前々からノリーナ・ハーツ女史の書を読んでみたいと思っていたが、なんと絶版中ではないか!いつでも入手できると侮っていたら...てなわけで図書館へ。
今日、どこの民主国家でも選挙の投票率は低下傾向にあるらしい。それは民衆の無言の抗議を示しているのか?それとも政党政治の限界を示しているのか?いまや政治不信は世界的風潮となりつつある。社会人類学者レヴィ=ストロースは原始社会の研究において、政治的首長は社会の必然から生じるものではないという見解を示した。ニーチェ風に言えば、政治家は余計な人々というわけか。これは真理かもしれない。グローバリズムの真の姿とは、政治家不要説ということか?...そんな予感をさせてくれる一冊である。
巨大化する多国籍企業が巨額な政治献金を行えば、政治家の行動を縛ることになる。民間企業がなんの見返りもなく資金提供するとは考えにくい。アメリカのように国民皆保険の設立を夢見たところで、反対派の保険業界から多額な献金を受けていては骨抜きにされるのも仕方があるまい。政治家がどんなに立派な公約を掲げようとも、選挙を介さない連中によって政治が動かされる現実がある。
本書は、「企業による無言の乗っ取り!」の実態を暴き、資本主義とグローバリズムの行き過ぎが引き起こす民主主義の衰退に警鐘を鳴らす。そして、政治や企業に対して市民の新たな関わり方を提唱する。これは反資本主義を唱えたものではない。過去に資本主義が富を生み、自由の尊さを教えてくれたのは事実である。資本主義以上の社会システムが模索できない今、このシステムに改良を続けていくしかあるまい。
ただし、我が国はこのようなレベルで経済政策や国家政策を議論できる土壌が、まだできていないことは虚しい。政策が悪いという前に将来計計画がない。善悪はひたすら結果論で評価され、その場のギャンブルに委ねられる。政治屋は、数の派閥を利かせるには、無思想、無理念のチルドレン議員を多く輩出することが最も効果があることを知っている。そして、次の政策には反省を盛り込むことすらできず、問題先送りの泥沼に嵌り込んでいく。これは、世論調査ばかりを気にする日和見政権が長期化することの悲劇であろうか。説得する政治は、いまだ見ることができない。将来ビションに対する説得がなければ、なんで増税議論ができようか。
民主政治にとって選挙が絶対的な制度とは思わない。それでも、現時点で人類が編み出した最も実践的な制度であることは確かだ。政治家たちは選挙制度を自らの手で機能不全に陥れてきた。そもそも選挙制度を国会で決めることに矛盾がある。現制度で当選した連中が、わざわざ見直すだろうか?「泥棒が刑法を作っているようなもの」とは、よく言ったものだ。おまけに、国対が存在するとは憲法違反ではないのか?憲法第41条に「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。」と記されているにもかかわらずだ。
政治支援団体は資金をちらつかせ、政治屋はその資金で選挙戦略を練る。いわば脅し屋とたかり屋の構図がある。もはや「清き一票」を信じる人は少数派であろう。支援団体や献金の規模の違いはあれど、どこの民主国家でも原理は同じだ。
しかし、献金する企業が悪いとばかりは言えない。現実に、実業家の中には慈善活動に従事する人々がいる。彼らは、その成功が不必要な格差を生じさせたと罪を感じ、懺悔心でも抱くのだろうか?実業家は現場を知っている。そうでなければ事業は成功しない。現場に則した実践的な政策立案のできる能力やマネジメント能力を持っている。政治家のように上辺の政策とは根本的に思考水準が違うはずだ。もし、彼らが倫理観に目覚めることができれば、これほど政治的に役立つ連中はいないだろう。
「行政が後ずさりすれば、企業は新たなチャンスだ。政治はこれまでになく曖昧にブランド化された商品となり、企業は社会と環境に対する責任を負うことによって、道徳的というありがたい評価を得るとともに、実際のビジネス面でも利益をあげることができる。」
とはいっても、企業の本来の性格は利潤を求めることにある。経営不振ともなれば、生産効率の悪い部門から削られ従業員は解雇される。慈善活動は余裕のある範疇でしかできない。対して、政府は耐え難い格差や不公平社会を抑制するために存在し、ボランティア的な性格がある。だが、財界と政界が癒着するならば、どうして資本主義や自由主義の暴走を防ぐことができようか。
では、企業を倫理的に導くことはできるだろうか?反社会的な領域に及ぶ利潤追求は、透明性のある情報公開によって抑制することができるだろう。近年、内部情報の漏洩や内部告発が企業イメージを失墜させ、その存続を脅かす。ただ、社会的制裁は情報の正確性があってはじめて機能するもので、エセ情報が流布したおかげで非のない企業にダメージを与えることもある。
では、情報の正確性を誰が検証できるのか?マスコミは信頼できるのか?マスコミもまたスポンサーに逆らえないし、大企業や政府の圧力を受けやすい組織であることは周知の通りである。いまや報道屋は政治屋と同じくらい、いやそれ以上に胡散臭いとされるが、そんな疑惑をマスコミ自身が報じるわけがない。近年、インターネットは、大手マスコミが語ろうとしない情報が得られる点で社会的役割が大きい。現実に、北アフリカや中東でソーシャルメディが改革運動を高めた。だが、欺瞞やエセ情報が流布しやすいのも事実だ。
んー...どこにも浄化作用が見当たらない。
本書は、個々の自由意志で参加する民衆運動を訴えている。マスコミにも、政府にも、企業にも、民衆の眼で圧力をかけようというわけだ。これが具体的で最も現実的な方策であろうか。不買運動やボイコットといった民衆運動や消費者運動は社会的意義が大きいので、大企業や政府も無視できないはず。ただ、民衆が偽情報で扇動されると厄介なことになる。人間は個人では冷静でいられても、群衆化すると感情論に煽られ暴徒化しやすい。となれば、個人の能力として情報の目利きが要求され、個々で思考して行動することが求められる。
...などと言えば、民主政治とはなんと難しいシステムであろうかと絶望感に苛まされる。やはり、シャングリ・ラのような超高齢化社会でもなければ、精神が成熟できず実現できそうにない。
んー...人間の悪魔化を抑制する手段は、それぞれの業界の緊張的関係しか思いつかない。競争の原理とは、「毒を以て毒を制す」を意味するのか。
1. 諸悪の根源
本書は、英国でサッチャー政権が米国でレーガン政権が誕生したあたりに諸悪の根源があるとしている。新自由主義と叫ぶ連中が「レッセフェール!」を布教しながら市場シェアを拡大したために、市場は制御不能な怪物と化したと。「小さな政府」をスローガンにWTO、IMF、世界銀行が世界各国に圧力をかけてきたことは周知の通り。そこで決まって福音されるのが、「富裕層が貧困層を牽引して、経済を回復させる...」だ。しかし、富裕層が潤った頃に景気は再び後退局面に向かう。これが経済サイクルというものか。
株価が上昇したところで、庶民の生活が向上するわけではない。だが、株価が暴落すると思いっきり庶民の生活を圧迫する。この一方向性はなんなんだ?エントロピーの法則なのか?容認できない二極化は、かつての貴族社会のように階級を固定化する。財産という優位性によって、富裕層の子孫たちが明日のリーダーを担うような社会がまともなのか?
経済学者アマルティア・セン曰く、「穀倉が作物いっぱいなときでも、飢饉が起こりうる。」
冷戦構造が終結し、イデオロギー対立による軍事的脅威が収まると、政治の主な役割は経済に向けられた。むかーし、社会主義や共産主義は福祉の分配に成功していたかに見えた。だが、腐敗から巨大官僚主義が蔓延るまでに時間はかからず、結局、貧民から搾取するシステムとなった。そして今、資本主義が同じ轍を踏んでいる。冷戦構造は、資本主義の暴走を抑制するために、ある程度機能していたのだろう。単一のイデオロギーしかない世界では、民主主義は自身の本質を見失うのだろうか?かつての共産主義圏ですら資本主義や自由主義の成功に憧れて、欧米式の経済コンサルタントを受け入れた。その最たるものは、ノーベル賞経済学者を擁したドリームチーム「LTCM」だ。その結果、世界規模の経済危機を招き入れ、市場経済への信頼を失墜させた。そして残されたものは、耐え難い格差社会と不公平社会であった。これがグローバリズムの正体か?小さな政府は、なんでもかんでも民間に委託すればいいと考える。そして、国家防衛の要である軍事を専門とする企業が出現した。次は、政治を専門とする民間企業の出現か?
2. 無言の乗っ取り!
今日、経済政策は消費主義と同一視され、政府は相変わらず消費を煽る。経済循環は消費に見出すしかないのか?人類が相対的な価値観しか見出せないならば、経済循環も相対的なものとなるはず。絶対的な経済循環というものが認識できなければ、循環は欲望とともに拡大を続けるしかないだろう。
いまや国際的巨大企業の力は、中小国家を凌ぐほど強大化している。ヘッジファンドなどの投機家の資金力は、国際経済に影響を与えるほど怪物と化した。金融市場は、続々とデリバティブやオプションを発明していき、新しい金融商品は爆発的なキャピタルフローを生み出す。それに通信コストやコンピュータ処理の低コスト化が輪をかけ、もはや政府は海外投資に規制をかけることもできない。
しかし、増え続けたのはポートフォリオ投資だけではない。80年代あたりから、企業は生産拠点をより効率のいい場所に移し、前例のないペースでグループ企業が設立された。
本書は、最大規模の多国籍企業100社で、グローバルな外国資産の約20%を支配していると指摘している。最大規模の多国籍企業6社のそれぞれの年間売上は1110億から1260億ドル。GDPで上回るのは21か国に過ぎないという。ウォルマートは、ポーランド、チェコ、ウクライナ、ハンガリー、ルーマニア、スロバキアを含むほとんどの中央ヨーロッパ、東ヨーロッパ諸国よりも収入が多いそうな。この傾向は21世紀になっても衰えず、多国籍企業は合併を繰り返す。そして、政治と癒着し、選挙とはまったく無関係に国家を乗っ取るほどの力を発揮する。各国はIMFや世界銀行に門戸開放政策を押し付けられたが、利益を得たのは多国籍企業だけではない。多国籍企業が進出した相手国政府と腐敗した役人、外国企業に就職できた幸運な人々などがいる。
本書は、第三世界では売国奴となりさがる政治屋が蔓延り、不正行為に慣れっこになったと指摘している。政治屋は、選挙資金を盾にこのゲームに積極的に参加したというわけか。正義、公正、権利、環境、さらに国家安全の問題でさえ、なおざりにされたという。
自国の企業利益が絡めば、軍事独裁国家や人権侵害国家ですら援助し、もはや民主国家の誇りすら感じられない。ここには、経済が政治よりも重んじられ、市民は単なる消費者とみなされ、人権など無視される実態がある。しかし、企業に道徳観念がないわけでもないという。社会的責任、持続しうる経済循環、環境への配慮などを訴えるのは、むしろ政府の大臣よりも企業のCEOであろうという。政治家は、企業の暴走を抑制するというよりは、むしろ助長する側にいるのかもしれない。
3. 最後のシャングリラ?
人口約60万のブータン王国は、最後の独立ヒマラヤ公国で、チベットとインドの間に位置する。一人当たりの所得550ドルといえば貧困国とされるが、この数字だけでは誤解を招きそうだ。国民の85%が自給自足農業に従事し交換取引が当たり前だから、衣食足りてホームレスがほとんどいないそうな。成功は、環境、倫理、精神の発展に基づいて決定され、道徳性と教養は物質的富にまさるとされる。入国する旅行者は6000人(1998年)と少なく、旅行客の一人一人に行動規範が渡されるらしい。チップを渡さないこと、現地の子供たちに物を与えないなどは、物乞いをさせないためだとか。商業施設や宿泊施設も、環境破壊につながるとして建てられない。ブータンの仏教はエコロジーを重んじるそうな。
C・ドルジ計画相の言葉が紹介される。
「わが国は、何でも現代的なものを無批判に受け入れる、ということはしません。過去に発展の道を歩んだ人たちの経験に頼り、私たちの能力と必要にふさわしい足取りで、じっくり現代化に取り組むつもりです。そうしてわが国の文化、伝統、価値体系と制度を持っています。」
しかし、グローバリズムの波はこの国にも及んでいるようだ。バスケットは国技となり、NBAが人気を博すという。インターネットも普及し、農家は農作物を売り外貨を得ているという。シャングリ・ラのような価値観を持った国は、ごく少数派として俗世間から隔離しないと実現できないのだろうか?ジェームズ・ヒルトンの小説のように、250歳ぐらいまで生きないと到達できない価値観なのか?
4. 産業スパイ
1947年、ソ連を監視するために米英の諜報機関が組んで「エシュロン」を組織した。後に英語圏のカナダ、オーストラリア、ニュージーランドが加わる。
しかし、ソ連崩壊後も電子機器を使ったエシュロンの監視は続く。自由主義を脅かす国に向けられるのではなく、米英の同盟国の事業を傍受する商業活動に変貌したという。あらゆる通信が傍受され、他国の企業活動の情報を自国企業に流していた。この驚愕な事実が表面化したのは2000年。機密扱いを解かれたアメリカの防衛関連文書がインターネットに公表された。政府が営利目的で動けば、企業は政治資金を差し出すであろう。ドイツでは発明や開発計画が盗まれたことが明るみとなり、その損失は年間100億ドルに上るという試算もあるとか。もちろん日本企業も餌食にされ、東南アジアで受注されるはずの契約がアメリカ企業にかすめ取られたという。クリントン大統領は産業スパイもCIAの任務だと明言したという。
「ボーイングにとってよいことは、アメリカにとってもよいことだ。」
そもそも、産業スパイを企てない国の方が珍しい。欧州連合の報告書は、フランスとドイツが共同して、北米と南米の双方を盗聴していることを明らかにしたという。中国は海外留学生と科学者に商業的機密を本国に回すように奨励しており、日本は産業スパイの達人だという。かつて総合商社が、日本企業の情報戦略として機能したことも確かであろう。そうでなければ、政治が三流でありながら経済大国にまで伸し上がった理由が説明できない。しかし現在は、海外勤務を拒む商社マンが多いという噂を耳にする。
5. カネがなければ選挙にならない!
「贅沢な資金が手に入る人しか立候補できないのに、どうして自由で公平な選挙ができるだろうか。」
政治家は、優秀なコンサルタントや、マーケティング、マネジメントのプロを雇い、効果的なメディア戦略を練る。アドバイザーや広告業者は、政治家よりも有名となる。いまでは、政治屋がバラエティ番組に出演して選挙運動をするといった現象まである。政治理念の相違点がはっきりしなければ、単純に資金力の差がものをいう。そして、企業にとって良い投資先となる。税制においても、政治家にとって必ず有利な方向に働き、継続的な癒着をもたらす。この論理からすれば、政治は腐るしかないではないか。
対して、企業側もうかうかとはできない。政治資金を提供しなければ、すぐにでも独占問題で非難の的にされる。実際、アメリカ政府がマイクロソフトの独占を問題視したのは、ビル・ゲイツがしかるべき時期に政治献金をせず、時流に乗ったロビー活動にも参加しなかったことが原因だと言われる。なるほど、ある業界に有利な法案が通る時は、その方面から多額な企業献金がなされたと思えばよさそうだ。かつて煙草産業の宣伝広告塔とされたF1マシンだが、F1界の実力者バーニー・エクレストンが献金すれば、イギリスは煙草企業による自動車レースの後援に反対しなくなった。政治献金の方法は、どこの国でも法律すれすれのグレーゾーンで行われる。そして、怠ればスキャンダル沙汰かい。
6. 消費者運動
「多国籍企業の間では政府は弱い、国民国家はもはや世界における力の中心ではない、政治家にはもはや企業をリードできず、企業のほうが政治家にできることとできないことを教えているのだ -- こう思った今では、もう政治家に働きかけるのをやめている。その代わり、新たな政治的権力、企業に対してストレートに動こうとする人々が増えている。」
政治的行動を起こすために最も効果的なやり方は、スーパーマーケットや株主総会で直接意思表示することだという。民主的先進国では、人々は投票する代わりに買い物をする。そして、非倫理的企業に抗議するには、企業イメージを非難し、その製品を買わないことだと。ただ安いからといって飛びつく消費行動が民主主義を崩壊させるというわけだが、生活が苦しければ誘導することも難しい。それに、民衆が企業情報をいかに正確に入手できるかにもかかっている。となれば、そこで暗躍できるのがメディアということになる。民主主義社会では、メディア支配の社会になりやすい。
「ニュースの消費者として、他の業界を監視するようにメディアを監視することは不可能だ。メディアが独立した外部の力に対して説明する責任を負わなければ、民主主義の死活にかかわる報道の自立性が危険にさらされることになる。」
政治や企業にとって、主要なジャーナリストと仲よくなるのが効果的というわけか。報道倫理に関する委員会なるものが、どこまで第三者機関として機能するだろうか?検証機関というものは、世論の非難を避けるために組織され、政治力が思いっきり働いて弱い者いじめをする傾向がある。伝統的なメディア、政府、企業、シンクタンク、研究機関から提供される情報と誤報が錯綜する中、消費者にとって新たな情報源が必要であろう。NGOや圧力団体の活躍に頼るのも一つの方法であろうが、彼らもまた暴走する可能性がある。民主主義の根幹は、情報の信頼性と透明性ということになろうが、あまり透明過ぎても国家戦略が機能しない。
近年、情報漏洩や内部告発が頻繁に起こるのは、社会への不満と無関係ではあるまい。警察が機能しなければ自警団が組織されるが、社会が機能しなければ民衆的な自主運動が盛り上がるというわけか。
7. 大慈善家でも知られるソロス
ジョージ・ソロスといえば、「イングランド銀行を破産させた男」として有名な大投資家。むかーし、この有名人の伝記的物語を読んだ時、金融界のデリバティブ商品に問題があると指摘していたことに共感した。ソロスは、ポンドがヨーロッパの為替相場メカニズム(ERM)から脱退することに賭け、見事に10億ドルの利益を稼いだ。結局、イギリスはポンドを切り下げてERMからの脱退を余儀なくされた。いわゆるブラックウェンズデー(1992.9.16)である。結果的に、ソロスはポンドをERMから解放し、慢性化したイギリス経済に回復のチャンスを与えたという見方が多い。実際、ソロスがハイリスクで得た資金は慈善寄付へと流れているという。また、ドラッグ規制からセルビア人の攻撃に対するサラエボ防衛まで、アメリカ政府がためらった分野で高邁なプロジェクトを次々と立ち上げたという。その活躍ぶりは称賛と非難の両方に及ぶ。
ソロスはハンガリーで育った。彼の父はユダヤ人弁護士だが、一家はキリスト教徒を装って強制収容所送りを免れたという。大戦後、共産主義国で過ごした後にロンドンへ渡り、哲学者カール・ポパーの「開かれた社会」という概念に感化されたという。彼は、アービトラージ(裁定取引)の達人となり、ヘッジファンドのプロとして開化する。
しかし、1970年代後半から金儲け以外のことに目を向けたという。結婚が破綻し家族を顧みなかったことに気づき、まもなく自責の念と羞恥心が大きな位置づけとなり寄付活動を始める。1980年代、ハンガリー全土にコピー機を供給したのは、コミュニケーションを促進して検閲を難しくすることで、民主化運動を直接支援するためだったという。更に、共産圏から民主化のために欧米に働きかけたが、それは実らなかったらしい。ナチスと共産主義を生き抜いた経験が、民主化への情熱を掻き立てたようだ。
しかし、アメリカでは「過剰な個人主義」と非難される。ソロスは「制限のない市場資本主義は共産主義と同様、オープン・ソサエティにダメージを与えうる」と警告したという。
2011-10-02
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