2012-05-20

"山椒魚・遙拝隊長 他七篇" 井伏鱒二 著

いきなり飛び込んできた一文に思わず吹いた。
「山椒魚は悲しんだ。彼は彼の棲家である岩屋から外へ出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて外に出ることができなかったのである。」
文学音痴でも楽しめそうだ...と思ったのも束の間、井伏文学はなかなか手強い!150ページほどの薄っぺらな本と侮っていると大間違い。忙しい合間に読もうなんて代物ではない。なんだこの曖昧さは?テーマや山場といったものが見当たらない。まるで推理小説を読んでいるような、それでいて空とぼけた文章がいい。哀愁漂う人間観察で、絶望論をユーモアと皮肉で綴る、とでも言っておこうか。
二度三度と読み返しながら全体を立体的に眺めようと試みる。だが、いくらでも奥深く解釈できそうで、結局分からん!これは高尚な文学なのか?それとも、ある種の宗教原理なのか?いや、そう想わせているだけのことかもしれん。小説家だって一般的な小説に飽きることがあろう。彼らの独創性ってやつは常軌を逸している。読者を泥沼に陥れてどうする!いや、もっといじめて!こいつは読者をMにしやがる。

本書には、「山椒魚」「鯉」「屋根の上のサワン」「休憩時間」「夜ふけと梅の花」「丹下氏邸」「槌ツァと九郎治ツァンは喧嘩して 私は用語について煩悶すること」「へんろう宿」「遥拝隊長」の九篇が収録される。
「山椒魚」は悲劇と喜劇をごっちゃにした哲学に魅せられる...「槌ツァと九郎治ツァン...」は感動しながら笑ろうた...「夜ふけと梅の花」はなんとなく自分が指摘されているようで怖い...「遥拝隊長」は読めば読むほど泥沼状態へ...

1. 山椒魚
岩窟の中で二年間を過ごし、成長した山椒魚は頭がつかえて外に出られない。そこが永遠の棲家となる。出口に顔をくっつけて、恨めしそうに外を眺める日々。
「くったくしたり物思いにふけったりするやつは、ばかだよ。」
なかなかの前向きの奴だ。哲学を否定する根性は認めよう。だが、外ではミズスマシや蛙が自由に泳いでやがる。
「諸君は、この山椒魚を嘲笑してはいけない。すでに彼が飽きるほど暗黒の浴槽につかりすぎて、もはやがまんがならないでいるのを、了解してやらなければならない。いかなる瘋癲病者も、自分の幽閉されている部屋から解放してもらいたいと絶えず願っているではないか。最も人間ぎらいな囚人でさえも、これと同じことを欲しているではないか。」
ある日、岩屋にまぎれこんだ蛙を閉じ込めた。頭で出口を栓して。散々眼の前で自由に動きまわった奴への嫌がらせだ。狼狽した蛙は、山椒魚と口論を始める。互いに罵り合い、一年が過ぎる。更に罵り合い、また一年が過ぎる。とうとう沈黙し、互いの嘆息が聞こえないように注意する。蛙の嘆息が先に漏れた。これを聞き逃す山椒魚ではない。蛙は空腹で動けないでいる。「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ。」精神を獲得した知的生命体の本来の姿は孤独ということであろうか...

2. 鯉
「すでに十幾年前から私は一ぴきの鯉になやまされて来た。」
学生時代の友人からもらった鯉。その厚意に感謝し、鯉を大事にすることを誓う。そして、下宿の瓢箪池に放魚した。鯉は、池の奥底に入って、数週間も姿を見せない。その年の冬、下宿を移った。鯉も連れて行きたかったが断念した。彼岸が過ぎた頃、瓢箪池に鯉を釣りに行く。ようやく八日目に釣り上げ、洗面器に入れて友人宅を訪ねた。そして、友人の愛人宅の広い泉水で預ってもらう。あくまでも鯉の所有権は、自分にあると力説しながら。友人は疎ましい顔をする。
それから六年目の初夏、友人は亡くなった。愛人は悲しみに耽っている。友人が疎ましい顔を見せたのは、鯉の一件だけ。主人公は、一刻も早く鯉を持ち帰りたいと思った。友人の愛人の了承を得て泉水から釣り上げると、今度は早稲田大学のプールに放った。鯉は広いプールを王者のごとく泳ぐ。幾匹もの鮒と、幾十匹もの鮠(はや)やメダカを従えて。だが、冷たい季節がくると氷が張り、鯉の姿が見えない。毎朝プールへ来るも、氷に石を投げて遊び、もはや鯉を探すことを断念している。鯉に亡き友人の姿を重ねているのだろうか...

3. 屋根の上のサワン
「おそらく気まぐれな狩猟家かいたずらずきな鉄砲うちがねらいうちしたものに違いありません。」
沼地の岸で撃たれて苦しむ一羽の雁を見つけると、家に持ち帰り治療する。親切を誤解した雁は足蹴りして手術の邪魔をする。雁の傷がすっかりよくなると、羽根を短く切って庭で放し飼いする。後をついてまわる人懐こい鳥にサワンと名付ける。
秋の夜更け、屋根に登ったサワンは月に向かって鳴き叫ぶ。ちょうど、三匹の雁が飛んでいた。三匹の雁とサワンは互いに鳴き交わす。一緒に連れて行ってくれ!と叫んでいるかのように。降りてこいと行っても、いつものように聞かない。三匹の雁が飛び去るまで、屋根から降りようとしなかった。そして、屋根に登って甲高い声で鳴く習慣を覚える。
ある夜、ほとんど号泣なほど甲高い声で鳴いた。羽根を切らないことにして、出発の自由を与えるべきだとも考えた。だが、愛着のわいた鳥を放す気にはなれない。翌日サワンが姿を消すと、主人公は狼狽する。 彼は僚友たちの翼に抱えられて旅だったのであろうか...

4. 休憩時間
「文科第七教室は、この大学で最も古く、最もきたない教室である。」
学生たちは、この教室での講義がこの上なく好きである。日本文学史的にも由緒ある記念館とも言うべき存在で、懐古的ないくつもの挿話を持っているからに違いない。
ある四十分ほどの休憩時間、学生たちは文学や劇について語り合う。早口で相手を言い負かそうとしたり、言い負かせられまいと大声で反論したり。そこに学生監が巡回して来た。黒板にフランソワ・ヴィヨンの詩を書いていた学生は、歯の高い下駄を履いていた。下駄は校則違反。ヴィヨンのデリケートな詩情に浸っていた学生は、腕を掴まれ連れていかれた。靴は濡れて底が破けていて、代わりがないと言っても、学生監は聞く耳を持たない。
一人の学生が立ち上がって演説した。級友はヴィヨンの詩を書き残して引致された、こんなつまらない懲罰は受け入れがたい、そこで古靴を寄贈したい、と主張し級友を追った。だが、違反した学生はその厚意を断った。そして、裸足で戻ってくるなり、黒板に書いた詩を消して何かを書きだした。アララギ派の傾向を帯びた短歌で、内容はすこぶる反抗的なもの。権威が芸術を罰することなどできないという意志である。学生たちは、彼の巧みな興奮歌を感嘆するあまり、湧いてくる芸術の衝動を称賛した。
ところが、別の学生が教壇に上がると、惜しげもなく黒板のアララギ派の詩を消してしまった。この闖入者は英語で詩を書き始めた。かかる非常時に季節感を歌い、格闘は呪われてあれ!と批判したのである。その詩の反響は若い反抗心にとって評判が悪い。
またもや教壇を立った者がある。西洋の神主だ。彼は英文を消して、こんな不愉快な争いを繰り返すのはうんざり!といった内容を書いて去った。次々に教壇を去っていく学生、次は誰か?
「青春とは、常にこの類(たぐい)の一幕喜劇の一続きである。」
権威に対する反抗心...束の間の青春は過ぎ去る...まさに休憩時間のごとく...

5. 夜ふけと梅の花
ある夜ふけのこと。梅の花咲く道を歩いていると、電柱の影から出てきた男に話しかけられる。男は酔っていて、顔にひどい怪我をしている。4,5人の消防の人から袋叩きにされたという。警察に行くから証人になってくれと、放してくれない。いざ交番の前に来ると、この近くの者だから大ぴらにしたくないと言いだす。傷口を診てやると、お礼にお金を握らされる。主人公は、お金を返したくて、気になってしょうがない。
一年が過ぎて、男の名は村山十吉といい、質屋の番頭であることが分かる。仕入れの買入れ金を持って失踪したらしい。すべてを忘れようと飲み屋をはしごする主人公。よろめき転びながら歩いていると、声をかけられる。「僕の顔は血だらけになってやしませんか?」昨年のあの声だ。心臓が止まる。だが、それは幻影だった。そうと分かれば、意気揚々とする。
「おれは酔っぱらえば酔っぱらうほど、しっかりするんだぞ。びっくりさせやがって、村山十吉!やい、ちっとも怖くはないぞ村山!出て来い村山十吉!早く出て来んか!」
小心者の遠吠えか!夜の社交場で大きな事を言っているどこぞの酔っ払いに似ちゃいませんか...

6. 丹下氏邸
丹下氏は、男衆を折檻した。丹下氏は67歳、男衆は57歳のエイ。年老いたエイは、昼寝ばかりして、性根を入れ替えてやらなければならないと。主人公は、折檻の様子を風呂場の影から覗く。丹下氏がここまで怒るのを一度も見たことがなかったという。
ある日、エイのところへ一通の手紙が届いた。それを主人の丹下氏に見せないで主人公に見せた。どうか読んで聞かせてくれと。識字のできない階級ということか。辺鄙な田舎では、老年の雇い人が手紙を受け取ることは、不幸の知らせでもない限り、生意気なこととされた。「私らはどのようにも、なるようにしかならんでありましょう。」手紙は妻からで、折檻されたことを知り、いつまでたっても世帯を持つことができないと嘆き、様子を見に行くというもの。
丹下氏は手紙の内容を主人公に聞く。そして、エイの来歴を語り始める。... 妻オタツは53歳、いまだ新婚のように亭主のことを案じている。それというのも、嫁入りしてすぐ奉公に出したのである。奉公女が、そうそう訪ねられるものではない。病気でもしない限り会う口実がない。二人にはどこにも帰る家がない。やってあげたことといえば、谷下英亮(たにしたえいりょう)という立派な名前を与えたぐらい。それで身分が変わるわけでもない。... と涙しながら語るも、エイの性根までは知らないし、夫婦の事情は夫婦の勝手と突き放す。
そして、オタツが訪ねてきた。二年ぶりの再会にも、二人は互いに非難しあって、そっぽを向く。オタツは亭主がへまをして主人に叱責された時だけ、詫びに来るのだった。オタツは丹下氏に雛を土産に持参したが、貧弱な土産はかえって恥ずかしくなったのだろうか。古ぼけた伏籠を物置から探しだして雛を入れ、槌を打ち下ろす。
...自暴自棄に悩む夫婦の姿を描いたのだろうか?悲しい小作人の物語であろうか?当時の身分階級を皮肉った物語であろうか?なんとも中途半端な気持ちにさせやがる。

7. 「槌ツァ」と「九郎治ツァン」は喧嘩して 私は用語について煩悶すること
主人公は、両親を古い呼び方で「トトサン」「カカサン」と呼ぶ。だが、農村漁村文化運動で「オトウサン」「オカアサン」と呼ぶ風習が広まる。農村部では、階級制度の余韻が残っていて呼び方も違うという。地主の子は「オットサン」「オッカサン」。村会議員の子は「オトッツァン」「オカカン」。自作農の子は「オトウヤン」「オカアヤン」。小作人の子は「オトッツァ」「オカカ」。成金と呼ばれる階層が生まれた時代、これらの階級的呼び方もごっちゃになっていく。
人の名を呼ぶにも、階級の区別があるという。いいところの子には「何々サン」、次が「何々ツァン」、その次が「何々ヤン」、その次が「何々ツァ」、その次が「何々サ」。父母を呼ぶような進展がなく、子供の時「槌(ツッ)ツァ」と呼ばれれば、村会議員で偉くなっても呼ばれ方は変わらない。
ここで、槌ツァは「槌(ツチ)サン」と呼ばれたい、そんな名誉欲に駆られる人物だと仮定しよう。村会議員の会合の時、村長が「槌ツァ」と呼ぶと、満座の中で恥をかかされたと食ってかかる。発言した側が素直に謝れば事はおさまるが、「それが悪いかのう」と反問すれば面倒なことになる。些細な揉め事から恨みを買い、無実の罪を讒訴される羽目に。互いの狭量が揉め事になる典型というわけよ。
さらに、村長は九郎治という名で、「九郎治(クロッ)ツァン」と呼ばれると気を悪くする。おまけに、村長の娘「お小夜サン」と槌ツァの娘「お花ヤン」の仲がいいとなれば、ややこしいことに。お花ヤンは、父親を「オトッツァン」と呼んでいたが、村長に負けん気で「オットサン」と呼べ!と言いつけた。九郎治ツァンの家では、「オットサン」「オッカサン」と呼んでいたからである。九郎治ツァンがその噂を耳にすると、都会風に「オトウサン」「オカアサン」と呼べ!と言いつけた。
しかし、都会的な風習はこの村ではあまりにも無謀であった。槌ツァも、負けじと一家で都会的な言葉を使い始めた。「おこしやす」とか、「おおきに」とか。誰もそれがどこの言葉か知らなかったが、じきに大阪弁ということが判明する。九郎治ツァンも負けてない。一家揃って東京弁を使い始め、やたらと語尾に「ねぇ」とつける。「ありやねぇ。...よかろうと思うがねぇ。」てな具合に。
ある日、主人公の家に強盗が入った。祖父は確信ありげに、強盗は東京弁を使ったと証言した。すると、槌ツァが強盗は九郎治だ!と言いふらした。警官も疑い、九郎治の言葉づかいに似ていたか?と祖父に訊ねた。とんでもない!強盗は他国者に相違ない、我々田舎者が東京弁を覚えるには少なくとも20年は東京に住まないとだめだと、九郎治ツァンを弁護した。この話が広まると、槌ツァが九郎治の東京弁はニセものだと悪口を言いふらした。以来、九郎治ツァン一家は東京弁を使わなくなった。槌ツァの家でも、大阪弁を使わなくなった。せっかく移入された都会の言葉は、村から消え去った。百年経っても、田舎弁は消えないだろう。そして、主人公は煩悶する。天地がひっくり返っても、時流に任せた言葉が使えない。これが唯一の悩みだと...

8. へんろう宿
遍路のことを「へんろう」と呼ぶ。一人、土佐の遍路岬に来て宿をとる。この村にはへんろう宿が一軒あるだけ。宿屋には「へんろう宿 波濤館(はとうかん)」の看板があり、50ぐらい、60ぐらい、70ぐらいの三人お婆さんが温かく迎え入れる。客間は三部屋しかない。漁師屋をそのまま宿にしたような。経営主らしき人もいない。客間の一つには、12ぐらいと15ぐらいの女の子が勉強し、その隣の客間には、大きな男が腹這いになっていて、さらに奥の客間に通される。
二時間も眠っていると、隣の泊まり客の男が、50ぐらいのお婆さんと酒盛りをはじめた。その話し声は、酔っているせいか?妙に明るい口調である。捨てられたのが男の子ならば、大きくなって困るから、親を追いかけてその子を返す。親が分からなければ、役所に届けて戸籍だけでもなんとかする。そして、女の子だけを引き取る。この宿では、代々置き去りにされた女の子が嫁にも行かず、浮気もせず、育てて貰った恩の為に宿を切り盛りしながら一生を過ごすという。勉強している二人の女の子も捨て子であろうか?
...四国八十八箇所、お遍路参りをする人たちは、様々な苦悩を抱えながら旅をするのであろう。貧困の時代、何らかの事情で子供を捨てなければならない人たちがいた。その一方で、捨て子を温かく受け入れる人たちがいた。罪と救済の共存を明るく綴るところに、不思議な奥行きがある。

9. 遥拝隊長
村の平穏な日常に破綻をきたすことがある。元陸軍中尉、岡崎悠一32歳の異常な言動である。普段はおとなしいが、戦争の後遺症で気が狂っている。今なお戦争が続いていると錯覚し、軍人のよう振る舞う。滅私奉公に精神を鼓吹する。道を歩きながら、歩調をとれ!伏せ!と命令したり、感極まると東方遥拝する。発作が起これば、通りすがりの人にも、いきなり命令したり、怒鳴りつけたり。軍国主義の亡霊じゃ!と激怒され、兵隊ごっこのひとりよがり!侵略主義!などと罵声を浴びる。それでも、近所の人たちは温かく見守る。戦争中、悠一が戦地で怪我をして脳を患って送還された時、陸軍病院からの退院を願い出たのは近所の人たちであった。母親が辞退したにもかかわらず。戦地から将校が帰ってくるとなると、鼻が高いというわけで隣組一同で決議したのである。
さて、悠一の自宅には杉の垣根があった。 この杉垣は、悠一の父が亡くなった後、母がひとりで稼いで作ったもの。コンクリートづくりの厖大な門柱まで作った。ちっとも調和のとれない風景だが、母の意気込みに周囲の人たちから一目置かれる。村長までがその門柱を見て模範的な一家だと称え、悠一は幼年学校に推薦された。父のない家のハンデを、貫禄のある門柱で乗り越えたのだった。
しかし、大陸戦争が拡大すると、学生たちは軍関係の学校に入学させられる。悠一は、幼年学校から士官学校を経てマレーへ派遣された。戦地でどうしてびっこになったのか?漠然としたことしか話さない。当初、帰還兵の悠一の無口は美徳とされた。ところが、戦後、価値観が反転する。口外できない理由があるに違いないと、いろいろと噂される。滅私奉公の口ぶりで喧嘩して足を折られたなどと。
そんな時、ある帰還兵の話で、悠一が怪我をした理由が判明する。故障したトラックの中で、戦争ってのは贅沢なもので、惜しげもなく爆弾を落としよる、費用もかかる、と呟いた上等兵がいた。それに怒った悠一は、上等兵を殴った。その瞬間、故障車を動かそうとして、隊長はよろけ上等兵にすがりついた。二人はトラックから転落して川へ落ちた。悠一は重傷を負い、一緒に転落した上等兵は死んだ。悠一は事故で死んだ上等兵の怨霊に取り憑かれたのか?
「あれを見い。わしゃうらやましい。国家がないばっかりに、戦争なんか他所(よそ)ごとじゃ。のうのうとして、ムクゲの木を刈っとる。」
悠一は遥拝癖のある軍人で、東方遥拝を部下にも強制させた。そして、遥拝隊長と呼ばれる。その異常さを、他の隊長は注意しない。いや当時の軍隊では歓迎される態度か。隊長の振る舞いには寛大!そのくせ、一兵卒には細かい事に厳しい。要領の悪い兵卒はたちまち袋叩きにされる。
その後、悠一は発作を起こして、山の中腹の共同墓地を歩きまわる。そして、べルトで一つ一つの墓をなぐりつける。ビンタをくらえ!貴様も!とつぶやきながら。たまには、近所の人たちも悠一の命令に芝居して付き合う。村人たちには、悠一が東方遥拝をする理由が分かっているようだ。その方角は母の作ったコンクリートの門柱であった。
...この作品には、狂気じみた軍国主義への批判が込められていることは想像に易い。だが、それだけだろうか?同時に、遥拝と母親孝行の信念を重ねるところに奇妙な関係がある。戦時中と戦後で価値観や道徳観が反転したのは確かであろう。過去の反省とは、当時の価値観をすべて否定することではないはず。そこに、民衆が盲目的に信じてきた社会風潮への批判を重ねるような...

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