2012-07-22

"字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ" 太田直子 著

著者は千本余りの字幕翻訳を手がけ、「ヒトラー 最期の12日間」にも「日本語字幕 太田直子」とその名を見かける。
日本で初めて映画に字幕がついたのは1931年、「モロッコ」(1930年、米)だったそうな。字幕の名台詞といえば「カサブランカ」のあのシーン...「君の瞳に乾杯!」Here's lookin' at you, kid! ...瞳という単語はどれ?などと野暮なことは言いっこなし!だそうな。
字幕翻訳は普通の翻訳とは違い、台詞の時間内にしか訳文が出せないので、要約にならざるをえない。人が精神空間に描く文面のイメージは、おそらく人の数だけあるのだろう。とても国語辞典などで規定できるものではない。意訳すれば字幕屋の感覚に委ねられ、マッチしない翻訳が目につくのも仕方がないか。
字幕制作では、一秒四文字を原則にするという。その姿勢は、細かい文章にこだわり、微妙なニュアンスの抜け落ちも許さず、ひたすら辞書を引き倒す。言葉の妙というものに憑かれる姿は、ある種の職業病か。手がける言語の幅も凄まじい。主要五ヶ国語はもちろん、アラビア語、ヘブライ語、トルコ語、インドネシア語、マレー語、タミール語、タイ語、ベンガル語、モンゴル語、アルメニア語、グルジア語、アイスランド語、スワヒリ語... これだけでも、字幕の仕事が単なる翻訳の域に留まらないことを想像させる。言語は、単なる伝達機能だけでなく、民族的、文化的要素の強いものだから。「この映画を日本で是非紹介したい!」という熱意が、字幕屋の魂をくすぐるようだ。そこには専門的で言語学的な話はあまりないが、字幕屋というまったく別世界に生きる現場の愚痴が聞けるのは貴重である。字幕屋は、いつも日本語と外国語の狭間で身悶えているという。言葉を扱う仕事に絶対的な正解はないのだから。「映画翻訳者は、言うならば、言葉の詐欺師」だそうな。それも、観客を幸せにする「善なる詐欺師」であると...

最近、「The Alfred Hitchcock Hour」(ヒッチコック劇場)に嵌っている。もともと30分のミステリーを1時間枠に拡大したもので、全100話ぐらいありそうか。有名な俳優たちの若き姿が観賞できるのもいい。結末はだいたい煮え切らないが、それがたまらない。ラストの瞬間だけのために、長い前置きも隅々まで気が抜けない。もっとも前戯は大好きな質ちだから問題なし。ただ、不思議なことに、重要なシーンではあまり翻訳されない。貴重なキーワードが視覚効果によって登場する場面でも、あえて字幕を入れない。ヒッチコック映像を存分にお楽しみください!と言わんばかりに。まさにミステリー!こういう作品を観ていると、映画翻訳はあくまでも裏方であることが実感できる。
翻訳はもともと作品には組み込まれないもので、存在感を強調すると作品そのものを壊しかねない。しかし、近年の風潮では、分かりやすく!という要求が強くあるという。売りやすく!と言った方がいいかも。不景気が続くと、あらゆる業界でありがちな傾向で、出版業界では字数の詰まったコッテリした本を嫌う傾向がある。護送船団式販売戦略を繰り返せば、多様なニーズが埋もれ、真の愛読者は選択肢を失うだろうに。前提される知識は観賞者によっても様々で、平均的なところを狙っても社会の多様化に対応できない。実際、その台詞からその翻訳はないだろう!と思わず呟くことがある。逆に、惚れ惚れする翻訳にも出くわす。翻訳者自身が納得できないこともままあるという。何をやっても賛否両論がある。ネット社会ともなれば、見知らぬ者同士が安易に共闘して罵声を浴びせかける。匿名が群衆化すると恐ろしい。おまけに、その奔流に目をつけた大手メディアが便乗しやがる。最前線で活躍される方々は、なんと不平等な社会的責任を背負わされていることだろう、と同情しつつ、この記事も匿名のようなものか。
著者は、分かりやすくし過ぎると、日本語力の低下を招くと指摘している。確かに、想像力を働かせる機会を奪うかもしれない。分かりやすいというだけで説得力を持つこともあるのだけど。だいたい高尚な芸術とは分かりにくいもので、観賞者の方から高みに登って行くしかあるまい。製作者のこだわりは、素人には気づかない細部にまで及ぶ。これが職人気質であり、プロ意識というものであろう。
「ヒトラー 最期の12日間」で言えば、シュペーアという人物像の知識がないと十分に味わえない。そこで、登場するなり「真打のご登場」と字幕されるのはなかなか。難しいシーンを、いちいち字幕で説明していたら色褪せてしまう。すべてを分からせる必要はないし、そもそも不可能だ。そこで観賞者は、映画をきっかけに知識を求めて文献を漁ったり、その時代の小説を読んだりする。これも映画の余韻の楽しみ方の一つと思っている。字幕は、そのヒントを匂わせてくれればいい。ただ、優れた字幕が空気のような存在だとすれば、悪い字幕ばかりが目につくことになる。字幕屋とは、批判に曝されるばかりで、なかなか評価されない虚しい職業のようだ。

1. 活弁
映画翻訳には、字幕や吹替の他に「活弁」というものがあるそうな。活弁とは、活動写真の弁士のこと。無声映画の時代、ストーリーを解説したり、俳優の代わりに喋ったりする。1920年代まで映画は音声がなかった。画面いっぱいに文章が出て、説明やセリフが捕捉される。無声映画の上映中、映画館は静粛になる。その退屈感に対して、BGMや語りが挿入される。やがて弁士は講談師のごとく、大袈裟に演出して盛り上げていったという。弁士の語りが、上映中ほとんど切れ目なく続くとなると、映画館専属の名物弁士なんてものも現れたことだろう。どちらが主役かも分からないほどに。

2. 勝手なキャラづけで失敗
字幕では、まず登場人物の一人称を決めるという。「わたし、オレ、ボク、おいら」を使い分けるだけでも、人物のイメージを変えてしまう。英語だと I、ドイツ語だと Ich で済むところが、一人称を老若男女で使い分ける言語も珍しい。同じ人物が、公私で「わたし」と「オレ」を使い分けたりする。ちなみに、「わたし」を「私」とは書けないそうな。正式な訓読みは、「わたくし」だから。この制約は辛そう!
インドネシア映画「青空がぼくの家」に字幕を付けた時の失敗談を紹介してくれる。貧しい家庭の父親が子供を叱る場面で、下品できつい言葉遣いにすると、専門家から極貧生活をしているが教育熱心な親で、乱暴な言葉遣いではなく論理的で穏やかな言い方をしている、と指摘されたという。「生活水準が低い = 下品、乱暴」という偏見があったことを反省している。
また、ナイジェル・マンセル(F1ドライバ)の言葉を翻訳した時、理知的なイメージを与えてしまったとか。ライオンハートこと、レッドファイブのおっさんを。

3. 禁止用語
言葉を公に扱う仕事では、禁止用語は付き物。本書は、作家筒井康隆氏の「断筆宣言」を紹介してくれる。1993年、同氏が国語の教科書に取りくんだ時、「てんかん」という病名にクレームがついたそうな。これを禁止用語にされると、かなり知識が狭められる。ドストエフスキー、ルイス・キャロル、ゴッホなど偉人にもその症例は多く、シーザーの映画では痙攣シーンがある。
「白痴」も、ずばりA級禁止用語だそうな。ドストエフスキーや坂口安吾も否定されるのか?
大河ドラマで「片手落ち」という台詞に視聴者からクレームが出たのは、有名な話。片手を失ったり、生まれつき片手のない人たちを傷つけるとして。そうなると、「片親」も「片目のジャック」も怪しい。「一本足のかかし」も?「一本足打法」も?
「狂う」も忌み嫌われるという。「時計が狂っている」なんて表現も怖いと。「未亡人」も際どいらしい。あるPTA筋では「子供」もダメというところがあるとか。「供え」の意味で、人身御供をイメージさせるのかは知らんが、「子ども」と書くそうな。自治体によっては、「害」を嫌って「障がい者」と書くところもある。身体的なハンディを指摘するなら「チビ」もダメか。「黒人」を気を使って「アフリカ系アメリカ人」と表現する書籍をよく見かける。「ニグロ」もよく見かけるけど。一方で、「デブ、ハゲ、バカ、アホ、クズ、カス、ボケ、ブス...」は野放しだそうな。
ちょっとした失言で袋叩きにする風潮がある。中には政治団体と化す連中も珍しくない。タブーの勢いが、逆に差別を助長するとは。心地良い言葉ばかりを集めれば、裏で陰険さを増し、アングラ精神は地下でますます活発化するであろうに。

4. 英会話恐怖症
非英語圏の映画では、だいたい英訳台本がついてくるという。意外なことに、著者は英会話恐怖症であることを明かす。昔々、字幕翻訳のプロが数人で足る時代はみんな英語の達人だったという。今ではそうでもないらしい。
実際、英語の先生が外国人とまともに会話できないことも珍しくない。英語の論文ではしっかりと記述できても、会話となるとてんでダメという技術者も珍しくない。会話で辞書を引くのは実践的ではないし、文脈や文法をあまり気にせず、知っている単語をどしどし喋って、経験を積み重ねる方が手っ取り早い。会話で重要なのは、まず恥を捨てることであろうか。
言語学では、生まれて数年で母国語の発音に染まり、母音や子音の判別能力がほぼ確定するという説がある。となると、日本人が、L と R の聞き分けができないのも自然であろう。そういえば、日本人は、言葉が喋れればだいたい読み書きもできるだろう。だが、西欧人は、言葉は喋れるが読み書きができないという話を耳にする。映画のシーンでもよく見かける。日本語の音素が五十音と直接結びつくことが、言語習得で記述を重視させる傾向にあるのかもしれない。
「しかし、仕事で英文読解をやる以上、知らない単語を推測で処理するわけにはいかない。少しでも不安な単語はむやみやたらと辞書を引いて確かめるのが職業倫理。やはり、わたしの英語力向上は望めないのだった。」

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