2012-05-27

"山椒大夫・高瀬舟 他四篇" 森鴎外 著

鴎外文学はなんとなく居心地がいい。数学的な美を感じる。物語の設定や定義となると、哲学書がごとくくどい有り様。ところが精神描写となると、科学論文がごとくバッサリと斬る。科学論文では主観を極力排除しようとするが、ごく稀に精神の奥行きまでも映し出す惚れ惚れするような記述に出くわすことがある。見事なまでに研究の情熱をコンパクトに言い放つ用法は、まさに鴎外文学の類型か。
鴎外小説は、知識を曝け出し過ぎだとか、設定が文学的でないだとか、様々な批判があるのも事実。だが、無味乾燥と呼ぶには、ちと違う。感情の喪失とも、ちと違う。あえて精神の破綻を表明しているのか?小説家そのものが、精神の枯渇を追い求める仕事なのかもしれん。描写そのものには激情を秘めつつも、あえて距離を置き、一定の価値観を押し付けない配慮を感じる。人間精神の多様性が真理だとすれば、様々な感情を呼び起こす余地を与えるのは、ある種の寛容性と捉えることができよう。余計な言葉を重ねて感情を誘導するよりは、淡々と綴って精神の葛藤を読者に委ねる。これぞ文学的、自然学的合理性というものであろうか。これほど澄んだ文章を見せつけられると、ぐれちゃう。どうあがいても、お喋りな酔っ払いには無理な芸当よ!今宵は「鴎外通り」を歩かずにはいられない。もっとも夜の社交場に因んで「美松通り」と呼んでいるが...

本書には、「山椒大夫」「魚玄機」「じいさんばあさん」「最後の一句」「高瀬舟」「寒山拾得」の晩年の六篇が収録される。
「山椒大夫」は、家族で父に会いに行く道中、人買いに攫われた子供が、なんの因果か大出世して、盲目となった母と再会するという物語。それを、陸奥掾正氏(むつのじょうまさうじ)が白河天皇の時代に罪を得て筑紫安楽寺に流された話と重ねる。
鴎外はこう語る。「とにかくわたくしは歴史離れがしたさに山椒大夫を書いたのだが、さて書き上げたところを見れば、なんだか歴史離れが足りないようである。これはわたくしの正直な告白である。」
家族の絆と出世物語に、人身売買や貧困問題という胡椒を効かせた作品、もはや余計な感情表現はいるまい。
「魚玄機」は、美麗才女という男性諸君の憧れな存在が、嫉妬から殺人を犯すというサスペンス風の物語。恵まれているがゆえに精神の発育をともなわないギャップを描きたかったのか?それとも、美女への好奇心を魚玄機という歴史人物と重ねて哀れに描きたかったのか?その真意はよく分からん。
「じいさんばあさん」は、実にとぼけた題名だが、想像だにしない若き日の激情振りを、おっとりとした隠居生活と結びつける手腕は見物。人生の黄昏とは、こういうものであろうか。
「最後の一句」は、父の死罪に娘が直訴するという大岡裁きを期待するような展開を見せるが、同情されることはない。役人たちの硬直した価値観では、献身的な態度など分かるはずもないと言い捨てるかのように。ただ、父の命を救う代わりに子供たちの命を捧げるという展開には、ちと無理がないかい。武士の時代、子供ですら命を覚悟した。その伝統が大正デモクラシーで失われたことを嘆いているのか?だとしても、商売人の家族にそれを求めても仕方があるまい。あるいは、伝統的な子供の意志の強さと、近代的な大人の態度を対照的に描いているのか?結果的に娘の願いは入れられる。天皇即位による恩赦と結びつけて。結末を温情で終わらせたければ、恩赦にすがるぐらいしかないということか?これが現実的な解というのか?
「高瀬舟」は、弟の自殺を手助けして殺人罪に処せられた兄の心情を綴る。貧困であるがゆえに、病気がちの弟は兄の心労を軽くするために自殺を図る。もう手遅れとなれば安楽死させるしかない。遠島を申し渡されたにもかかわらず、兄の心は澄んでいる。なにしろ、小遣いをもらった上に食事が保証されるのだから。そういえば、年末になると軽犯罪者が再犯して、わざと刑務所に戻るという話を聞く。それに似た心情であろうか。人生で「足ることを知る」とはどういうことか?それを問うている。また、安楽死における悪意の境界とは?それは、法律上の悪意と人情上の悪意の狭間とでも言おうか。その境界を権威にどこまで信頼が置けるだろうか?近代社会で権威といえば法律である。都合が悪くなるといつも法律を盾にして逃れる政治屋たちを見れば...
「寒山拾得」は、唐の賢人を題材にしながら、俗人の学問に対する態度を皮肉る。寒山と拾得とは、道を極めた二人の禅僧のことで、ここでは寒山を文殊菩薩、拾得を普賢菩薩と重ねる。そこに、儒教をかじった俗人と仏教を極めた僧侶が絡むと面白いことに。悟りを得た者から見れば、俗人は笑われ者ということか。どおりでアル中ハイマーこと俗世間の酔っ払いは、いつも笑われるわけよ。

1. 山椒大夫
越後の道中、30歳を超えたばかりの母親、気丈な姉14歳の安寿(あんじゅ)、おとなしく賢い弟12歳の厨子王(ずしおう)、40歳くらいの女中の4人が歩く。この辺りは人買いが出没するので、国守の掟で旅人を泊めてはならないことになっていた。そこに現れたのが山岡大夫という船乗り。旅人たちに同情し、宿を世話してくれるという。母親は、掟に背いてまで救おうという志に感じ入り、筑紫へ行ったまま帰らぬ夫を訪ねる旅路であることを打ち明ける。山岡大夫は、陸路には難所があるので海路を勧めた。翌日、一行を船に乗せると、岩陰に止まっている二艘の船に合図する。重すぎて船足が遅いので分かれて乗った方がいいと、子供二人を越中宮崎の船へ、母親と女中を佐渡の船へ乗せる。二艘の船が遠ざかっていくと、母親は今生の別れを覚悟し叫び、女中は海に飛び込んで死んだ。
さて、丹後に奴隷ならいくらでも買う山椒大夫という分限者がいた。彼は、農業から狩猟や漁業、蚕飼、機織り、金物から陶器の製造など、手広く商売して儲けている。安寿と厨子王は売られ、安寿は潮汲み、厨子王は柴刈りの仕事に就く。安寿は、厨子王だけを逃して父親のところへ行かせようと考えるが、その談合に見廻りが気づき、逃亡した者は焼印される掟を話して脅す。以来、安寿の様子がひどく変わる。表情は硬くなり、遥かに遠くを見つめ、物を言わない。
しかし、春が訪れると、姉の表情は喜びに輝く。伊勢から売られてきた小萩(こはぎ)と一緒に糸を紡ぎながら、故郷からこの地までの道のりを詳しく聞いたのだった。安寿は弟と同じ山で仕事がしたいと願い出ると、厨子王に中山を越えれば都へ出られることを教え、守本尊を渡して独りで行かせた。安寿は、追手から逃れるために沼に入水して死ぬ。
厨子王は、中山国分寺の曇猛律師(どんみょうりっし)に匿われる。律師は厨子王を連れて都へ発つ。都に着くと律師と分けれ、東山の清水寺に泊まる。翌日、目が覚めると老人が枕元に立っていた。関白師実(もろざね)である。師実は、養女の病を直すためにお祈りをしていると、夢の中でお告げがあったという。左の格子に寝ている童が守本尊を持っているから、それを借りて拝むようにと。そして、厨子王から守本尊を借りて拝むと養女の病が回復したのだった。
厨子王は身を明かす。陸奥掾正氏(むつのじょうまさうじ)の子で、父は12年前に筑紫の安楽寺へ行った切り帰らぬことを。それは、筑紫へ左遷させられた平正氏(たいらのまさうじ)に違いない。そして使いをだすが既に死んでいた。師実は、その嫡子となれば養子に迎えたい。厨子王は還俗元服して正道と名乗った。その年、正道は丹後の国主に任じられ、最初の政(まつりごと)で人身売買を禁止する。山椒大夫は、奴隷を解放して大損したかに見えたが、前より盛んになり一族は栄えた。曇猛律師は僧都に任じられた。姉をいたわった小萩は故郷へ還された。安寿は懇ろに弔われ、入水した沼の畔に尼寺が建った。
正道は佐渡へ渡り、母親の行方を調べたが不明。一人途方に暮れていると、大きな百姓家があった。襤褸を着た盲目の女が、座って歌のような調子でつぶやいている。

  安寿恋しや、ほうやれほ。厨子王恋しや、ほうやれほ。
  鳥も生(しょう)あるものなれば、疾(と)う疾う逃げよ、逐(お)わずとも。

2. 魚玄機(ぎょげんき)
魚玄機は、26歳の時、人を殺して投獄された。魚玄機は唐の女道士(道教の修行士)で、美麗な詩人としても名高い。そんな女性がいったい誰を殺したのか?風説はすぐに長安中に流れた。
さて、玄機は、18歳の時、温岐(おんき)という優れた詩人に好奇心を持った。彼は醜男で、温鍾馗と渾名された。ある日、温岐は美少女が詩を作るという噂を聞きつけ魚家を訪れる。そして、玄機の詩の才能に惚れ込み、度々魚家を訪れる。温の友人に李億(りおく)という素封家がいた。彼もまた玄機の詩に嘆賞する。玄機はその美しさから側室に求められる。側室になったものの、李が近づくとそれを避け、強いて迫れば号泣する。
李は諦め、玄機は咸宜観(かんぎかん)に入って女道士になる。道教の観とは、仏教の寺のようなものだそうな。玄機は、共に修行する女道士と親しくなり、寝食を共にする。この女は采蘋(さいひん)、16歳。女道士の二人が仲良くなるのを「対食(たいしょく)」と呼ばれ揶揄される。いわゆるレズか。秋になると、采蘋は失踪した。寂しい玄機は、楽人の陳某(ちんぼう)という少年と恋仲になる。
そして、七年が経った。陳の老婢が亡くなると、その後に緑翹(りょくぎょう)という18歳の女中が来た。美しくはないが、聡慧で媚態がある。女盛りの玄機に対して、垢抜けのしない緑翹。陳は緑翹を気にもかけていなかった。やがて、三人の関係が紛糾する。陳は、玄機の振る舞いが気に入らない時、寡言になったり、口を噤んだりする。そんな時、緑翹と語るのだった。その語りは温和。玄機はその様子を聞く度に胸が刺されるように感じる。玄機の猜疑心は次第に膨らみ詰問するが、緑翹は存じません!と繰り返すだけ。白状しろ!と迫って喉を閉めると、死んでしまった。玄機はその屍を埋め、しばらく殺人事件は発覚しなかった。玄機は、陳が緑翹のことを問うてくると予期したが、聞いてくる様子もない。夕べからいなくなったと言っても、そうかい!と意に介さない様子。
初夏の頃、死骸を埋めたあたりに蝿が群がり、客たちが訝しがる。話は従者に伝わり、従者はその兄に語った。従者の兄というのは、以前玄機を脅して金を奪おうとしたことがある。その時、玄機に笑い飛ばされ怨んでいた。その男は、緑翹の失踪と関係があると睨んで穴を掘ると、死体が発見された。玄機は逮捕されて処刑された。玄機を哀れむ者も多い。最も心を痛めたのは温岐であった。噂は聞こえたが、遠くにあって尽力することはできなかった。

3. じいさんばあさん
松平の家中、宮重久右衛門(みやしげきゅうえもん)が隠居所を拵えた。そこに、まず二本差しの立派な爺さんが入った。数日後、爺さんに負けぬ品格のある婆さんが入った。二人は隠居暮らし始めた。仲の良さは無類。ただ、夫婦にしては遠慮をし過ぎる感がある。富裕には見えないが、不自由なく幸せそうな二人。しかし、彼らの生涯は、平和な隠居生活からは想像もつかない激烈なものであった。
ある日、徳川家斉の命で、婆さんの永年勤務に褒美が与えられた。爺さんは、元大番組の美濃部伊織(みのべいおり)といって、宮重久右衛門の兄。婆さんは、伊織の妻るんといって、外桜田の黒田家の奥に仕えて表使格(おもてづかいかく)になっていた女中。婆さんが褒美を貰った時、伊織は72歳、るんは71歳。
二人が夫婦になったのは、伊織30歳、るん29歳の時。るんは美人というタイプではない。伊織は色白い美男。ただ、癇癪持ちという性癖がある。
その昔、るんが臨月にもかかわらず江戸に残して、弟の代役で京都へ出張することになった。仕事は無事に勤めるが、質流れの古刀に惹かれる。親しくはないが工面のよいと聞く下島甚右衛門に金を借りて刀を買った。気分のいい伊織は、親しい友人を招いて酒盛りをしていると、下島甚右衛門が来た。金を借りた義理があるので酒を振舞うが、刀のことで口論になる。そして、収めていた癇癪がでて刀で斬ってしまった。取調べでは、伊織は弁明しなかった。

  いまさらに何とか云わむ黒髪の みだれ心はもとすえもなし

伊織は知行を取り上げられ、越前丸岡に流された。残された家族は哀れなもの。二年ほど経って、祖母は病気というほどの溶体でもなく死ぬ。翌年、5歳になる息子は疱瘡で死ぬ。るんは一生武家奉公にでる決心をする。そして、31年間黒田家に奉公し、隠居を許されて故郷の安房へ戻った。翌年、伊織は罪を許され、るんは喜んで江戸へ来た。37年ぶりの再会であった。

4. 最後の一句
大阪で、船乗り業の桂屋太郎兵衞が、三日間曝された上に斬罪に処せられるという高札が立てられた。噂され、家族は二年間も世間と交流を絶っている。厄難に遭ってから、悔恨、悲痛の他に何事も受け入れられなくなった女房。そして、5人の子、長女いち(16歳)、次女まつ(14歳)、養子の長太郎(12歳)、とく(8歳)、初五郎(6歳)。
ある日、出羽国秋田から米を積んで出帆した船が、不幸にも暴風に遭って積荷の半分を流失した。雇い人の新七は、残った米を売って大阪へ戻ってきた。二人は大金に目がくらみ、米主に黙っておくことにした。しかし、米主が残った荷の調査に乗り出すと、新七は逃亡した。太郎兵衛は、入牢し死罪を申し付けられた。長女いちは、お奉行様に願い出ることを決心する。父を助けて、代わりに私たち子供を殺して下さいと!ただし、実子でない長太郎だけは殺さないようにと。太郎兵衛の女房と5人の子供を連れて、町年寄たちがやって来た。拷問の道具を前にして尋問が始まる。長女いちのみならず、次女まつも父の代わりに死ぬと答え、長太郎も兄弟一緒に死ぬと答える。さすがに、幼いとくは涙を浮かべ、初五郎も怯えて答えられない。
鴎外は、長女の意志の強さを強調しながら、「お上の事には間違いはございますまいから」と形式張った役人仕事に皮肉をこめる。そして、取調べを終えた役人たちの心境を、こう言い放つ。
「心の中には、哀な孝行娘の影も残らず、人に教唆せられた、おろかな子供の影も残らず、ただ氷のように冷かに、刃(やいば)のように鋭い、いちの最後の詞の最後の一句が反響しているのである。元文頃の徳川家の役人は、固(もと)より『マルチリウム』という洋語も知らず、また当時の辞書には献身という訳語もなかったので、人間の精神に、老若男女の別なく、罪人太郎兵衞の娘に現れたような作用があることを、知らなかったのは無理もない。しかし献身の中に潜む反抗の鋒(ほこさき)は、いちと語を交えた佐佐のみではなく、書院にいた役人一同の胸をも刺した。」
結果的に娘の意志は貫徹し、太郎兵衛は死罪御赦免、追放ということになる。家族は再び奉行所に呼ばれ、父にお別れを言うことができた。しかし、小娘ごときの訴えで、死罪を免れるなんて世の中そう甘くはない。ちょうど桜町天皇の即位によって、恩赦が言い渡されたのだった。

5. 高瀬舟
高瀬舟とは、京都の高瀬川を上下する小舟である。京都の罪人が遠島を申し渡されると、この船で大阪に廻される。護送するのは京都町奉行の同心で、親類の主だった一人を大阪まで同船させる慣例があった。黙許である。この船に乗るのは極悪人がばかりではなく、過ちをした者も多くいる。
ある日、珍しい罪人が高瀬舟に乗せられた。喜助は親類がいないので一人で乗る。護送するのは、同心の羽田庄兵衛。ほとんどの罪人は気の毒な様子をしているが、喜助はまるで遊山船にでも乗っているような澄んだ態度でいる。庄兵衛は不思議に思い、心境を聞くと、喜助は答える。
「なるほど島へ往くということは、外(ほか)の人には悲しい事でございましょう。その心持はわたくしにも思い遣(や)って見ることが出来ます。しかしそれは世間で楽をしていた人だからでございます。」
遠島になると二百文の銭がもらえる掟があった。喜助はそれを手にして嬉しそうにしている。仕事をしてもらったお金は、右から左へ渡すだけの貧乏暮らし。牢に入れば、銭をもらった上に食事まで保証される。
庄兵衛は、そろそろ初老に届く年。妻と子供4人、それに老母の七人家族。必死に倹約しても、妻は金持ち商人の娘で贅沢が癖になっている。庄兵衛の生活も、給料を右から左へ渡しているようなもの。二百文の貯蓄すらない。貧乏の程度は違えども境遇は似たようなものか。
しかし、明らかに違うことがある。喜助には不思議と欲がなく、足ることを知っている。その違いはどこからくるのか?庄兵衛には養わなければならない家族がいる。とはいえ、独り身で気楽な境遇にあれば、同じように振る舞えるだろうか?いつのまにか、庄兵衛は「喜助さん」と呼んでいる。同心が罪人を「さん」付けで呼ぶとは。喜助は恐れ入った様子で真相を話し始める。弟は病気がちで働くのは兄ばかり、いつも済まなそうにしていた。
ある日、弟は血だらけになって布団に伏せていた。喉には剃刀が刺さっていて喋ることができない。自殺を図ったのだ。苦しいから剃刀を早く抜いてくれ!と眼が訴えている。ちょうどその時、弟の世話を頼んでいた婆さんが入ってきた。茫然とする喜助は、年寄衆に役場へ連れていかれた。喜助は誰も怨んでいない。病弱だった弟も、罪人にしたお上も。
庄兵衛は、これを殺人とすべきか?自問する。裁きは権威に任せるしかない。お奉行様の判断を自分の判断にしょうと思ったが、どこか腑に落ちない。ただ、喜助を無罪にして元の生活に戻ったとしても、貧困から逃れることはできない。

6. 寒山拾得(かんざんじつとく)
時代は唐の貞観の頃、閭丘胤(りょきゅういん)という官吏がいた。尚、閭が性で丘胤が名という扱いになっているが、実は閭丘が性で胤が名のようだ。宮内省図書寮が蔵する宋刻「寒山詩集」では、そうなっているそうな。鴎外は資料を徹底的に調べる小説家だそうだが、この作品に関してはほとんど参考書を見ずに書いたという。ここでは作品にならうことにしよう。
閭は、台州の主簿に任命された。主簿とは、日本の県知事くらいの官吏だという。長安から台州へ旅立とうとした時、頭痛を患う。そこに乞食坊主が訪れた。閭は、科挙を受けるために儒学を勉強したことがあるが、仏教や道教を学んだことはない。僧侶や道士を尊敬はしているが、何か高尚そうなものというぐらいで盲目的に尊敬している。鴎外は、盲目な尊敬を皮肉る。
「全体世の中の人の、道とか宗教とかいうものに対する態度に三通りある。
自分の職業に気を取られて、唯(ただ)営々役々と年月を送っている人は、道というものを顧みない。これは読書人でも同じことである。勿論書を読んで深く考えたら、道に到達せずにはいられまい。しかしそうまで考えないでも、日々の務めだけは弁じて行かれよう。これは全く無頓着な人である。
次に着意して道を求める人がある。専念に道を求めて、万事を抛つこともあれば、日々の務めは怠らずに、断えず道に志していることもある。儒学に入っても、道教に入っても、仏法に入っても基督教に入っても同じ事である。こういう人が深く這入り込むと日々の務めが即ち道そのものになってしまう。約(つづ)めて言えばこれは皆道を求める人である。
この無頓着な人と、道を求める人との中間に、道というものの存在を客観的に認めていて、それに対して全く無頓着だというわけでもなく、さればと言って自ら進んで道を求めるでもなく、自分をば道に疎遠な人だと諦念(あきら)め、別に道に親密な人がいるように思って、それを尊敬する人がある。尊敬はどの種類の人にもあるが、単に同じ対象を尊敬する場合を顧慮していって見ると、道を求める人なら遅れているものが進んでいるものを尊敬することになり、ここに言う中間人物なら、自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。そこに盲目の尊敬が生ずる。盲目の尊敬では、偶(たまたま)それをさし向ける対象が正鵠を得ていても、なんにもならぬのである。」
坊主は、水一杯の呪いにて頭痛を直して進ぜようと、水を口に含み頭に吹きかけると頭痛はすっかり治った。この乞食坊主が天台国清寺の豊干(ぶかん)である。閭は、台州には会ってためになるような偉い人がいるかを尋ねた。豊干は、拾得と寒山の二人の名を挙げた。拾得は普賢という人物で、寒山は文殊という人物であると。
閭は台州に赴くと、さっそく国清寺へ出かけた。寺では、道翹(どうぎょう)という僧が出迎えた。豊干のことを尋ねると、行脚(あんぎゃ)に出ていて帰らぬという。更に、拾得という僧のことを尋ねた。道翹は不審に思いながら、よくご存知で!あちらの厨で寒山と火にあたっていると答えた。二人に会えるとは願ってもない。拾得は、豊干が松林の中から拾ってきた捨て子で、今では厨で僧たちの食器を洗う仕事をしているという。寒山は、国清寺の西方にある寒巌という石窟に住んでいて、拾得が食器を洗う時に残った飯や菜を貰いに来るという。二人は痩せてみすぼらしい姿をしていた。閭は二人のもとへ近づき、恭しく礼をして自己紹介をした。寒山と拾得は顔を見合わせ、腹の底からこみ上げてくるような笑い声を出し、駆け出して逃げた。「豊干がしゃべったな!」

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