2011-10-09

"禁断の市場" Benoit B. Mandelbrot & Richard L. Hudson 著

フラクタルの父と呼ばれるベノワ・マンデルブロ氏。彼が亡くなったと大々的に報じられたのは一年前のこと(2010.10)。実は、彼の著書「フラクタル幾何学」を探していたのだが...まぁいい、人生行き当たりばったりよ!
マンデルブロ氏は、インタビューで経済学者を名乗り、金融工学は科学的に未熟で、過信すればすぐに破綻すると指摘した。そぅ、偉大な数学者が経済学に殴り込みをかけたのだ。その予想は的中し、世界はリーマンショックを皮切りに金融危機を経験することになる。1929年の世界恐慌以来、おそらく経済危機の伝統は受け継がれていくだろう。いまだ人類は、市場という複雑系を科学的に解明できるほどの有効な分析ツールを見つけられないでいる。せめて最大リスクを回避するための手段はないものか?本書は、まさしくその手段を提唱する。

ここで、古いジョークを一つ。
技術者と物理学者と経済学者が、海で遭難しましたとさ。
やっと辿り着いた無人島は砂ばかりで、食べられる物といえば豆の缶詰一つだけ。さて三人の意見は?技術者は石で缶に穴を開けて豆を取り出そうと言った。物理学者は缶を太陽熱で膨張させて破裂させようと言った。そして経済学者は、考えた末に「まず、我々が缶切りを持っていると仮定しようじゃないか...」と語り始めた。

運の委ね方にもいろいろあろう。確率論もその一つだが、賭けるものが大きくなれば客観的な視点は失われる。経済人には最大利潤を求める価値観があるが、その根底に安全運用という思考が働かなければギャンブル性を高める。企業家は従業員の生活に責任を負い、真っ先に倒産のリスクを計算する。一方、金融屋はわざわざリスクを複雑にして、世間を欺瞞する金融商品を続出させる。金融理論では、グローバル市場における暴落の可能性を過少評価し、専門家よりも一般の人々の方が危険性を直観的に感じているように映る。
金融理論が金儲けのツールとしてほとんど役に立たないことは、過去の市場経済が証明してきた。しかし、ちょいと視点を変えてリスク管理ツールとして眺めれば、そこそこ活用できることも確かだ。市場価格の分析では、絶対価格を追い求めるよりボラティリティを観察する方がずっと現実的であろう。それは、相対的な価値観にしか到達できない知的生命体の宿命であろうか。はたして、市場を完全に理解するということが、どれほど現実味を帯びているのだろうか?
数学者コルモゴロフ曰く、「サイコロを振るような過程でも、集合として全体を見ると、本当に美しい法則がある。そのような法則から生じる運を見積もることに、確率論の存在価値がある。」
政治や経済の最も重要な役割は、好景気に導いてみんなを裕福にすることではない。いかに経済的危機を避けるか、いかに耐え難い格差を抑制し基本的人権を守るかである。したがって、その視点はリスク管理にかかっているはず。一時的に景気を煽ったところで、その反動で不況の波が必ずやってくる。瞬間的に誘導した資本の流れは、経済循環に歪を生じさせるだろう。ある産業で景気を良くしようと企てたところで、別の産業にシワ寄せがくるだろう。それが経済サイクルというものである。

あらゆる現象を分析する上で、統計学の果たす役割は大きい。だが、数学の中でも少々異質に見え、肌が合わない。それは、いかに分布モデルに当て嵌めるかということに囚われ過ぎるように映るからである。ド素人感覚で言うならば、関数の直交性や対称性から地道に解析すればいいのに...と思うのだが、おそらく複雑系を相手取るような分野では、なんらかの法則や型に嵌め込んで近似する方が現実的なのだろう。そのアプローチでは、まず正規分布を仮定するのが一般的で、平均値や分散だけで統計モデルを決定しようと考える。そこで必ず例題として用いられるのが、学業成績や身長分布である。確かに、最も単純なところからモデリングするのが筋道であろう。しかし、自然界を眺めると正規分布をする方が珍しい。
そもそも「正規」ってなんだ?身近な現象では、突風のゆらぎ、金属の断面のギザギザ、凸凹した海岸線、地震の揺れなど... 物理現象では、ブラウン運動、熱伝導、フリッカー雑音、太陽黒点の変動など... ほとんど変則的で乱流的な性質を持っている。乱流の間欠性は、物理学では空洞実験などで古くから知られており、むしろ、ランダム性の方が「正規」と呼ぶに相応しいのではないか。経済学においても、伝統的に正規分布を仮定したモデルで金融理論を構築してきた。だが、市場経済もまたランダムウォークしやがる。おまけに、自然現象だけでなく、人間の思惑まで絡むという複雑怪奇!
そこで、フラクタルの登場だ!それは、図形の部分が全体と自己相似形になっているような幾何学的概念である。マンデルブロ氏は、人類にとって絶望的とも思える複雑系の中にフラクタルという法則性を見出した。根底の考えには「ベキ分布」があり、そのスケールは想定外で発生することを盛り込む。ちなみに、ベキ分布とは分布関数がベキ乗則に従うようなやつだ。正規分布では平均所得層が最も多いことになるが、ベキ分布では多くの富がほんの少数の富裕層に集中することが説明できる。
その分析方法は極めて単純だ。図形の部分と全体が相似形になる基本パターンを抽出し、そのパターンも数か所の点を持つ折れ線グラフを用意するだけ。あとは、パターン図形の拡大縮小率や縦横比率を調整したり、反転や左右対称などの幾何学的操作と組み合わせて近似する。これが「マルチフラクタル」の概念である。単純とはいえ、折れ線グラフは傾きや折れ曲がる場所をパラメータとするだけで無限のパターンが生成できるので、実際にはそう簡単にモデルを決定することはできないだろう。
カオス理論は、数値シミュレーションで想定した値にほんの少し誤差があるだけで、結果が大きく変わることを教えてくれる。この思考方法は微分に似ている。最も単純な折れ線グラフは三角形であるが、三角形で微分しているようなイメージだ。したがって、統計学というよりは解析学に近い、いや!幾何学と解析学の融合と言った方がいいかもしれない。自己相似性を用いて解析するとは、総体としての自己を根源的な自己で見つめ直すということに通じるような...自然法則が無限循環論に嵌り自己矛盾に陥るとすれば、これは自然学的な発想なのかもしれない。ちなみに、フラクタルという名のカクテルがあってもよさそう...酔えば酔うほどフラフラくたる...ランダムウォークとは千鳥足のようなものよ!

1. 異端の科学者
マンデルブロ氏はユダヤ人の家庭に生まれ、戦争体験から派閥に属さず独自路線を歩んできたという。プリンストン高等研究所では、フォン・ノイマンの最後の教え子となる。その後、IBMのトーマス・J・ワトソン研究所に勤務し、コンピュータの通信エラーの統計解析を行う。ついでに、社長の依頼で株式市場の価格変動を解析したという。1962年、金融工学の標準的モデルを否定する論文を発表し、正統派経済学と真っ向から対立する。
「経済学は流行りすたりのある学問分野です。自然科学でも似たようなところはあるのですが、特にこの学問のなかでは何が正しいのか、どんな研究が博士論文に値するのかについては、多数の合意、あるいは流行で決められる傾向があります。」
マンデルブロは、経済分析にベキ分布を取り入れた最初の人物だそうな。価格分布でファット・テールと呼ばれる長い裾野があるという考えは、今では広く受け入れられる。彼の提唱したベキ分布の理論は、安定分布、パレート分布、レヴィ分布、レヴィ=マンデルブロ分布など、様々な名で呼ばれるという。非整数ブラウン運動という確率過程と、その根底にある非整数階の微積分という概念も、近年、計量経済学の技術として用いられるという。また、市場がいかにバブルを生み出すかを定量モデル化しているという。後の研究者の手柄にされているようだけど...
彼は、マルチフラクタル・モデルを提唱し、「経済物理学」という新たな分野を切り開いた。そして、経済学の影の功労者として殿堂入りするに相応しい人物だという。

2. フラクタル幾何学
その名称は、「分解された」、「壊された」を意味するラテン語を元にした造語だそうな。例えば、樹木の枝やカリフラワーの小房、川の分岐などは、自然界に存在するフラクタルの代表である。
フラクタル幾何学では、ランダム性を単純な方からマイルド、スロー、ワイルドの三状態で分類するという。従来の金融理論では、単純なマイルド型が想定されている。それはコイン投げの確率と同じモデルである。確かに、コインを投げて表と裏が出るグラフを作成しても、株価チャートと見分けがつかないような傾向が見られる。本書は、実際の市場は最も複雑なワイルド型であると指摘している。マイルド型では一人の人間が歴史に影響を及ぼすことはないが、ワイルド型ではたった一人が歴史を大きく変える可能性があるという。そして、ホワイト・ノイズや熱エネルギーによる電子の動きは比較的予測可能でマイルド型、コンピュータの通信エラーや1/fノイズはワイルド型だとしている。
フラクタル幾何学では、全体と部分で繰り返しの構造に注目するので、分析と統合が同時に行われるという。基本は、イニシエータ、ジェネレータ、代入の規則、この三つがセットになってフラクタルのコードが構成される。最も単純なフラクタルは、ユークリッド幾何学の基本図形から出発する。三角形、直線、球がイニシエータで、フラクタルを作るための雛形になる単純な幾何学パターンがジェネレータである。どの方向にも同じスケールで拡大や縮小をすると元の形が現れる。この性質が自己相似性だ。ジェネレータはいくつか用意しておき、使う順番を乱数で決めたりする。
しかし、価格変動モデルでは、縦軸が価格で横軸は時間を表しそれぞれの性質は異なるので、縦軸と横軸の拡大率を変えないと同じ形が見えてこない。このような軸方向性を持つような相似性を「自己アフィン」と呼ぶそうな。更に、基本パターンごとに拡大縮小率を変え、左右対称、上下対称、スケールの相似といった組み合わせでマルチフラクタルを形成していく。

3. マルチフラクタル・モデル
市場予測では時間を横軸とするのが普通である。注目すべきは、物理時間と精神時間を区別して導入しているところである。ニュースが飛び交って売買注文が殺到する時もあれば、際立ったニュースもなく穏やかな時もある。そこで、一定に刻まれる物理時間ではなく、取引活動に基づいた「トレーディング時間」を想定する。時間方向と価格変動方向を分解するようなモデルを導入するわけだ。
フラクタルでは全体を一定の割合で縮小すると部分が再現できるのに対して、マルチフラクタルでは一つのパターンの中に複数の拡大縮小の特性を持っている。また、二つのパターンの特性を引き継ぐようなパターンをデザインすることもできるという。本書は、父親パターンと母親パターンから、それぞれの特徴を引き継いだ子供パターンの幾何学的な作図法を紹介している。これは感動ものだ!
母親パターンには物理時間を横軸にしたランダムウォークを用意し、父親パターンにはトレーディング時間に変換したランダムウォークを用意する。そして、その二つの特性を融合したマルチフラクタルが得られるという寸法だ。ここでは、フラクタル市場の立方体までが紹介されるが、次元は好きなだけ増やすことができそうだ。
時間の伸び縮みの処理方法は、数学的には「乗算カスケード」と呼ばれるそうな。ここでは、金鉱石を産出する地域の解像度を次第に上げていくようなイメージが紹介されるが、ウェーブレット変換に似ている。ウェーブレット変換は、思いっきり単純な関数の直交性を利用して成分を分解する。フーリエ変換にしても、正弦波と余弦波の直交性を利用して成分を分解する。なるほど、思考の原理は同じかぁ。ただ、マルチフラクタルは、幾何学的に何次元でも拡張できそうな予感がする。
更に、複雑系の現象として、突然現れる危機的な現象と、周期的に見える長時間相関の二つの激動の形を考察している。価格の大きな変動が一度現れると、ある程度持続する傾向もあれば、同じ方向の変動が単純に続くこともある。あるいは、それらの傾向が突然止まることもあれば、変動が逆向きになることもある。過去の事象が長時間相関の記憶効果によって、どの程度影響を与えるのかはまるで気まぐれだ。
そこで、この二つの形を検証する手段として、ハースト指数(H)と指数アルファ(α)を紹介してくれる。Hは、0から1の値をとり、0.5より大きければ持続性を示し、0.5より小さければ持続性を示さない。αは、値が低い時は突然の変動を起こす可能性があり、値が高い時は標準モデルに近い振る舞いをする。Hはトレンド性が見えやすくなり、αは市場リスクが見えやすくなるというわけか。

4. 凸凹とフラクタル次元
100年ほど前、リチャードソンという研究者は国境線の長さの矛盾を指摘したという。スペインとポルトガルの国境線の長さは、スペイン側は987km、ポルトガル側は1214kmとしているそうな。オランダとベルギーの国境線の長さも、オランダ側は380km、ベルギー側は449kmとしているそうな。正確な微分ができなければ近似するしかないわけだが、基準の物差しを短くすると海岸線の長さがどんどん長くなる。
この現象を特徴づけるために導入されたのが、「フラクタル次元」だという。直線ならばフラクタル次元は1となる。しかし、イギリスの海岸線は1.25、オーストラリアの海岸線ではもう少し滑らかで1.13、南アフリカの海岸線は1.02、といった具合に半端な数字になる。分岐を繰り返す気管支の先に広がる肺胞の表面積は、テニスコート一面分もあり、肺の表面のフラクタル次元は3に近い値になるという。肺の中の気道はきわめて入り組んでいて、ほとんど3次元空間を埋め尽くすというわけか。
フラクタル次元とは、図形の凸凹の様子を定量化する量ということになる。そして、あらゆるランダム性をフラクタル次元で表すことができるかもしれない。音楽や絵画や...精神も...

5. 金融理論も捨てたもんじゃない!
本書は、正統派金融工学が生み出した三つの理論の優れた点を考察している。それは、CAPM(資本資産価格モデル)、MPT(現代ポートフォリオ理論)、ブラック=ショールズの公式である。これらは、経営学修士(MBA)を取得するのに必須科目だという。
銘柄ごとに平均と分散などのグラフを描けば、リスクの高い銘柄と低い銘柄が見えてくる。そして、リスクとリターンの按配から、好みの銘柄を集めて独自のポートフォリオが作成できる。この概念は分かりやすく、投資をする上でまず勉強するところであろう。株式だけでなく債券や為替などを盛り込むこともできる。
CAPMは、ポートフォリオ理論を単純化したもので、株式指数型投資信託の概念を生んだ。
更に、ブラック=ショールズの公式の登場で、市場と同様にオプション価格を随時計算できるようになった。金融派生商品の価格づけに現れる確率微分方程式を編み出し、リスクに値段を付ける仕掛けを作ったわけだ。これらの理論が、投資をギャンブル性から工学へと持ち込んだ。フラクタル分析は、このあたりの理論の発展形と捉えることもできそうだ。
ところで、リスク管理のために世界中の銀行で使われるVaR理論というものがある。それは本当に機能しているのか?まさか、みんなが同じリスク管理思考に陥っているから、一斉に金融危機として現れるということはないよなぁ?BIS規定のような国際基準を設けるのもいいが、リスク分散には多様性に鍵があるような気がするけど。重要なのは規定ではなく、運用状態の情報の透明性である。危険な運用者がいたとしても、まともに情報が開示がされていれば、金利が上昇するだけのこと。市場には危険を好むギャンブラーが多いのも事実であり、彼らを単純に否定することもできまい。金融機関がいかに安全運用しているか、その努力で競争の原理が働くように誘導しなければ、規定は言い訳にされるだけであろう。

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