2012-04-22

"自由論" John Stuart Mill 著

功利主義といえば、ジェレミ・ベンサムの「最大多数の最大幸福」という言葉が有名か。ただ、広範な幸福を求める立場から極端な平等主義の印象を与えたり、多数決を崇める立場から少数派に犠牲を強いる印象を与えたりと、その解釈は様々である。ジョン・スチュアート・ミルも、19世紀を代表する功利主義者として知られる。父ジェームズ・ミルは哲学者としても知られ、ベンサムと交流があったそうな。息子ジョンの方はというと、21歳で精神の危機に陥り、人妻ハリエット・テイラーとの交際によって危機を脱したという。自由精神とは、心の束縛と対峙しながら、もがき苦しみ目覚めていくものであろうか。多感性が強いということは、人間性の素材が豊富なのだろう。感受性が強ければ、様々な感情を試すことができる。衝動の強いところに活力がみなぎり、無気力で無感動よりは新たな挑戦ができるはずだ。自律心や自制心もまた、感受性や衝動性の裏返しとして育まれるのであろう。したがって、自由主義が宗教的不寛容さの反発から生じても不思議はない。ちなみに、おいらは神様ってやつが嫌いだ!肝心な時に留守してやがるし、バチを当てやがるし、やりたい放題やりやがる。

自由!... これほど矛盾に満ちた言葉もあるまい。自由奔放に振る舞えば、誰かの自由を束縛する。そう、他人の犠牲によって成り立つ概念だ。一方で、自由競争によって自然淘汰される原理がある。自由な経済活動によって優れた製品を生み出し、自由に思考を競ってこそ優れた知性に達する。より洗練された精神へ導こうとすれば、必要な概念である。自由とは、我儘放蕩に運営すればこれほど品性を劣悪にするものはなく、節度ある運営をすれば高みにのぼる可能性がある。となれば、自由の権利は社会性においてどこまで許容できるのか?これが問われることになる。
本書の基本原理には、「危害原則」というものがある。すなわち、他人に危害を与えない限り自由であり、「自分でリスクを負担するかぎり」という条件を前提にしている。そして、社会が個人として適切に行使しうる権利の性質と限界が論じられる。言い換えれば、精神的自律や社会的責任をともなう自由ということになろうか。けして価値観の押し付けなどではなく、基本的人権や主権と深くかかわるものと思われる。
「人間が個人としてであれ、集団としてであれ、誰かの行動の自由に干渉するのが正当だといえるのは、自衛を目的とする場合だけである。文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だといえるのはただひとつ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである。本人にとって物質的か精神的に良いことだという点は、干渉が正当だとする理由にはならない。」

ところで、人間社会には、生まれながらにしてどこかの国に所属させられるという奇跡的なシステムがある。人は、生まれる地や生まれる国を自由に選べない。生まれる場所すら与えられない人もいる。つまり、人はまず不自由から経験することになる。だから、自由への憧れが生まれつき強いのだろうか?
一方で、人間社会には孤独を悪とする風潮がある。孤独死を不幸と規定し、仲間意識を異様に煽る。しかし、自由と孤独は相性が良い。偉大な思想や発明は孤独との戦いから生まれた。俗世間から隔離されたところから生まれた。洗練された精神は、孤独的な精神空間の方が育みやすいのだろう。
英雄的思考は、世間から受け入れられるまで異端とされる。異端者の強みは、自分の思考を論理性や正当性で武装しようとすることであろう。自説の無謬性を前提にすれば、議論そのものが成り立たなくなるのだから。反対意見を論駁するということは、反対意見をも熟知することになる。失敗のリスクを考慮すれば、多数派に属する方が責任逃れしやすいのも確かだけど。なにも多数派が悪いと言っているのではない。他人の意見に影響されることが悪いと言っているのでもない。むしろ影響されなければ、知識を得ることもできないだろう。意見を鵜呑みにするのではなく、必ず個人的に思考を試し、検証してみる必要があると言っているだけだ。大衆の舞台から個人の舞台へ移し再検討してみる、これだ。それは、自ら編みだした思考も例外ではない。あらゆる思考は常に検証の対象となる。破壊と創造の原理が自然法則だとすれば、イノベーションこそ自由の源泉となろう。そして、自己破壊を試みるために、ひとり夜の街をさまよい(小)悪魔に魂を売る。これぞ自由精神というものよ。

1. 自由と支配
歴史を振り返れば、自由は支配権力に対する反発から生じた。外敵に対抗するために支配権力の必要性が生じ、やがて国土防衛という目的から国家という枠組みが形成される。集団社会には、どこにでもハゲタカのような連中が寄生するもので、彼らを押さえつける猛者を必要とする。よって、王もまたハゲタカと同類となる。「毒を以て毒を制す」というのが、伝統的な政治の原理としてある。
したがって、法治国家では法が権利を制限する役割を果たし、その制限が社会的自由と結びつくことになる。民主国家では、国民の代表者が権力者となる。だが、それで権力の暴走が収まったわけではない。伝統的な王様と国民の対立は、権力者が既得権益者と癒着することによって国民と国民の対立へと変化し、身分階級は所得階級へと変化してきた。
更に、近代社会の特徴として情報の影響がある。あらゆる民主国家で政治がエンターテインメント化する傾向があり、かつて信仰の奴隷だった民衆はいまや情報の奴隷と化す。同質化や画一化は、なにも共産主義の専売特許ではない。民主主義にも潜在的な性質としてある。宣伝技術は支配技術と結びつき、権力はより巧妙となった。したがって、政治や報道ほど自由の自律性が求められる世界はない。報道屋が言論の自由を訴えるのは、高い理性の持ち主であることを自負しているからであろう。彼らは公共の電波を独占しながら、自由の範囲を自覚しているはず。ましてや政治的な思惑などあろうはずがない。なのに、大手マスコミが護送船団式で報道を繰り返すのはなぜ?言論の自由を訴えながら他人の発言を迫害するとは...
「人類の良識という観点ではじつに不幸なことだが、人間が間違いをおかしやすい事実は一般論としてはつねに認識されているが、具体的な問題を扱う際にははるかに軽視される。」

2. 多様性と寛容さ
本書が一貫して唱えていることは、思考の多様性と宗教的寛容さの重要性である。寛容さとは、アル中ハイマーにとって最も難しい課題であり、説教に聞こえてくるから困ったもんだ。
古代の雄弁家キケロは、自分の意見と変わらないほど熱心に論敵の意見を研究する習慣があったという。自説の根拠しか知らない者は、その問題についてほとんど何も知らないと指摘している。どんな世界にも保守派と革新派が存在するのは、ある意味健全なのだろう。自由と平等の間で論争が生じるのも自然であろうか。異端的な立場が思考の硬直化を防ぎ、伝統的な立場が選り抜かれた思考を受け継ぐ。真理とは、対立的な思考を調和しながら近づくものであろうか。とはいっても、凡人は意見の好き嫌いに囚われる。誰もが頑なに自らの正当性を主張する。異端派にしても、頑なに主流派を攻撃する場合が圧倒的に多い。反対論を自分で提起できなければ、信じるしかない。ただ、自説に自信を持つことが悪いとも言い切れない。答えがはっきりしなければ、信念を持って追求することも必要である。おそらく理性的な人には、自己に疑問を持ち続ける能力があるのだろう。
「ニュートンの自然哲学すら、疑問をさしはさむことが許されていなければ、われわれはその正しさをいまほど強く確信することはできなかったはずだ。」

3. 宗教の道徳と古代哲学への回帰
キリスト教の道徳は、反発と抵抗という性格をあらゆる面で具えているという。かなりの部分が不信心への抗議で成り立っているらしい。その本質は消極的な服従の教えであるという。気高さではなく罪を犯さないこと、美徳の追求ではなく悪徳の抑制といった受動的な精神を理想にすると。教義では、「何々をなすことなかれ!」が圧倒的に多く、「何々をなすべし!」というのが少なすぎるという。天国に行けるという欲望と地獄に堕ちるという脅迫によって動機が導かれるならば、個人主義の傾向を強めることになろう。禁欲主義への反動が自由主義経済を発展させたのかもしれない。
対して、イスラム教の道徳では、国家に対する義務が重視され過ぎるという。個人の正当な権利を侵害するほどに。キリスト教とイスラム教の対立構図は、個人主義と集団主義の対立という見方もできるわけか。
ちなみに、本書には東洋思想に対する蔑視が鏤められる。時代的背景からしても西欧中心主義が強い。それでも、西洋的な道徳が不完全であることは認めているし、キリスト教に対する皮肉も目立つ。特に不寛容とされるローマ・カトリック教会ですら、聖人の位を求める際に悪魔の代弁者を議論に加えて反対論を辛抱強く聞くという。悪魔が浴びせる言葉を聞くような寛容さがなければ、死後に聖人になるほどの栄誉は与えられないということらしい。
一方、カルヴァン派の教義では、自分の意見や感情を持たないことが、人間の望ましい状態だとしているという。義務を果たし、それ以外はやってはいけない。人間は神の意思に自分を委ねる以外の能力を必要としないわけか。人間がなしうる善はすべて神への服従にあるとすれば、自由意思を持つ支配者も存在しないことになりそうだけど。
本書は、こうした宗教論議を散々しておきながら、結局ソクラテス流の対話術や弁証法の必要性を唱えている。宗教の道徳は古代哲学よりも劣るというのか。無条件に信じられるようになって退化したというのか。ソクラテスもイエスも処刑されたが、議論の余地があるような緊張感のある時代の方がましだったということか。
「迫害は真理が通過しなければならない試練であり、真理はかならずこの試練をうまく切り抜ける。」

4. 真理と人間の幸福度
どんなに主流的な意見でも、完璧に真理を掴んでいることはないだろう。もし真理があるにしても、それは一部に過ぎない。真理は一つしかないのだろうか?多様性が真理だとすれば、全員が賛成する状況は良いとは言えないだろう。誤りに固執する人も必要である。となれば、すべての人が真理を受け入れると、真理そのものが腐りはじめるのか?真理は、得られた結果で幸せになれるのではなく、追求する過程でしか幸せは享受できないということか?
本書は、進歩とともに論争や疑問の対象にならなくなった教えや理論の数は増え続け、人間の幸福度は反論の余地のなくなった真理の数と質によって測られるとしている。そして、真理を探求する努力、反対意見を受け入れる努力、正論を裏付ける努力を求めている。常識的な意見の決まり文句を鵜呑みにしている人は、実は何も分かっていないと指摘している。しかし、自分の無知を認めることは難しい。知性とは知識の丸暗記ではないはずだが、社会では暗記力に目が奪われがちだ。
ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの「国家活動限界論」には、こう記されるという。
「人間の目的、つまりあいまいで一時的な欲求によって思いついたのではなく、理性によって永遠不変のものとして規定した目的は、自分の能力を一貫性のある完全な全体へと、最大限に調和を維持しながら最高度に発展させていくことである。」
スコラ哲学の目的も、本来そうしたものであろうが、救いがたい欠陥があることを指摘している。それは、理性を議論の根拠に求めるのではなく、宗教的権威に求めることだ。

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