2012-04-01

永遠の夢想郷発見!それはハーレムであったか!

本日3012年4月1日、鏡の向こうのサモトラケという島で一つの古代書が発見された。「泥酔論的対話」と題されるこの書には、有名な叙事詩家たちの問答が記されるという。

ヘシオドスは問うた... 死を運命付けられた者どもにとって、幸せとは何か?
ホメロスは答えた... そもそも生まれてこなければ、幸せであったろうに。
ヘシオドスは問うた... 生まれたからには仕方があるまい。
ホメロスは答えた... ならば、生まれてから一刻も早く地獄へ落ちることじゃ。
ヘシオドスは問うた... そう悲観せずとも、生きることで祝えることが何かあろう。
ホメロスは答えた... 美酒に酔い、美女に囲まれ、愉楽の極致を尽くすこと。そぅ、永遠の夢想郷ハーレムじゃ!ハーレムじゃ!
こうして、ヘシオドスはホメロスに帰依していった。だが、ホメロスが死に顔を曝すと、ゴージャスな夢が泡と消えちまったぜ!と愚痴ったとさ。

この対話篇の教訓は、幸せとは夢を見ている間だけということであろうか?夢が実現した瞬間から不幸が訪れる。そして、新たな夢を模索せずにはいられない。幸せとは麻薬中毒ごときものかもしれん。
精神を獲得した知的生命体は、思惟するように運命づけられる。思惟するからには絶えず悩みに襲われる。悩みは...避けても、避けても...やはり悩みならぬものが悩みとなる。まるで悩みの無限地獄!悩みがないことまで悩みにしてしまうのであれば、もはや救いようがない。
一方で、幸せとはあらゆる犠牲の上に成り立っている。裕福な社会を実現するために、目に入らない領域に餓死する社会を形成する。いまや経済格差なしに経済循環は成り立たない。不完全な遺伝子コピーのいたずらが、普通には生きられない人々を創出する。夭折の運命を背負う人、生命維持装置に頼るしかない人...どうしても避けられない量子論的確率に支配される人たちがいる。神はサイコロを振らない!というのは本当か?自然災害とは、まさに神のいたずらよ。「自然災害」という言葉も奇妙だ。自然は単なる変動現象に過ぎないのに、人間はこれを災いと解したり、神の怒りと解したりする。そのくせ自然の恵みには、自己の能力を認める。痴呆症や障害者を社会の隅っこに追いやり、親戚連中からも不幸のレッテルを貼られる。そうなると天災も人災となる。
いまや、孤独死も珍しくない。女優大原麗子が孤独死したと報じられたのはいつだったか。これほどの著名人までも。CMのフレーズ「すこし愛して、なが~く愛して!」は、なかなかの真理をついている。その証拠に、ハスキーな甘い声にイチコロよ。
孤独死を覚悟し、共同墓地に入ることを覚悟し、そんな覚悟と死ぬ瞬間まで葛藤する人たちがいる。そんな覚悟を自然に受け入れられる境地に達してこそ、何かが見えてくるのかもしれん。死して屍拾う者なし...
地球上の生命体において人類の繁殖だけは限りがない!なんてことはないだろう。極端な増殖は絶滅を早めるかもしれない。となれば、普通という価値もいずれ逆転するだろう。歴史を振り返れば、価値観が逆転することはよくある。幸せな家庭を自慢したところで、幸せな悩みを披露したところで、その裏で犠牲になっている人々の存在に誰しも気づかない。有徳者でさえ幸せの押し売りをする。善人なおもて往生をとぐ...とは、そういうことであろうか。そして、無神経なアル中ハイマーは、幸せを謳歌しながらますます口が悪くなるのであった...

人間社会では、愛こそが最高善の幸福へ導くものだとされる。あらゆる情念の中で愛だけが特別扱いされる。ヘシオドスは、エロス(愛)をガイア(大地)と同等、すなわちカオス(混沌)から生じた原初の神とした。主神ゼウスですらエロスに惑わされ、あらゆる美神と交わる。なるほど、雷オヤジよりも権威がありそうだ。神々の世界から現世の世界に移ってもなお、友愛者や博愛者どもが勢いづく。
しかしながら、愛は憎との関係から生じる。愛情劇が愛憎劇となるのに大して手間はかからない。人間は、本能的に人を愛し、物質を愛す。いや、肉欲や物欲の方がはるかに優勢か。ただ、愛にも様々な種類と段階がある。人間の愛は、なによりも自愛が優先される。実存論的な思考では、肉体である固体にはなんの意味もないとし、魂の不死を唱える。だが、そこに自愛が絡むと不老不死の媚薬を求める。
一方で、プラトンは、最高愛を具現する者を、知性や知識を愛し求める者、すなわち愛智者とした。修行僧たちは、あらゆる苦行を試しながら自ら肉体に試練を与え、精神の高まりを求める。日夜、見返りを求めず、知識を求める努力をするのも精神修行に似たり。となると、自虐に追い込むことで、自愛を悟ることができるのだろうか?
しかし、どんなに優れた知識を身に付けても、やはり判断を誤る。知識とは不思議なもので、深く知るほど分からなくなる。有識者どもは、それは考え過ぎ!と悩める子羊たちに助言を与える。それも一理ある。分かった気になるぐらいが、もっとも幸せであろうから。だが、考え過ぎとして思考を止めるのであれば、知識が知性へ昇華することは期待できない。
いくらリスクを嫌い、いくらギャンブル的な生き方を嫌っても、人生の方から次々に判断を迫ってくる。ギャンブルってやつは、勝てると自信を持っていても負ける場合がある。おまけに、負ける予感はほぼ確実に的中しやがる。それは、心のどこかでいつも不幸を想定している証しであろう。人生というギャンブルを生き抜くには、知性や知識を蓄えることをいつも心がけながらも、なお、自分の直観に頼るしかない。いわば、知性とは直観力を磨く術!ということになろうか。
たとえ人生の敗北者であっても、世間にそう言われようとも、永遠の夢までは誰にも否定できまい。では、永遠の夢とは何か?世間が言うように愛が最高善であるならば、愛を金で買うことこそ、最も有意義な金の使い方ということになる。酒に溺れ、女に溺れ、そして、自惚れる。どうして女たちは、こんなにも優しくしてくれるのか?世間が彼女らに冷たいからか?小悪魔たちが席を取り囲み、よってたかって、人見知りの強い、赤面した気の弱い男を、廃人へと誘なう。俗世間では快楽に耽ることもまた悪とされるが、永遠に続けば享楽地獄となる。怠惰に浸ったところで、すぐに退屈病に襲われる。苦痛は...避けても、避けても...やはり苦痛ならぬものが苦痛となる。愛にせよ、憎にせよ、怠惰にせよ、人間にとって持続とは最も縁遠きものかもしれん。凡人は享楽ですら挫折を繰り返す。天才の能力とは、持続する力であり、執念の力であろうか。
いや、凡庸未満の泥酔者にだって永遠に愛する自信はある。ただ、ちょいと対象が変わるだけのことよ。そこで、無理性なアル中ハイマーは純粋な平等主義を悟る。それは、ホットな女性の数だけ愛があるということさ。
おっと!例のごとく桜祭りの案内状が届いた。そして、知的なボディラインを求めて和服見学と洒落こむのであった...

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