2012-04-08

"ティッピング・ポイント" Malcolm Gladwell 著

マルコム・グラッドウェル著「ティッピング・ポイント」は、「超ヤバい経済学」で紹介されていた。興味を持ったのは、大都会で発生した女性刺殺事件で、多くの目撃者がいたにもかかわらず、誰も通報しなかったという事例だ。そこには、集団社会における無責任性と疎外性という人間の本性なるものを感じる。「赤信号みんなで渡れば怖くない!」というのも、なかなかの真理をついている。
社会学者や心理学者は、よく「集団心理」という言葉を使う。では、何人以上になると無関心で傍観者的な心理が働くのだろうか?そんな好奇心を抱きながらアマゾンを探索してみると、なんと絶版中!図書館でも散歩するかぁ...
「本書はある発想をめぐる伝記であり、その発想はじつに単純なものである。たとえば、それまで知られていなかった本が一躍ベストセラーになる現象や十代の喫煙率の上昇、あるいは口コミによる伝播、あるい日常生活上の不可思議な変化を理解するには、それを伝染病のようなものとして考えるのが一番だということである。アイディア、製品、メッセージ、行動などはウィルスのように広がっていくのである。」

THE TIPPING POINT とは...
「あるアイディアや流行もしくは社会的行動が、敷居を越えて一気に流れだし、野火のように広がる劇的瞬間のこと。」
70年代に普及した言葉だそうな。ある特定の区域に住み着いたアフリカ系アメリカ人の数が一定数、ほぼ20%に達すると、その地域の白人がいっせいに町から出ていったという。この現象を社会学者が、町が傾く(ティップ)と呼んだところからきているそうな。核物理学でいう臨界質量のようなもの、あるいは水の沸点のようなものか。
近年、社会現象はべき乗則で変化する!といった類いの本を見かける。80対20の法則はもう古いといった意見も聞かれる。古いとは思わないけど。物理現象をはじめ人間が認識できる多くの現象は、非線形性に満ちている。ロングテールも非線形性の極端な現象の一つであろう。ロングテール戦略で成功した企業といえばアマゾン。情報インフラや検索技術の発達によって、過去に埋もれた本や絶版した本など痒いところにまで手が届くようになった。実にありがたい!本書は2000年に刊行され、そんな風潮がティッピング・ポイントに達する直前で、少し先駆けているといったところか。
社会の変化があまりにも気まぐれで、しばしば不可解に映るのは、人間が本質的に気まぐれだからであろうか?そんな絶望的な状況にあっても、たとえ社会があまりに複雑であっても、ティッピング・ポイントの概念は、ある小集団に焦点を絞り、そこに働きかけるだけで新しい発想を劇的に受け入れさせることができることを教えてくれる。情報開示のやり方をちょいと工夫するだけで、情報の粘着性を向上させることだってできるかもしれない。社会的能力に優れた少数の人々と接触するだけで、社会的伝染を起動させることもできるかもしれない。社会の変革への潜在能力と知的活動は、小さな力によって誘導できる可能性があるってことだ。

ところで、「あくびはうつる!」とよく言われる。ふわぁ~ーあぁ~...ふわぁ~ーあぁ~...このフレーズを読んであくびをしたあなたは、二次感染の虜というわけさ。恋愛映画を観て恋に落ちたり、ヤクザ映画を観た途端にドスの利いた口調になるのも、ある種の感染症と言えよう。そう、人間は感情の動物であり、些細なことで簡単に誘導されてしまうのだ。何気なくチャンネルを合わせ、毎日数分しか見ないニュースキャスターによって世論が動かされる。カリスマ的な人が何かを語るわけでもなく、ただそこにいるだけで第三者になんらかの作用を及ぼす。株式市場は、大投資家の動きに敏感に反応する。著名人が自殺すると殉死までやる。感情を模倣する技術はますます巧妙化し、民主主義社会はパフォーマンス政治に陥る。制度であれ、取引であれ、人間関係であれ、社会的なもので感情が絡まないものは何一つない。だから、人間は客観性に憧れるのだろうか?そもそも客観的に語ると宣言されて、客観的だったためしがない。人間は骨の髄まで社会化されていて、常に因果関係を大雑把に把握しようという意識が働く。直感が働くのは人間精神の本質であり、それを妨げることはできないということか。もしできるとしたら、無認識論に陥るしかあるまい。それが究極の泥酔者であって、昨晩の醜態さえ消し去ることができれば幸せというものよ。

1. 関係の六段階分離
心理学者スタンリー・ミルグラムは、社会と人間の結びつきを調べるためにチェーン・レターの実験をした。不幸の手紙の類いだ。ネブラスカ州オマハに住む160人の住所、氏名を電話帳から入手し、各々に手紙を郵送する。その手紙には、マサチューセッツ州ボストンで株式仲買人として働き、シャロンに住んでいる人物の名前と住所が書いている。受け取った人は、その手紙にさらに自分の氏名を記入し、株式仲買人のより近くに住んでいる友人や知り合いに転送するよう指示されている。そして、ある特定の人物に届くまでに、ほとんどの手紙が5段階か6段階を経ていることを発見した。これは今では有名な説で、似たような話をいろんな本で見かけることができる。
「関係の六段階分離説は、すべての人が自分を除くすべての人たちとちょうど六段階でつながっていることを意味しているのではない。ごく少数の人がわずかな段階でその他すべての人とつながっていることを意味する。」
さて、昨年11月(2011年)、Facebookは、ミラノ大学のWebアルゴリズム研究所と共同で、ユーザー7億2100万人(世界人口の10%以上)の690億の友達関係を対象に、このスモールワールド実験の現代版を実施したと報じられた。そして、「世界中の4.7人目は友達の友達という調査結果」を発表した。「六次の隔たり」より少ない「四次の隔たり」でつながっているというわけだ。
ちなみに、バーテンダーつながりは全国に広がりを見せ、出張先の店も紹介してくれる。場末にある行付けのバーは、地元よりも中央で知れ渡り、時々首都圏から有名人が訪れる。ある情報筋によると、鏡の向こうの赤い顔をした住民は、鴎外通りに面した有名なクラブのママさんとデートした、と聞いた。そのつながりは、市長級や知事級と2段階ぐらいでつながるはずだ。もっとも彼は「鴎外通り」を「美松通り」と呼ぶ。仮に、有名な風俗嬢と関係を持てば...「人類みな兄弟」というのは限りなく真理かもしれない。あくまでも、仮に!だ。ほとんどの男性諸君は(声を裏返しながら)否定するだろうけど...

2. ティッピング・ポイントへ至る三つの原則
伝染現象を理解するための指針として、「少数者の法則」、「粘りの要素」、「背景の力」の3つの要因を挙げている。これらの要因関数において均衡状態が崩れた時、一気に変化が生じるという。
「少数者の法則」の代表例に「80対20の法則」がある。仕事量の80%は20%の少数によって達成されるという考えだ。犯罪の80%は20%の常習者によってなされ、ビール消費量の80%は20%の酒好きが飲むといったこと。だが、伝染病的な広がりを見せる時、不均衡は更に極端になり、ごく一握りの特別な人々が介在することになる。その少数者たちは、社交的、活動的、知識の持ち主、そして仲間内で影響力を持つといった特徴があるという。ネット社会にも伝染させる特別な媒介人たちがいる。いわゆるアルファブロガーといった連中だ。人間が、良い目に遭うと、誰かに伝えたくなるという心理が働くのも確かであろう。こうした媒介人たちによって、広い社会と無意識につながっている。
「粘りの要素」とは、頭にこびりつくようなメッセージや、ちょっとした印象に残るフレーズなど、言葉の力のようなもの。草の根キャンペーンや口コミの地道な粘り、あるいは焦点を絞ること、試すこと、信念を持つことの重要性を唱えている。
「背景の力」とは、社会風潮によって集団心理を煽るような現象で、この影響力が一番強いかもしれない。例えば、後述する傍観者の心理や「割れた窓」理論がそれである。

3. 傍観者の心理
1964年、ニューヨーク市の歴史に汚点を残す事件が発生したという。若い女性が30分間に3度に渡って路上で襲撃され刺殺されたが、38人もの隣人が窓から目撃しながら誰も通報しなかった。一般的には大都会の無関心と解釈される。しかし本書は、傍観者の心理という人間の本質的なものを指摘している。集団心理に潜む無責任性、あるいは匿名性の疎外感とでも言おうか。目撃者が大勢いれば、誰かが通報するだろうという心理が働く。逆に目撃者が一人で、それを自覚していれば通報したかもしれない。
また、ある実験で癲癇発作を学生に演じさせた時、どのぐらいの割合で救出に向かうか?という実験を紹介してくれる。隣の部屋でその様子を一人で聞いている場合は、85%の学生が救出に向かったという。だが、被験者が他に4人が聞いていると知っている場合は、31%の学生しか救出に向かわなかったという。人間は、集団化すると責任感が薄れる、あるいは第三者化するというのは本当のようだ。責任感というものは、自己の存在感と疎外感に深く関わるということであろうか。

4. 「割れた窓」理論
1980年代のニューヨーク市は、史上最悪の犯罪伝染病にかかっていたという。地下鉄は犯罪の宝庫だったと。個人的な自警行為が発生しても、世論の力で無罪判決が出るほど社会は病んでいる。
ところが、1990年から犯罪は激減する。地下鉄では、1990年代の初めと終わりで重罪犯罪の発生は75%も減ったという。他の都市でも犯罪の減少傾向にあったが、これほど激減したのはニューヨーク市だけだそうな。その誘因となったのが、なんと落書きを消したこと。この現象を「割れた窓」理論で説明している。つまり、犯罪は無秩序の不可避的な結果というわけか。割れたままの窓の側を通りかかった人は、誰も責任をとらない雰囲気を感じるだろう。そして、まもなく他の窓も割れる。これが無法状態の始まりとなり、たちまち伝播する。落書きや風紀の乱れという些細な現象が、犯罪の呼び水となる。清掃者たちの徹底交戦は、公共物破損者たちへの有無を言わせぬメッセージでもあった。これが「粘りの要素」としても機能したわけか。
この思考回路は、プロジェクト管理と基本的に同じであろう。優秀なプロマネは些細な問題が伝播することを恐れる。ちょっとした問題でも解決を先送りすると、いつのまにか蔓延し、取り返しのつかないことになる。だから健全なチームには、常に問題を先読みしながら事前に対処しようという意識が働く。特別な管理体制があるわけでもないのに、誤魔化そうとするメンバーは一人もいない。プロマネの意思が、自然に哲学的な共通意識として根付いているのである。その哲学的範疇ならば、メンバーに自由が認められ挑戦意欲も旺盛となる。外から見れば、技術への挑戦が無法的にすら見えるのである。

5. 150の法則
イギリスの人類学者ロビン・ダンバーによると、人間が霊長類の中で最大規模の集団生活が送れるのは、複雑な社会調整を行えるだけの大きな脳を持っているからだという。そして、霊長類に当てはまる公式を編み出したそうな。脳全体に対して新皮質率の占める割合を結びつけて、ホモ・サピエンスに当てはめると、147.8人になるらしい。つまり、150人ぐらいが、まともな社会関係を営むことのできる規模だというのだ。知人として維持できる人数もこのあたりか。この数値は、原始社会における人口にも当てはまるという。例えば、オーストラリアのワルビリ族、ニューギニアのタウアデ族、グリーンランドのアンマサリク族、ティエラ・デル・フエゴ群島のオナ族など歴史考証の明らかな21の狩猟、採集社会を綿密に調べると、村落の平均人口は148.4人だという。
また、軍事組織では、経験から機能的な戦闘部隊の構成員は200人を超えることはないという原則があるという。もちろん、組織はそれ以上の規模になることがある。そこで、階級、規則、格式といった統制が必要となる。だが、150人以下であれば、規範なしでも統制できるらしい。共同体の規模が、この数値を超えたあたりで、途端に分派が発生するということか。改革を発生させるような組織は、150人以下で構成する必要があるということか。だとすると、国会議員が500人もいれば、ティッピング・ポイントは永久に起動できないということか?
さらに、防水繊維で有名なゴアテックスを生み出した会社ゴア・アソシエイツの成功事例は興味深い。150人あたりでぎくしゃくしはじめるので、一つの工場に150人という社の目標ができた。それを超えれば分割して別の工場を作るという戦略。その目安を測るのは単純で、駐車場を150台分用意し、車があふれだすと新たな工場を建設する。しかも、中間管理職を必要とせず、小集団のなかで形式張らない人間関係が効果的に機能するという。小集団内にプレッシャーが自然に生じ、ちょっとでもチームの足をひっぱると責任を感じるといった雰囲気ができるとか。小集団の威力には、自分の存在や責任範囲が明確になるというメリットもある。上司から監視される受動的なプレッシャーと違って、能動的なプレッシャ―には活気があるだろう。大規模な感染の原動力となる小規模な集団があるというわけか。極めて感染力の強い粘りのある企業精神を確立するには、150人の法則を忠実に守る必要があるという。民主主義が機能しやすい組織というのが、150人ということであろうか。

6. 弱い絆の強さ
親友になるためには、それなりに付き合いの時間を要する。だが、その時間が許容量を超えた途端に感情的負荷がかかる。人数的な負荷は、10人から15人あたりで過剰負荷が始まるという。現代社会では人口が過密化し、無関心を装わなければ自己を失いかねないのかもしれない。集団における人間力学では、個性を巧みに操作し、他人を不快にさせないように気を配る。それぞれ個性分の相互関係回路が形成されるとなれば、その情報処理は指数関数的に増えることになる。かなりのストレスだ!小規模な関係であっても、それがほんの少し増えただけで、知的、社会的ストレスが一気に増すだろう。
一方、ネット社会では、強い絆よりも弱い絆の方が重要視される。案外それが真理だったりするのかもしれない。仕事仲間でも、一緒に仕事をしている間は強い絆があると思っても、趣味まで共有しようとは思わない。結局、都合の良い程度に付き合う、適当に生きる、これが人間の防衛本能に則った意識傾向であろうか。そして、異性を意識し、男女の関係に発展した途端に地雷を踏むことになる。
なるほど、弱い絆の方が重要という考え方もありかもしれない。弱い絆の達人は社会的パワーが強いのだろう。前向きな姿勢があり、向上心も強いのだろう。これが、割り切れる力というやつか?いや、単なる寂しがり屋か?数少ない強い絆を大量の弱い絆で代替すれば、エネルギー保存則としては同じか。人間にとって、強い絆と弱い絆の双方とも必要なのだろう。強い絆は人生で一人得られれば貴重である。だが、これが一番難しい!

1 コメント:

アル中ハイマー さんのコメント...

絶版中!と書いたが、文庫版で復刊している...とのご指摘をいただいた。
言い訳をすると、タイトルが変わっている。
「急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則」

今更、買う気がしないかぁ?しかし、819円は安い!

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