2012-04-29

"公共哲学" Michael J. Sandel 著

ハーバード大学の人気講義「Justice」で話題になったマイケル・サンデル教授。有名大学の講義を一般公開するところに、アメリカという国の懐の深さを感じる。ちなみに、このシリーズは昨年NHKで放映され、録画したはいいがまだ見返していない。
講義の特徴は対話術にある。暗記教育に慣らされてきた日本人には、度肝を抜かれただろう。答えの見つかりそうもない絶望的な難題に立ち向かう術は、ソクラテス時代からの弁証法的議論が受け継がれる。多民族、多人種、多文化が混在する地域では価値観が多様化し、政治を行うにしても論理的な説明や説得を必要とする。ここに、民主主義や自由主義の根幹があるのだろう。
一方、単一民族国家では価値観も単一的で、異端的な意見は暗黙のうちに村八分にされる。この講義形式をサンデル教授自ら東大で開催したのは、政治的立場としていかに中立に議論するか?という問題を日本社会に投げかけているように思う。議論で最も重要なことは、意見を主張することではない。意見を聞き入れる寛容さである。とはいっても、これが最も難しい。民主的に議論すれば何もかも解決できるなどと甘いものではない。話し合えば分かち合えると信じる友愛型人間も少なくないが、知れば知るほど嫌いになる教義もあるはずだ。多様性を認めるということは、意見の好き嫌いが生じることも含めて認めるということであろう。間違っていると思えば、論理的に反論すればいいだけのこと。そして、互いの論理に耐えうる意見のみが生き残るだろう。多数決の原理は、互いの論理的議論が尽くされた時にやっと機能しはじめるのであって、感情論や慣習論に流されれば、たちまち危険なシステムとなろう。ヒトラーの大衆扇動術の原理がここにある。
民主主義社会でコマーシャリズムは絶対に避けられない。ニュース、教育、娯楽、そして政治に至るまで。アメリカでは、栄養学をマクドナルド提供の教材で学び、原油流出事故の影響をエクソン制作のビデオで学ぶ現実があるという。今日、どこの民主国家でも政治がエンターテインメント化している。手軽な美徳や癒し系の言葉が氾濫し、有権者を惹きつける。矛盾が自然法則であるならば、弁証法なる方法以外に、これに対処する方法があろうか?意見の不一致あるいは多様性が人間の善を反映しているとすれば、弁証法的アプローチによって公共的価値観なるものを見出そうとする。これがサンデル教授の目論見であろうか。

本書は、「公の場で哲学する」をテーマにした小論文集である。そこには、Affirmative action(積極的差別是正措置)、幇助自殺、妊娠中絶、同性愛、幹細胞研究と胚の倫理学、環境汚染権の売買、市場の道徳的限界...など豊富な話題で埋め尽くされる。まさに、宗教的、文化的、道徳的な価値観が複雑に絡む難題ばかり。
議論の展開では、まずトーマス・ジェファーソンまで遡って政治的伝統を概観しながらリベラリズムの源流を探る。そして、数々の難題から生じる矛盾を、ベンサムの功利主義とカントの人格道徳の対比、あるいはリバタリアンとコミュニタリアンの対立構図から、人類の普遍的価値なるものを公共的に迫ろうと試みる。
歴史を概観しながらリベラリズムの諸派を考察するあたりは、アメリカという国を理解する上でも役に立つ。それは、アメリカ社会が権利の主張という柱に支えられていることである。最低限の生活や基本的人権とはどこまでを言うのか?アメリカの政治はこうした議論を重ねてきた歴史の上に成り立っている。自由主義は宗教弾圧への反発として育まれてきたので、政治に宗教的道徳や信仰的道徳が干渉することを極端に嫌う傾向がある。そして、公共的理性よりも個人的権利が優先され、慢性的に権利の制限という問題を抱えている。例えば、国民皆保険の導入となると、なぜそこまで目くじらを立てるのか、あるいは、ちょっとした社会福祉的政策を持ちだそうものなら「アカ」と罵る光景は滑稽に映る。些細な公共性に自由の侵害と大袈裟に反応するのも、自由獲得で苦悩してきた歴史的執念からくるものであろうか。
また、サンデル教授の学問の系譜を辿ると、コミュニティや公共的自由を唱える立場から、ウィリアム・ペティやジョン・スチュアート・ミルに通ずるものを感じる。だからといって功利主義を擁護するわけではなく、むしろ功利主義に頼らなくても自由が説明できるという立場を表明している。そして、功利主義とカントの自然道徳を矛盾しない立場に置いている。それは、ジョン・ロールズの「正義論」を、カントの人格道徳の修正版だとして称賛していることからもうかがえる。ちと持ち上げ過ぎの感もあるけど。もっともロールズ自身は、カントの道徳観念から離れる立場だと主張したらしいが。リバタリアンとコミュニタリアンという二大派閥から眺めると後者に属すのだろうが、そう単純でもない。ちなみに、アル中ハイマーはリバタリアンに近いか?それでも本書に共感できるところが多い。いずれにせよ、何事も二分してどちらかに属させようとするのは悪い癖か。もっとも、ここで言うコミュニティとは、政治的な強制あるいは扇動された枠組みなどではなく、市民生活から自発的に生じる自律的な精神を育んだ集団単位と見るべきであろう。そして、公共的自由には自己の自律が前提されるということを付け加えておこう。その根底には、ソクラテスが説いた「善く生きる」という人生観がある。要するに、古代から人間精神はあまり進化していないということか、いや退化しているのかもしれん。ユーロ危機が皮肉にも哲学の聖地ギリシャに端を発っしたのは、民主政治が衆愚政治と化した結果であろうか...

1. 小さな政府 vs. 巨大企業
金持ち優遇政策はアメリカ個人主義の代名詞のように言われるが、その傾向は近年のものだという。昔から、中央政府が自己統治のための市民感覚を鈍らせる懸念はあったが、同時に企業の巨大化も懸念されていたようだ。ジェファーソンは、「ヴァージニア覚書」で大規模な製造業を育成することに反対したという。大規模の企業が無産階級を生み出し、共和主義的市民が自立を欠くことを懸念したとか。
「依存は従属と金銭的無節操を生み、美徳の芽を窒息させ、野心を満たすたくらみを準備させやすくする。」
そして、農村の生活様式が国民の美徳を養い、自己統治に適しているという価値観があったという。尚、大地を離れては生きられないという価値観は農耕民族的なものと考えられがちだが、ヘシオドスの時代から大地(ガイア)に神が宿るという思想がある。
経済の分散を提唱したルイス・D・ブランダイスは、分配的正義よりも自己統治を担う市民形成を重視したという。
「人間が進歩するためには、きちんとした食事をとり、きちんとした住まいに暮らすこと、きとんとした機会に教育を受け、レクリエーションをとることが必要不可欠である。こうしたものなくして、われわれは目標に達することができない。だが、それらをすべて手に入れてもなお、奴隷の国であるかもしれない。」
自由競争が独占やトラストを生むことを、歴史が既に証明している。そう、自由の果てに束縛があることを。結局、農村の意義を唱えるジェファーソンの考えが主流になることはなかった。だからといって、多額の政治献金が提供できる団体が権利を持つという論理にはならないだろう。諸悪の根源をレーガン主義に求めるのをよく見かけるが、本書もその例に漏れない。
アメリカのリベラリズムは、もともと理性的な自由主義から育まれたが、「主意主義的」な自由主義に変貌していったという。主意主義的とは、理性よりも意志を根本に置く立場だそうな。レーガンは、大きな政府を有害とし、経済には自由を認めた。しかし、巨大企業の暴走に対抗するには大きな政府が必要であり、小さな政府を唱えるなら経済も分散させる必要があると指摘している。かつて、大きな政府が唱えられた時代があった。セオドア・ルーズベルトのニューナショナリズムである。だが、それは巨大化する産業資本に対抗するためで、ジェファーソンと方法論が違っていても目的は同じだという。そこに登場したレーガンのニューフェデラリズム(新連邦主義)、すなわち地方分権構想は、近代の潮流によく合致する。しかし、地方分権の方法論を誤って経済とのパワーバランスを欠くと、巨大企業に権力を集中させることになり、建国以来の伝統的な権威とコミュニティまでも衰退させていく。経営者ですら実体が掴めないほど企業は無秩序に大規模化し、いまや多国籍企業が小国家を呑み込む勢いだ。そして、地域社会の自律性が損なわれる。リベラルも共和主義も元を辿れば、自治統治のための自立や自律に行き着くということか。

相互依存という機械的な事実があるだけでは、結局はなにも生まれない。
...社会事業家ジェーン・アダムズ

2. God-o-Meter
レーガンの政治的直感は天才的なものがあるらしい。アメリカの保守主義に孕む二つの矛盾を見事にまとめたという。それは、リバタリアンや自由放任主義を重視しながら、同時に伝統主義や宗教的道徳を重視したことである。国民に干渉しないと表明しながら、宗教的価値を表明して、妊娠中絶、ポルノ規制、公立学校での礼拝を復活させる。
このレーガン式選挙戦略は、ジョージ・W・ブッシュに受け継がれる。大統領就任演説や一般教書演説で、神を口にした頻度はレーガンを上回ったとか。彼ほど宗教的レトリックや聖書からの引用を演説に散りばめ、厚かましくこの戦術を用いた者はいないという。候補者たちの神への言及を追跡する「God-o-Meter」(beliefnet.com)なんてサイトが、2004年頃からあるそうな。大統領選は、神の恵みをめぐる論争で熾烈をきわめたというわけか。

3. JFK
ケネディの活動エネルギーを支持する人はいまだに根強い。それに変わる民主党政権がいまだ誕生しないからであろうか?犯罪に厳しい態度をとり道徳的エネルギーを見せるものの、権力の分散、つまりは小さな政府を支持し、福祉を批判したことでは民主党らしくないように思える。しかし、解釈が違っていたようだ。
彼は、管理政治を批判し、市民性やコミュニティのビジョンを打ち出したという。彼が福祉に反対したのは、貧困層への連邦政府の支出が、受給者の市民的能力を損なうことへの懸念からだったという。つまり、民衆を依存と貧困の奴隷にするという理由からだと。ケネディは、消費社会の恩恵に公平にあずかれるというだけではなく、市民が自己統治を分かち合うこと、個人が集団的運命を律する力の形成に参加することを要求したという。なんでも分配を権利に頼るのは危険である。実際、補助金漬けになって、自立できない企業や産業が少なくない。国が無闇に口を出して存在感を示すと、ろくなことにならない。それをケネディはよく心得ていたわけか。彼の言うコミュニティへの参加とは、労働への参加をうながす意図があるという。なるほど、これは民主党の福祉政策とは根本的に違うし、共和党の福祉批判ともまったく違うもののようだ。

4. 正義と善はどちらが優先か?
政治では、正義、公正、個人の権利が最も高い位置に置かれる。少なくとも建て前は。道徳が宗教や信仰から導かれるとすれば、それは極めて主観性の領域にあり、客観性を求める法律や制度とは相性が悪い。そして、実践の場では、正義は善よりも優先されることになろう。アリストテレスは、都市国家の尺度とその目的を善とした。カントは、法律を道徳の最後の砦であるとして、人間の究極の目的である善との間でジレンマを起こした。ミルは、正義を道徳全体の主要部分であるとし、功利主義の目的を正義に求めた。いずれにせよ、正義が善を行うための道具と化す矛盾にぶつかる。実際、政治家にとって法律が神様で、都合よく憲法と矛盾する法案を次から次に編み出しやがる。これで道徳をどこに求めるというのか?やはり政治と道徳は相性が悪いのか?義務を正義の基盤に据えたとしても絶望的か?
カントは、人間性を自然学に求め、芸術的感性のみが主体を進化させるとし、理性構築の過程を主観性で魅了した。対してジョン・ロールズは、カントの超越論的主体から「負荷なき自己」という客体へ進化させたという。彼は「原初状態」という概念を持ちだしたそうな。それは、いかなる特定の目的をも前提しない状態である。自分がどんな人間であるか、強いか弱いか、幸運か不運かを知らず、興味や目的も、善の概念すら知らない時に、社会を支配する原理としての自己がどんな原理を選ぶかを想像する。人間の普遍的原理に回帰するとでも言おうか。その原理で選択された結果こそが正義というわけだが、そうした人間の潜在的能力を善とする思考は古くからある。
さて、「負荷なき自己」とは、自分が持つもの、欲するもの、求めるものに対する自己のあり方であって、自分の持つ価値観と、自分がそうである人格が常に区別される状態だという。自分の持つ目的や属性よりも先立って存在する自己があるとでも言おうか。その意味では、カントの言うアプリオリな認識と似ているように思える。自分で自己を定義しようとすれば、自己から距離を置いた何かに頼る必要がある。つまり、客観性である。客観性を認識する自己となれば、それもまた主体ではないのか?ロールズは本当に客体に進化させているのか?
「人間性にとって最も本質的なのは、みずから選ぶ目的ではなく、目的を選ぶことの能力だ。...自己がその目的に優先して初めて、正は善に優先できる。」
確かに、自己を疑う人格、自己を見つめ直す人格、そうしたものの存在をなんとなく感じる。自由を認識できるということは、自律を実践できるということになろうか。ただ、こうした思考は、カントの自然学的判断力でも説明できそうな気がするけど。このあたりのカントの解釈が、おいらと違うところであろうか。

5. ジョン・ロールズの「正義論」
ロールズは、アメリカの最も偉大な政治哲学者だとして紹介される。その著書「正義論」は、ミル以来、リベラル派の政治原理を最も説得力をもって説明する作品だという。そこには、三つの重要な概念、個人の権利、社会契約、平等について展開されるという。社会で最も恵まれない人々を救うための格差是正、あるいは基本的人権こそが正義ということになろうか。とんでもない高収入を得られる人々が存在しうるのは、最下層の人々にも恩恵がある場合に限られる。これが格差原理だ。必ずしも格差を否定しているわけではない。それを否定すれば能力主義をも否定することになろう。能力とは、弱肉強食の世界ではないということだ。そして、機会均等という条件も付け加えられることになる。道徳的、信仰的信念が一致しない以上、それらをめぐる論争に中立の立場をとるのが政治的立場となろう。
正が善に優先する概念は、カントの道徳哲学を政治に応用した結果ではなく、民主主義社会に住む人々が善についてたいてい意見が合わないという事実への現実的な対策である。これが政治の正義、つまり実践の正義ということになろう。ただ、リベラリズムがカント的人格概念を放棄するわけではない。そこで、「負荷なき自己」の概念の登場である。つまりは、コミュニティで生きるための成員資格のようなもの、正義の原理を生み出す仮説的な社会契約のようなものが必要ということのようだ。ここでは、「理に適った多元主義の実現」と表現されるが、ロールズの思考は理想主義の感もある。
最高善が人間の潜在能力にあるとすれば、それは余計な知識を持たない人格、すなわち赤ん坊が既に持つ能力ということか?だとすると、政治は言葉のみを知る赤ん坊にさせるのが一番か?いや、言葉を知る時点で余計な知識を持っているのか?なるほど、神は沈黙しか教えてくれない。実は、人類の普遍的価値は、古代から繰り返される自由と平等、正義と善の論争によって既に証明されているのかもしれない。すなわち、対立構図の中でもがきながら、駆け引きしながらでしか生きられない愚かな生き物ということ。思想の自由あるいは行動の自由が本当に社会の理に適うかも分からず、これに優る手段を他に知らないだけのことかもしれん。
んー...ロールズをもってしても、俗世間の泥酔者は絶望論から解放されそうにない。そもそも、人間は精神の正体も知らないのに、具体的に正義の何が決められるというのか?

まず、最も望ましい生き方の本性を決める必要がある。それが曖昧なままであるうちは、理想の国制の本性もまた曖昧なままであるしかない。...アリストテレス

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