない振る舞いをやめさせるのに一番効果があるのは教育だとぼくたちは信じがちである。これまで行われた意識向上キャンペーンはほとんど全部、そういう考え方が裏付けとなっている。地球の温暖化からエイズの予防から酔っ払い運転まで、どうれもそうだ。そして、お医者さんは病院で一番教育をうけた人たちなのである。」
これは、最も知識的とされる医者が忙し過ぎて手を洗わないという統計情報にもとづいて語られたものである。知識や教育で行動が完全に誘導できるならば、有識者や有徳者がダイエットや禁煙に失敗することはないだろう。ましてや政治と金の問題など発生するはずもない。
専門家とは、その筋の情報で優位に立ち、それを利用して人を出し抜こうとするインセンティヴを持った連中だという。
「政治と経済学はアメリカではとくに相性が悪い。政治家はありとあらゆる理由をつけて、ありとあらゆる法律を作るけれど、彼らがどれだけいいことをしたつもりでも、彼らの作る法律は本物の人びとが本物の世界でインセンティヴにどう反応するかがてんでわかっていない。」
ちなみに、経済学用語の「累積的優位」とは、「ヤバい!」を意味するそうな。

新たな社会問題が生じれば、有識者どもは決まって悪行を批判し、理性的な解決策ばかりを持ち出す。そして、暴力映画はけしからん!風俗業はけしからん!などと叫びやがる。だが、こうした現実的な方策がいかに犯罪を抑制してきたであろうか。はたまた、交通事故の増加が悪いニュースとばかりは言えないかもしれない。臓器提供を期待する人々にとっては良いニュースかもしれない。人間が善悪の双方において本質である限り、その片方を遠ざければ思考は偏重するしかあるまい。科学的に答えの分からない問題を、そのまま世論に委ねるのは危険だ。巧妙な宣伝ばかりが残り、政治的思惑に陥りやすいのだから。俗世間の圧倒的多数は、残念ながらアル中ハイマーのようなあまり思考しない人々であろう。人間は基本的に面倒で厄介な事を嫌う傾向がある。これだけ情報インフラが発達しながら、いまだにテレビの影響力が強いのは、人間の受動的な性質によるところが大きい。ちなみに、放送とは「送りっ放し」と書く。
高度な情報化社会ともなれば、思考すべき段階で他人の意見が先に入り込み、冷静に思考する機会が失われがちとなる。議論に参加しやすくなれば、思考が活性化されて、その相乗効果で様々な意見が生まれやすいのも事実だが、本当に自分の意見なのかも疑わしい。仮想化社会では、自己の居場所を他人の意見に求めるところがあって、多数派に属することで安住したりする。そして、多数決の原理は、良くも悪しくもいっそう強烈な効果を発揮することになろう。情報に対する姿勢は、ますます個人の能動的意欲で決まり、情報格差や意識格差も生じやすい。
そうなると、唯一拠り所にできそうな思考は客観性である。すなわち科学の目だ。あらゆる社会問題において、マスコミは科学者の意見をもっと重視すべきだが、その見極めが難しい。科学者にも政治的思惑を好む輩がいるからだ。ましてや、科学的見解を自称有徳者たちの批判に晒されては、感情論に陥るのは避けられない。だから、政治から独立した科学機関が必要となるのだが、研究は予算獲得が要となり政治の思惑と結びつきやすい。あのNASAですら。

ファインマン曰く、「すべての知識は実験で検証される」
人間社会を実験の場にすることは難しい。地球温暖化の原因がCO2にあるのか?それを実際に調べるために、CO2を排出するエネルギー源を大胆にも数年間すべて止めてみるなんてことは不可能だ。ここに経済学や社会学の難しさがある。だが、ほとんどの経済政策や社会政策が、実験的に試されてきたのも事実である。
人間は、自虐的に過去の行いを非難して、自己を救済しようとするところがある。歴史を振り返れば、その性質が感情論と結びついて誤謬に陥った例も少なくない。確かに癒し系の言葉や理性的な思考は心地良くさせてくれる。だが、それだけに思考が硬直化する恐れがある。だから、アル・ゴア的な理性的な風潮を広めるだけでなく、非理性的かもしれないけど、あらゆる科学的な方策を模索すべきであろう。科学的見解では、温暖化の結果としてCO2の増加を招いているとするのが有力だ。では、地球温暖化の原因は何か?自然的要因と人為的要因の論争はいまだ尽きない。まぁ、複合的な要因なんだろうけど。
本書は、直接太陽光を遮断して地表を冷やす方法を、大規模な火山噴火をヒントに議論している。成層圏に亜硫酸ガスをばら撒くというアイデアだ。不純物をばら撒くとなれば、有識者どもから、なんと不謹慎な!とか、SFじみている!などと地球工学を蔑む声が大きくなる。確かに、それが実現できたとしても、なんらかの副作用が生じるだろう。それでも、緊急に地表を冷却する必要があるような危機的状況を想定しておく必要はある。問題の本質が明らかにならないうちは、違った視点を持ち続けることが思考停止を防ぐ意味でも重要である。本書が指摘しているのは、まさにこの点にある。
ちなみに、太陽光発電はヤバいらしい。問題はパネルが黒いことで、太陽光を吸収するためには絶好だ。電気に変わるのはたった12%ほどで、大部分は再放射されるという。となると、地球温暖化に寄与しているわけか。我が家は太陽光発電にして10年近くになるが、節電などと言って大きな顔はできんなぁ。もっとも環境意識からではなく、電気代がもったいないという経済的誘因が働いただけなんだけど。

1. サルの経済学
キース・チェンのオマキザルの実験は興味深い。オマキザルの脳は小さくて、食うこととセックスぐらいしか考えないという。
まず、何ヶ月もかけてコインに価値があることを教える。コインを渡してからご馳走を見せるといったことを繰り返して。研究員が複数いて、それぞれ持っている食べ物にコインを渡すとその食べ物が得られるといった仕組みにすると、好き嫌いがあることもわかったという。
次に、価格ショックと所得ショックの概念を持ち込む。コイン1枚でゼリーが3つ買えたのを、突然、コイン1枚では2つしか買えないことにする。すると、餌の値段が上がると買う量を減らし、値段が下がると買う量を増やしたという。なんと、右下がりの需要曲線をサルが実践してみせたわけだ。サルは合理的なのか?
更に、二つの賭けで非合理的な概念を持ち込む。一つ目の賭けは、最初にぶどうを1つ見せ、コイントスの結果でもう1つ与えるか決める。二つ目の賭けは、最初にぶどうを2つ見せ、コイントスの結果で1つ引っ込めるかを決める。どちらも同じ確率だが、一つ目の賭けは儲かるかもしれないという心理が働き、二つ目の賭けは損するかもしれないという心理が働く。サルは一つ目の賭けを圧倒的に好んだという。つまり、損失回避という心理が働くというのだ。この実験的心理は、見事にデイトレーダたちの行動を再現している。
チェン曰く、「株式市場の投資家のほとんどは統計的にサルと見分けがつかない。」
驚くべきはこれからだ!
実験室で強烈な事件が起こる。ある日、一匹のサルが、餌を買わずに12枚のコインをひったくった。銀行強盗か?コインが床にちらばると、7匹のサルが奪い合う。研究者たちは、仕方なく餌で釣ってコインを回収したという。
「これでサルたちはもう一つの大事な教訓を学んだ : 犯罪はおいしい!」
また、雄サルが雌サルにコインの受け渡しもやったとか。サルにも思いやりってものがあるのか?いや、しばらくすると、その二匹はセックスをはじめたという。セックスが終わると、雌サルはコインでぶどうを買いにきたとか。売春行為か?
ここには経済学の本質が暗示されているのではなかろうか。

2. インド事情
ここに語られるインドは近代化したイメージからは程遠い。ただ、本書の出版が2010年だからそんなに古い情報でもなさそうだ。
いまや世界経済の主力プレイヤーとなったインドは、国全体ではいまだ耐え難い貧しさがあるという。人口の2/3以上が住む農村部では、電気がきている世帯は半分、トイレのある世帯は1/4、平均寿命も識字率も低く、汚染も汚職も酷いという。また、女性差別が激しく、人口でも女性の方が3500万人も少ないのだそうな。男子を授かるのは401kの退職年金を受けるようなもので、大人になれば親を養ってくれるし葬式も出してくれる。
一方、女子の場合は、退職年金は持参金にすり替わるそうな。持参金という慣習は昔から批判されているが、いまだ花嫁の両親は花婿の家族に金銭や車や不動産などを贈る風習が残っていて、結婚式の費用も花嫁の実家が支払うのが一般的だという。過去には、間接的に女の子には医者に連れて行かなかったり、直接的に助産の段階で殺されたりしたことが予測されるらしい。近年では医学の進歩でもっと巧妙になり、性別を選んで中絶するなど生まれる前に処理するやり方が増えているという。
「嫁焼き!」ってなんだ?毎年10万人を超える若い女性が焼き殺され、その多くは家庭内暴力だという。HIV/AIDSの感染率も高いらしい。ノーベル賞経済学者アマルティア・センは、足りない女性を「喪われた女性たち」と呼んだとか。そうえいば彼の本を一冊読んだことがあるが、経済学者というよりは人道的社会学者という印象がある。劣悪な国家事情が、こうした経済学者を生んだのだろうか?
CATVなどの情報インフラが整っている家庭は出産率が低いそうな。出産率が低いということは、女性の自立性が高まり、健康上のリスクも低下していることを意味するという。また、テレビのある家庭は娘を学校に通わせる割合が高いとか。そういう家庭は、少なくとも女の子をそんなに低く評価しているわけではないのだろう。
耐え忍ぶ女性というイメージは、日本の慣習にも残っているがケタ違いなようだ。どんなに新興国に経済的勢いを感じても、どんなに他の先進国を羨ましく思っても、やはり日本人で良かったと思うのであった。

3. 馬車から自動車、そして温室効果ガス
産業革命が起こると、世界で近代化が進み人口は急増した。群衆やモノが大量に移動することになると、交通渋滞、交通事故、保険料の高騰などの問題が発生した。特に甚だしいのは、ロンドン、パリ、ニューヨーク、シカゴなどの大都市圏。尚、これは自動車ではなく、馬のお話。
19世紀、急速な近代化の途上で建築資材の輸送や自家用馬車など、様々な輸送手段として馬の需要が高まった。同時に馬の交通事故が多発。馬が怪我でもすれば交通渋滞となるので、その場で安楽死させることも多い。死骸は非常に扱いにくいので、街路清掃人たちは腐るまで放置する。その方がバラバラにして運びやすいから。また、車輪や蹄鉄の騒音が凄まじく、神経を病む人も多かったという。病院通りでは馬の通行を禁止する街もあったとか。なによりも最悪なのはウンコだ!当初はウンコ市場もうまくまわっていて、農家が買って肥料にしていた。しかし、あまりにも馬の交通量が増えると、ウンコが大量に余るようになる。雨が降ればドロドロになって、道に溢れ... 読んでるだけで悪臭がしてきそう!おまけに、恐ろしく有害!ハエの大量発生で伝染病を媒介、ネズミや害獣が群がる。ウンコはメタンを出す。強力な温室効果ガスだ。
この大問題を解決したのが、ある技術革新である。そぅ自動車の発明だ。なるほど、自動車のパワーを馬力で表記するのもうなずける。当初、馬環境の救世主として登場した自動車が、今では環境破壊の代名詞とされるのも皮肉だ。
結局、馬から自動車に交通手段が変わっただけで、根本的な問題は先送りされてきたということか。いや、逃れられない永遠の社会問題なのかもしれない。人間が生きるということは、消費を意味する。電気、ガス、石油などのエネルギーがなければ生きてはいけない。そして今、新たな自然エネルギーを求めている。しかし、新たに発明される自然エネルギーも、いずれなんらかの形で有害となるのだろう。人類の歴史は、まさに創造的破壊の繰り返しというわけか。歴史を振り返れば、終末論のような絶望的な観測よりも、技術革新によって思ったよりも良い方向にきたように思う。では、これからもそれを期待していいのか?あるいは、期待を外した時に人類は滅亡するのか?

4. 地球温暖化
数十年前まで、地球は氷河期に向かっているとされていた。それを地球工学的に阻止すべく研究もされてきた。今でも長期的には変わっていないのだろう。しかし、21世紀では温暖化が進んでいるとされる。近年の気温上昇や異常気象などを鑑みても、そう考えるのは自然であろう。ただ、世論の流れでは、その原因がCO2の増加とされている。まるでCO2は悪魔のような言われようだ。しかし、科学的見解では、むしろ逆で温暖化の結果CO2が増加したというのが有力なようだ。となれば、CO2削減を打ち出す政府の方策は的はずれではないのか?CO2削減は、地球温暖化とは別の問題で寄与するかもしれないけど。
小学校時代には、人間は酸素を必要とし、植物はCO2を必要とすると習った。農業では、CO2を倍にして生産物の成長を促すような配慮をすると聞く。人間が食料とする植物にとって、CO2は命なのだ。
ここ100年間で、大気中のCO2の濃度が280ppmから380ppmに増加したという。その数字だけで不安に駆られるだろう。だが、進化の過程にある8000万年前は、1000ppmもあったという。ちなみに、普通の高層ビルでもそのぐらいのCO2に保たれているというから、それほど毒にはならないのだろう。仮にCO2が2倍になっても、地球が放射するエネルギーの2%も捕捉しないという。ただ、CO2の半減期は100年もあるらしいから、溜りはじめると厄介なのかもしれない。
地球温暖化の原因が自然的か?人為的か?という論争は尽きないが、人為的な要因がゼロということにはならないだろう。人間が息をすればCO2を出すし、牛や羊などの反芻動物の息やオナラやゲップやウンコはメタンを出す。ちなみに、何の因果か?カンガルーのオナラにはメタンが含まれていないそうな。だからといって、牛の代わりにカンガルーを食べればいいというものでもないだろうけど。
そして、産業活動で化石燃料を使用すれば、大量の温室効果ガスを発生する。人間は悪魔めいているなぁ。となれば、アル・ゴア的な発想も悪くはない。
しかし、だ。地球温暖化の主因がCO2やメタンなどではなかったとすると、どうだろうか?人類は、危機に備えて別の方策を考えておく必要はないのだろうか?問題の原因を世論の多数決に求めても仕方があるまい。気象変動モデルによるコンピュータシミュレーションは、今のところいまいち信頼に欠ける。金融機関のリスク管理モデルも当てにならないし、人類はいまだランダムウォーク現象に対して無力である。人類にとって、どの程度の気温上昇まで許容できるのかもはっきりしない。地球温暖化の問題よりも地球の自転軸がずれるほうが、はるかに危機のような気もするけど。
ちなみに、最近の気候モデルは、どれも同じような結果を出す傾向があるという。かけ離れた結果では予算がつかないので、パラメータや係数を微妙に調整するのだそうな。研究助成金を得るためには、気象モデルまでもが多数決に従うというわけか。大震災時の原発事故では、せっかく放射能予測システムSPEEDIがありながら情報公開されない。環境汚染の前に、科学が政治に汚染されているのか?

5. 火山活動をヒントにした経済的方策
本書は、不純物を成層圏にばら撒いて直接太陽光を遮断する案を紹介している。それは、1991年のピナトゥボ火山の噴火で、成層圏にばら撒かれた亜硫酸ガスによって、一時的に地球の平均気温が0.5度下がったという科学的根拠からきている。ピナトゥボ火山級の噴火が数年おきに発生すれば、21世紀の人為的な温暖化の大部分は相殺されるという論文もあるという。多少の不純物をばら撒くぐらいならOKなのだろうか?そもそも人間が生きること自体が、公害を撒き散らすようなものだから、どこかで妥協点を見出すしかないのかもしれない。しかし、環境保護団体などから、不謹慎な!という批判が殺到したようだ。それでも、最悪な気温上昇を招きそうとなれば、手段として準備しておく必要はあろう。
NASAは、もっと突飛なことを考えているらしい。「複合スクリーン」計画は、空にアルミニウムのメッキをした気球を何十億個も飛ばして太陽光を屈折させる案。「スペースミラー」計画は、光を反射する5万5千個の帆を上空の軌道に乗せる案。いずれもSFじみているが、アメリカの凄いところはこういうことを本気で研究していることである。
さて、亜硫酸ガスをばら撒く話に戻るが、経済的にも工学的にも現実味があるらしい。毎年少なくとも2億トンの亜硫酸ガスが大気中にばら撒かれているという。火山が25%、産業活動が25%、残りが波しぶきなどの自然現象。地球を変えられるほどの硫黄排出量は、今の1%のまたその1/20で、それも空高く持っていけばいいだけという試算もあるらしい。つまり、めちゃくちゃ長いホースがあればいいというのだ。
更に、成層圏よりも対流圏にばら撒くといいことがあるらしい。温暖化の大部分は極地で起きる現象で、赤道よりも緯度の高い地域の方が4倍も気候変化に敏感だという。ある計算では、北極圏近くで亜硫酸ガスを1年に10万トンばら撒くと北半球の温暖化が抑制できるという。成層圏の風は時速100マイルもあるので、吹き出された霧は10日ぐらいで地球全体に行き渡るとか。しかも、成層圏の大気は北極と南極に向かって自然に螺旋運動をするという。これは、てこの原理からくるもので、アルキメデスの言った「私に支点をくれれば地球を動かしてみせよう」というのはそういうことらしい。
地球温暖化は人間が産業活動を完全にやめたとしても続くかもしれないし、ましてや理性や道徳などで人間の行為を戒めても解決しそうにない。工業化のために散々CO2を排出してきた先進国の説得を、新興国が受け入れるかは疑問だ。それよりは、地球工学的に模索する方が現実的であろうか。地球工学をあまり信用しないアル・ゴア的な政治屋が派閥を利かせれば予算がつきそうにないけど。
「アル・ゴアとかけてピナトゥボ火山と解く。そのこころは、どちらもこの惑星の冷やし方を示している。でも、割りの良し悪しって点では、二つの間には宇宙1個分ぐらいの隔たりがある。」

6. モンティ・ホール問題
ベイズの定理における事後確率、あるいは主観確率の例題だが、興味深いのでメモっておこう。
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それぞれ1/3ずつの確率で当たるクジを引く。プレイヤーはまず選択肢3個のうち1個を選ぶ。それからクジの主催者が残った2個のうち、ハズレを1個除く。クジを開ける前に、プレイヤーは最初に選んだクジを、残った1個のクジと変えても良いと言われる。
さて、プレイヤーは変えた方が良いか?
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一見どちらもで同じ確率で1/2に見える。だが、実は最初に選んだクジの当たる確率は1/3、残ったクジが当たる確率は2/3になるという。これは直感的には難しい。
そこで、最初の選択肢を100個にして、2回目の選択の前に98個を除くとすれば分かりやすいか。最初は1/100で、次は99/100となる。

1 コメント:

アル中ハイマー さんのコメント...

本書は、犯罪に対する傍観者心理について興味深い本を紹介してくれる。

「ティッピング・ポイント」マルコム・グラッドウェル 著

NYの路上で女性が刺殺された事件。多くの隣人が目撃していたにもかかわらず、誰も通報しなかったという。
一般的には、大都会の無関心と非人間性と解釈するのだろう。だが、集団心理に潜む無責任性という人間の本質的なものが暴かれているらしい。匿名性の疎外感とでも言おうか。おそらく、目撃者が一人で、それを自覚していれば、通報したかもしれない。だが、目撃者が大勢いれば、誰かが通報するだろうという気持ちが働く。責任感というのは、自己の存在と疎外感に深く関わるのかもしれない。

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