2012-02-12

"ヒトラーの共犯者 12人の側近たち(下)" Guido Knopp 著

上巻では、幹部クラスの6名、ゲッペルス、ゲーリング、ヒムラー、ヘス、シュペーア、デーニッツを扱った。この下巻では、実行部隊の6名、アイヒマン、シーラッハ、ボルマン、リッベントロープ、フライスラー、メンゲレを扱う。
実行部隊ともなれば、さすがに凄まじいものがある。特に、医学が悪魔と手を結ぶと言語に絶する。トロイメライが素直に聴けなくなりそうな...

これは、狂気の虜になったサタンの弟子たちの物語である。いや、彼らがサタンを目覚めさせたのか。不正を正義と履き違え、やがては不正を行っているという感覚すら失う。人間が狼になるのに大した手間はかからないらしい。ナチ党は、大量殺害を民衆の洗脳だけでなく、事務的な役所仕事や法廷の後押しを加えて、効率的で合法的に処理する社会システムを構築した。ヒトラーが国家の機能をよく理解していたという意味では、感服せざるをえない。犯罪が国家レベルで遂行され、悪と正義の垣根が取り払われた時、誰もがその危険に曝される。このような環境下にあっても、自分は決して共犯者にならないと言い切れるだろうか?当時の日本も、戦争反対を口にするだけで非国民と罵られた。もちろん知っているからといって、望んでいることと同義ではない。だが、普通の人々の黙認が後押ししたのは間違いないだろう。21世紀の今ですら、多くのタブーとされる事実に目を背ける風潮がある。自分の生命が脅かされる風潮に逆らってまで意志を貫くことは難しい。
人間が人間性を放棄するとは、どういうことか?この残虐行為を上官の命令というだけで説明できるのか?信仰が暴走すると、人間はなんにでも手を染めることができるというのか?こうした疑問の答えに、ヒトラー崇拝思想の根源があるのだろう。だが、明確な答えが見つかりそうもない。そこには、信仰や思想や集団の暴走という恐ろしい傷跡が残されるだけだ。
「人間のもつ人間らしさというものは、脆いものであり、人間性だけに頼るのは軽率であろう。明確な規範をもち、人間性の豊かな社会を土台とする強い国家だけが、歴史のなかで正義から悪が生まれるのを効果的に防ぐことができる。」

終戦後、多くのナチ党員が南米に逃れた。アルゼンチン大統領フアン・ペロンをはじめとする南米の独裁者たちは、ナチ党の技術者や科学者を歓迎した。アルゼンチン初のジェット戦闘機の開発や、自動車産業の建設に貢献したのはドイツの技術者たちである。ペロンはナチの能率の良さを賞賛したという。わざわざナチの亡命者を迎えるための特別委員会を設置したほどに。イスラエル政府は、南米の独裁政府がナチ戦犯の引渡しに応じるとは最初から考えていなかった。戦犯の追求は、諜報機関モサドに委ねられた。
ところで、戦略的観点からすれば、ソ連侵攻によって両面戦争に踏み切るのは、誰の目にも愚かであろう。しかし、民族的観点からすれば、イギリスよりもスラブ系民族の抹殺の方が優先事項だった。アングロサクソン人も元を辿ればゲルマン系の種族だし。「我が闘争」の中心テーゼにもイギリスとの友好があるそうな。ヒトラーはイギリスとの軍事同盟を望み、両国で世界を二分割しようと持ちかけたという。だが、戦争屋チャーチルはドイツの横暴を許さなかった。すると、方針転換してイタリアや日本と同盟を結ぶことになるのだが、ナチ流民族観では東洋人も劣等種族に分類されるはず。もし、枢軸国側が勝利していたとしても、いずれ日本も主権略奪の対象になっていたのかもしれない。ヒトラーは天皇に殉ずる日本式信仰には好感を持っていたようだけど...

1. アドルフ・アイヒマン : 大量殺戮の簿記係
「アイヒマンという人物でもっとも薄気味悪いところは、彼が多くの人間と変わらない点であり、その多くの人間というのは倒錯者でもサディストでもなく、いまも昔もきわめて驚くほど正常だという点である。」
...ハンナ・アーレント
ユダヤ人根絶をライフワークにした男は、アルゼンチンに亡命し、裁きが下ったのは戦後10年以上経ってからである。その消息は推理小説のような経緯を辿る。アイヒマンは暴力に訴えるのではなく、事務机に座ったまま署名一つで何百万人もの死を確定させた。彼は、もし命令があれば、自分の父親でも殺すだろうと供述したという。
「数百人が死ねば天災だが、1万人が死ねば統計だ」
ユダヤ人担当課の課長は、ユダヤ人風の容貌で同志から「ジギ・アイヒマン」と呼ばれた。妻がチェコ人ということも中傷された。それだけに這い上がろうとする努力は並々ならぬものがある。政治的信念を持った人物でもなければ、もともと反ユダヤ主義者でもなかったという。親衛隊の諜報部に採用されると、フリーメイソン担当部からユダヤ人担当課に配置され、ユダヤ人の調査に没頭する。ヘブライ語を習得して、上官ラインハルト・ハイドリヒの許可を得て記者を装い聖地パレスチナへ出張し、テンプル騎士団の集落などを訪問する。そして、ユダヤ人の超専門家となって一目置かれるようになる。
ウィーンではユダヤ人退去の恐るべき効率化を図り、ハイドリヒはウィーン式モデルを帝国全体の模範として推奨した。プラハでも効率的にユダヤ人を退去させるが、移住先が枯渇すると「マダガスカル計画」を提案する。フランス領マダガスカル島に大量抑留させる計画だが、戦争中に何百万人も移送することは不可能である。なんらかの即効性のある手段が求められると、「最終的解決」へ踏み切る。東部ではまもなく処刑の処理能力が限界に達する。銃殺はあまりに野蛮で効率が悪い。そこで、ツィクロンBガスを用いる方法を考案する。「ユダヤ人浄化剤」と呼ばれたという。ハイドリヒは特別ゲットーを設置し、国際的赤十字の視察団を招いて、ユダヤ人の模範的入植地として紹介した。大庭園を飾りつけコンサートや演劇を催し、虐殺を音楽とダンスにすりかえるアイヒマンの演出は完璧だったという。しかし、実はアウシュヴィッツへの待合室だった。
1944年の春までに、既に500万人のユダヤ人が殺害されていたという。その頃、ホロコーストはヨーロッパ最大のユダヤ人居住区があったハンガリーにまで及ぶ。ユダヤ人狩りには、ハンガリー当局が驚くほど協力したという。アイヒマンが設置したユダヤ人評議会は、ユダヤ人名士の集まりで、すべての命令を報告する義務があった。そういう仕組を作ることで、ユダヤ人迫害をカムフラージュしたのだ。ユダヤ人評議会は、アイヒマンに名簿や組織化されたゲットーを提供した。そぅ、被害者側にも協力させていたわけだ。

2. バルドゥール・フォン・シーラッハ : ヒトラー・ユーゲントの司祭
国家社会主義信仰の祭司の役割を果たした男は、熱狂的な反ユダヤ主義者ではなかったという。第一次大戦の後遺症でドイツ国民が誇りを失っている時に、「わが闘争」をバイブルとして民族優位説に陶酔する。母はアメリカ人でウォール・ストリートの裕福な銀行家からの誘いもあったが、それを断ってヒトラーに魂を捧げた。
長期的な戦略を練るには青少年を感化するのが有効である。それをヒトラーに認めさせたのがシーラッハであろう。当初、学生運動に期待していなかったヒトラーは、学生の前で積極的に演説をするようになる。英雄になりたいという子供心をくすぐりながら無敵の民族を掲げ、600万人もの青少年組織を創り上げた。選挙運動にはこの青少年たちの人海戦術によって、何百万部のポスター、ビラ、パンフレットを作る。共産主義者や民主主義者との激しい抗争には、血気に逸る青少年たちが活躍する。命を落とす者もあったが、少年を殉教者として祭り上げ、犠牲的精神をヒトラー・ユーゲントの聖なる象徴とした。冒険好きな青少年たちは、統率された突撃隊(SA)の颯爽と行進する様に憧れる。学校も、まるでクラブ活動のように入会を奨励し仲間意識を煽る。
1936年、ヒトラーユーゲント法が成立すると、青少年全員の加入が義務づけられる。ヒトラー・ユーゲントは、怪物のように魔の手を広げ、学校、教会、家族といった既存の権威を圧倒した。労働者たちも子供の教育レベルに圧倒され感化されていく。自分は何者なのか?何をしているのか?などと考えるいとまも与えず、常に活動的な教育が徹底され、指導者の命令に黙って従うことが最高の価値とされた。君たちは国家の未来だ!青少年は「国家の青少年」に格上げされた。とはいっても、ヒトラーに好戦的な印象を与えるわけにはいかない。あくまでも看板は「平和への意志」である。少女は、総統に命を捧げる男子を産むことが至上命令とされる。
しかし、シーラッハは一部のユダヤ人を支援していたという。それも、表向きは反ユダヤ主義者を装わなければできないだろう。シーラッハ夫妻がオーバーザルツベルクの山荘を訪れた時、夫人がユダヤ人移送でショックを受けたことを話すと、ヒトラーは激怒したという。ナチ党の社会では、女が意見すれば馬鹿女と罵られる。シーラッハがオーバーザルツベルクの山荘を訪れるのは、これが最後となった。ようやくヒトラーの狂気に気づきはじめると、ゲーリングに権力を奪い取るように要請したという。だが、既にゲーリングは実質的に格下げされていた。シーラッハは、非人間であったのではなく、楽観主義者に過ぎないという。人間というものは、不都合な事実に無関心でいたいものであろう。多くの人がこのタイプに属すのではなかろうか。
「権力は悪である。かぎられた権力で満足できる人間はいない。それができるのは聖人だけであろう。」

3. マルティン・ボルマン : 総統の言葉で操る秘書長
ヒトラーが最後に「もっとも忠実な党員」と呼んだ男は、無名な突撃隊隊員から総統秘書長にまで出世した。独裁政権の中で立身出世しようと思えば、下に対して情け容赦せず、上に対して卑屈に追従すること。まさにこの男にはその資質があった。ヘスがイギリスへ渡ると、すべての権力を引き継ぎ、金庫番として実力を発揮する。熱心な管理者のおかげで、もはやナチ党の金庫で私服を肥やす者はいない。ちなみに、かつて一握りの私服を肥やす者がいたという。ゲーリングも、ゲッペルスも...
ナチ党幹部には珍しく権力をひけらかすこともない。控え目な策謀家は一枚も二枚も上だ。ヒトラーは怠惰な独裁者で、事務処理がわずらわしかったという。それだけに献身的で几帳面な部下が必要であった。ボルマンは、命令はもちろん、疑問であれ、なにげない一言であれ、委細構わずメモにする。ヒトラーのテーブルトークが残されるのも、この人物のおかげか。第三帝国で安全を保障してくれるものは、正義でもなければ法律でもなく、ひとえにヒトラーの言葉だった。命令はヒトラーの口で決まり、精神状態が少しでもバランスを欠けば、矛盾した命令が下されることになる。ボルマンのメモは、神の声となった。メモは大量のファイルとして保存され、いつでも取り出せるように整理していたので、必要に応じて適切な言葉を提示できる。戦局が悪化するとヒトラーはヒステリックになるが、昔の言葉を取り出して過去の意欲を思い出させてくれる。そのために、過去の妄想に憑かれていったのかもしれない。ヒトラーは、どんな側近にも一度は非難を浴びせているが、ボルマンにだけは一言も批判的な言葉を使っていないという。
「ボルマンに難癖をつける者は、わたしに難癖をつけているのと同じだ。そしてこの男に逆らう者は誰であれ、わたしは射殺命令を下す。」
ボルマンの強みは、自分を通さずにヒトラーに近づけないようにしたことだ。ヒトラーと会見するには、その理由を詳細にボルマンに報告しなければならない。ボルマンは、ヒトラーの個人情報をすべて把握していた。素性、過去、血縁関係、愛人など。他にも、党幹部から部下に至るまで、個人情報を嗅ぎ回った。ヒムラーといえども例外ではなく、総統にとって敵になるかもしれない可能性を疑い続けた。ヒムラーは、昔の恋人との間の子供の養育費などで金庫番の援助が必要だった。ボルマンはヒムラーの個人情報を隠した。ヒトラーは内縁関係を絶対に許さなかったと言われるので、恐喝していたようなものか。ちなみに、ボルマン自身にも愛人がいたが妻に黙認させた。
ボルマンは、多くの幹部に失脚を企てられたが、すべて諜報力で凌駕する。また、密かに情報網を張り巡らせ、暗殺事件「ヴァルキューレ」では最も早く陰謀を嗅ぎつけたという。総統司令部「ヴォルフスシャンツェ(狼の砦)」の電話隊の中にも、スパイを潜りこませていた。実行犯シュタウフェンベルク大佐がヴォルフスシャンツェを離れ、その午後ムッソーリに犯行現場を見せていた時、既に陸軍大将フリードリヒ・フロムが黒幕であることが判明していたという。フロムは暗殺失敗の電話連絡を受けると、関与を拒否したため、陰謀者たちに拘束され罪を逃れた。しかし、ボルマンはぎりぎりのところで死刑宣告に追い込んだという。

4. ヨアヒム・フォン・リッベントロープ : 手先となった外相
ヒトラーは、国外の疑惑を逸らすために、社交性のある上層階級の市民を必要とした。酒類販売商リッベントロープ邸で、ヒトラーの政権掌握が密談で合意される。まもなく、新参の部下リッベントロープは、外交政策の顧問に抜擢され、特別大使に任命される。リッベントロープには独自の政策理念があったが、なによりもヒトラーの希望を優先させた。ヒトラーに目をかけられれば、ナチ党内で厳しくみられる新参者の財産も身も保障される。さっそく親衛隊に入隊し、ヒムラーと命運をともにする。こういう人物がいるからこそ、ヒムラーがホロコーストを体系的に推進することができたという。
ヒトラーはリッベントロープをイギリス通だと思い込んでいたが、それは誤解だったようだ。ヒトラーはイギリスを反コミンテルン協定に引き入れたかったが、ロンドン大使リッベントロープのなすことは失態の連続だった。イギリス国王にはナチ式敬礼で顰蹙を買い、イギリスの政治家の大半に拒絶されることに。すると、今度は反イギリス政策をあからさまにし、イタリアや日本と同盟する方針を打ち出す。ヒトラーのシナリオでは、東側と西側の領土問題を解決した後に、ソビエトとの大規模な「生存圏拡大戦争」を始める予定だったという。だが、リッベントロープは、チェコ介入の段階でイギリスの軍事介入の可能性を恐れていた。結局、ズデーテン危機は、首相チェンバレンのドイツ初訪問によるミュンヘン協定によって戦争は避けられた。あるいは、イギリスの軍備はまだ整っていなかったのかもしれない。当面、イギリスよりも東方問題が優先されると、リッベントロープは独ソ不可侵条約をモロトフと結ぶ。しかし、ポーランド侵攻とともに、お役御免。戦争に突入すれば、必要なのは軍人であって外交官ではない。もやは存在感を示すには、ヒムラーのもとでホロコーストの推進役を務めるしかない。そして、親衛隊将校として、ユダヤ人迫害を外交面から支援した。
1942年、あの忌々しい「ヴァンゼー会議」では、15名の高官によって「最終的解決」が話し合われた。親衛隊大将ハイドリヒが招集した会議で、そのメンバーにアイヒマンもいる。だが、出席者のリストには、リッベントロープではなく代理人の名前があった。既に彼の能力は疑われていたらしい。

5. ローラント・フライスラー : 司法界を骨抜きにした死刑執行人
短気ですぐに声を張り上げ、気分屋で無愛想、虚栄心が強く傲岸、そして能力が抜群に高く、「狂乱のローラント」と呼ばれたという。民族裁判所の長官にとって、正義とはヒトラーそのもの。戦争の最終的勝利を疑っただけで、「国防力破壊工作」という罪名で死刑判決が下る。総統の陰口を一言でも発すれば処刑される。それが酒場であっても。法廷は背信者の絶滅が目的だった。しかし、親友のゲッペルスが法務大臣に推薦しても、ヒトラーには、あのボリシェヴィキ!と呼ばれる始末。フライスラーは、第一次大戦でソ連軍の捕虜となるが、収容所でうまく立ち回り人民委員になった。そのことがトラウマとなり、必死にヒトラーの忠実な信奉者であることを証明しようとした。だが、報われなかった。
フライスラーは、二面性を持っていたという。ふつうの刑事訴訟では冷静かつ判断力、責任感のある法律家だが、政治が絡むと我を忘れて熱をおびる。彼は法廷で論争を好んだという。法廷はデマゴーグとしての能力を発揮する絶好の場というわけか。ワイマール時代には、ナチ党員の小競り合いが事欠かせないので、ナチ党のおかかえ弁護士となる。ヒトラーが政権に就くと、手先となる法律が必要となる。突撃隊を合法的に後押しするなど、職権濫用の代名詞のような人物だ。
ところが、1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件が起こると、状況が変化する。ヒトラーは、軍部の反乱を軍事法廷ではなく、民族法廷に委ねた。表向きは、根深い陰謀を小グループの事件で終わらせて、国民の動揺を抑えたかったという。そして、ヒトラーが「一握りの一派の犯行」と演説したにもかかわらず、フライスラーは陰謀が多岐に渡ると大袈裟にしてしまう。総統直属の執行人になることで舞い上がってしまったのだ。そして、センセーションな公開裁判によって見せしめにしようとした。しかし、裁判官の荒れ狂う態度は、被告人たちの毅然とした態度の引立役となった。法廷で陸軍元帥エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベンは、ベルトとズボン吊りを取り上げられ、ズボンがずり落ちないように手で持っていなければならなかった。フライスラーは見苦しい!と皮肉って演出するが、逆に腰に手を置いて胸をはっているように映る。フライスラーは、長々とした罵詈雑言を浴びせ、聴衆を不快にさせる。法相ゲオルク・ティーラックは、自己抑制のできない裁判官の態度によって法廷の厳正さと品格が失われたと嘆いた。ヒムラーが裁判を公にしないように進言すると、ヒトラーも賛成したという。被告人を物笑いにするはずだった裁判は、フライスラー自身の名誉を傷つける結果となった。
1945年、法定から防空壕へ向かう途中、連合軍の爆撃で爆弾の破片を浴び裁判所前で死亡。最後の判決を下して24時間もたたないうちの出来事、その判決はヒトラー暗殺計画「ヴァルキューレ」の残党を裁いた死刑だったという。

6. ヨーゼフ・メンゲレ : アウシュヴィッツの死の天使
アウシュヴィッツの象徴的存在だが、その活動はヒトラーが聞いたことがなかったという想定さえ可能だという。ナチ党では、人類学と遺伝子学は、非アーリア人種が劣っていることを証明する学問だった。イデオロギーの基本教義である「無価値な生命」という妄想である。メンゲレは、フランクフルト大学の遺伝子生物学優生学帝国研究所の所長オトマール・フォン・フェルシュアー教授の助手として働く。そして、フェルシュアーがメンゲレをアウシュヴィッツへ送ることになる。人種研究にとって、被験者が無限に存在するのは夢のような環境というわけか。
「死の天使」と呼ばれた男の収容者を選別する光景は、白い手袋に柔らかい物腰、シューマンの「トロイメライ」を口ずさみ、右は生、左は死と手を傾ける。彼には粗野な行動がまったく見られなかったという。制服をきちんと着こなし、女性にもてる伊達男を気取る。女性の収容者には、メンゲレが魅力的に映ったことを、きまり悪そうに証言した者も少なくないという。
強制収容所のいたるところで、断種法や不妊手術など常軌を逸した実験が行われた。男性囚人の睾丸や女性囚人の卵巣に、強度のX線を照射し生殖能力を奪うなど。これらの実験はすべて人種イデオロギーのためで、安上がりで時間のかからない民族絶滅の手段の開発に力を入れた。しかし、メンゲレの実験は、他の場合と本質的に違っていて、特に双生児を対象にしていたという。親というものは、双子の子供を特に自慢するものらしい。メンゲレの目標は「超人」という最高の人種を創作することで、完全なアーリア人種を遺伝学的に作り出せると考えた。つまり、人間培養か。そのために双生児たちの、目の色や髪の毛の色を変える実験を行う。溶剤を頭皮に注射したり、目に色素を注入したり...クロロフォルム注射で双生児を殺害し、臓器を摘出、骨髄を移植、双子を背中で縫い合わて...
彼の特徴は、残虐さと人間に対する軽蔑を、洗練された優雅な立ち居振る舞いでカムフラージュしていたことだ。双子の子供たちを、車に乗せたり、お菓子を与えたり、おもちゃを与えたり...おじちゃんと呼ばれたという。その裏で子供をモルモットと呼ぶ。まるで人間動物園!犠牲者の苦痛を喜ぶサディスティックな殺人者ではなく、痛みにさほど関心をもたないシニカルな人物。彼自身は、殺人者というよりは研究者と思っていたようだ。科学を悪魔に仕立てたと言うに相応しい。メンゲレは、独自の双生児理論を展開して、遺伝子学の教科書に載ることを目指したという。
彼が有名になったのは、戦後であろうか。南米に逃れ死ぬまで刑事訴訟から逃れた。アルゼンチンからパラグアイへ、そして、アイヒマンが捕まったニュースが世界中をかけめぐるとブラジルへ逃亡し、1979年、海水浴中に心臓発作で死亡。一方、フェルシュアーはメンゲレから送られてきた実験サンプルや資料を破棄して、再びドイツでキャリアを築いたという。

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