2012-07-29

"字幕の中に人生" 戸田奈津子 著

世界各国で上映される外国映画のほとんどは吹替で、字幕が主流なのは日本だけだそうな。吹替版の方がコストが高くつくため、仕方なく字幕版を放映する国もあるらしいが、そんな理由とは関係なく日本人は字幕を好むという。本物志向が強いのかは知らん。来日した俳優たちも自分の声が流れることを喜ぶという。なるほど、俳優にとって台詞は命というわけか。文化交流の場では、相互の文化をなるべく温存させたままの方がいい。もちろん歩み寄りも必要だが。どちらかに完全に染まるよりは良い傾向であろう。日本語の良さを知る上でも外国語に触れるのは悪くない。人類は完璧な言語を持ち合わせないのだから。

著者の名は洋画を観る人なら一度は目にしたことがあろう。第一人者だけあって仕事量も半端ではない。それだけに違和感のある翻訳を見かけることもある。だが、字幕はあくまでも裏方。著者流に言えば、透明の字幕!ちらっと横目でキャッチするだけで、良い字幕は素通りし、悪い字幕ばかりが目に留まる。因果な商売よ。厳しい批判もあろうが、そういう人たちも字幕という仕事の難しさをある程度は理解しているのだろう。批判する文章が間抜けな日本語では締まらないのだから。
ちょうど今、「Shall we Dance?」を観ながら記事を書いている。「Shall we ダンス?」ではない。ハリウッドのリメイク版で、最後に「日本語字幕 戸田奈津子」と出る。本筋は忠実に再現されていて、あまり字幕に頼らずに済む。むしろ邪魔か?表現がストレートなのは国民性の顕れであろうか。オリジナルの場面が随所に思い浮かべられるものの、違った味わいがあるのはシナリオがしっかりしている証しであろう。そして最後の方...ダンス教室に垂れ下げられたメッセージに、電車の中からリチャード・ギアが笑みを浮かべる...フレーズはもちろん!"SHALL WE DANCE Mr ...?"。その字幕が「シャル・ウィ・ダンス?...」では、なんとも間の抜けた感がある。日本語にしても座りが悪いだろうから、せめて「Shall we ダンス?」か。いっそのこと省いたら...
まぁ、こんな些細なケチをつけたところで、職人芸に敵うはずもない。どんなに長い台詞も「一秒四文字、十字 x 二行」の枠に収める技は、まさに芸術!字幕のルールに則りながらも、「例外のないルールはない!」と断言するところに心が動く。台詞は芸術を成す要素の一つだけに、比喩、ジョーク、ダブルミーニングと、あらゆる技法が凝らされる。遠まわしの言葉は、それだけで歴史や文化が暗示される。単純で思わせぶりなフレーズほど翻訳は難しいはず。リズムも重要な要素で、詩的な感覚も必要であろう。
さらに、映画のジャンルは多種多様で、政治、法律、軍事、医学、科学、テクノロジー、スポーツ、音楽、美術...森羅万象を一人で相手にするという。
「字幕はいうに及ばず、翻訳というものに取り組めばすぐにわかることだが、『語学ができる』ということはスタート・ラインで、決め手は日本語である。『外国語に自信がある』だけでは足りない。日本語の力が問われる。」
とても直訳では通用しそうにない世界。言語が精神の投影であるならば、字幕屋の仕事とは心の和訳ということになろうか。

ただ、泥酔した社会の反抗分子は、第一人者やカリスマ的存在というものをあまり信用しない。頼りきって思考を硬直させる恐れがあるからだ。本人が称さなくても、周りから持ち上げられることもあろう。特に、字幕翻訳者は固定化されている印象がある。言葉には個性が露われ、母国語でも同じ言葉を喋る人はいない。それほど多様化した世界なのだから、もっと多くの人が関わってもよさそうなもの。宣伝で来日した俳優たちに固定された翻訳者が同行するのにも、形式化されているようで違和感がある。翻訳が裏方ならば声だけでもよさそうなものだけど、せめて俳優の年齢やキャラクターに合った翻訳者を同行させるとか、そんな演出があってもいい。業界規模が小さいから仕方がないのかもしれないけど。
「プロを育てる積極的な努力はしないが、仕事を頼んでも安心なプロの出現はいつでも歓迎する業界である。」
愚痴も鏤められ同情するところもある。翻訳は、まさに技術。そもそも日本には技術屋さんに冷たい風潮がある。いや、世界的傾向であろうか。安くこき使われ、安く叩かれる。技術屋さんが団体ごと、国外で拾われるケースも珍しくない。そして、技術大国は空洞化していくわけよ。
字幕は、大収益をあげた映画であれ、宣伝費も回収できない映画であれ、翻訳料の単価は同じだという。しかも、権利まで配給会社に持って行かれ、後にテレビ放映されようが、DVDになろうが、お構いなし。映画翻訳では、印税のような方式は絶対に認められないという。あれ?出版翻訳は印税でなかったけか?実は、技術屋さんの給料は印税方式にしてほしいと、飲み屋で愚痴っていた時代があった。建築士がどんなに優れたデザインで集客力を見せても、テナント管理者が儲かるようにできている。電子機器がどんなに爆発的にヒットしようが、設計者の単価は同じで、依頼主が儲かるようにできている。特許で儲けるのは、発明者ではなく特許管理者だ。あらゆる業界で下請扱いされ、泣かされるようにできているわけよ。はぁ...

1. 名台詞と名訳
一つ区別しなければならないのが、「名せりふ」と「名訳」の違いだという。「君の瞳に乾杯!」なんてのはまさにその類いか。日本語台詞の方が独り歩きすることもある。字幕屋冥利に尽きるというやつか。

「ミラーズ・クロッシング」...
"If you can't trust the fix, what can you trust?"
「八百長を信用できなきゃ、何を信用できる?」... んー、いい!

「めぐり逢い」"An Affair to Remember"...
"Winter must be cold for those with no warm memories."
「暖かい思い出のない人の冬は、さぞ寒いことだろう」... たまらんよ。

今や古典となった「第三の男」...
"I shouldn't drink it. It makes me acid."
「今夜の酒は荒れそうだ」と訳したのは秘田余四郎氏だという。acid には酸味の他に気難しいという意味もある。

映画に限らず、自分の制作物をカットされると気分が悪いだろう。「ライトスタッフ」の劇場公開の際、配給会社が上映時間が長すぎるのでカットすると言った時、もちろん映画監督にお伺いを立てるわけだが、カウフマン監督は「クロサワが切って下さるなら諒承する」と答えたそうな。ちなみに、黒澤明は「自分の映画を切るならフィルムを縦に切れ」という名言を吐いたとか。
ところで、翻訳者が映画の題名まで考えることはないという。これは意外だ。配給会社の宣伝部の仕事だそうな。"BASIC INSTINCT" を「氷の微笑」としたセンスには感服する。"WATERLOO BRIDGE" を「哀愁」とするのもなかなか。"Bonnie and Clyde" を「俺たちに明日はない」としたのが良いか悪いか分からんが、既にイメージ化されている。最近は、題名をあまり意訳しないように思える。ネタ切れかどうかは知らん。「ダイ・ハード」なんて、ずばりそのまま。「セント・オブ・ウーマン」は、副題で「夢の香り」とつけたという。なるほど、副題もテクニックというわけか。観賞者に調べる楽しみを与えるのも、テクニックのうちかもしれん。好奇心とは、チラリズムから生じるものであろうから。

2. 卑猥語と国民性
60年代から70年代には、どの辞書にも載っていない卑猥語の洗礼を受けたという。

「風と共に去りぬ」のあのラストシーン。
"Frankly, my dear, I don't give a damn."(はっきり言おう。オレの知ったことか。)

当時、damn は宗教団体から吊るし上げを食らったという。そこで、二通りの撮影をする。
ソフト版では、"Frankly, my dear, I don't care." というらしい。
同性愛をテーマにしようものなら宗教団体から袋叩きにされる時代。fuck や virgin もヤバい!「インディアン」という言葉が「ネイティブ・アメリカン」に取って代われば、西部劇も色褪せる。冷戦構造が終結すれば、ソ連という仮想敵国を失い、スパイ映画も迫力を失う。台詞は当時の社会風潮の表れでもある。
「日本の社会では蔑視や差別をなくすために、言葉そのものを排除しようとするのに対し、アメリカ社会では言語や行動に表れる現実をはっきり見据え、そのなかで考えてゆこうという風潮がある。」
日本は臭い物に蓋をするが、アメリカは臭すぎて蓋もできないか。いや、陰険かストレートの違いか。

3. ハリウッド映画と字幕
アメリカでは、伝統的に字幕が嫌われるという。ハリウッド映画では、なんでも英語を喋らせる風潮がある。ドイツやロシアを舞台にした歴史物ですら英語の台詞が流れる。「ミッドウェイ」で、いきなり山本五十六が英語を喋るんでは、なんとも締まらない。多民族国家では吹替の方が受け入れられやすいのか?映画産業が最も盛んな国だけに、外国映画に触れる機会も少ないのかもしれない。
「ダンス・ウィズ・ウルブズ」では、インディアン語がかなり問題になったという。西部劇でインディアンが英語を喋れば、それだけで色褪せる。ケビン・コスナー監督はこだわりを見せ字幕を用いた。そして、「アメリカ映画史上、例を見ない画期的な冒険であり快挙」と評されたという。
近年では、クリント・イーストウッドが硫黄島を舞台にした映画を日米双方の視点から描いた。当初、日本兵に英語を喋らせればいいという意見もあったと聞く。だが、映画監督のこだわりは納まらず、「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」の二部作を撮った。言語文化というものは、英語を喋ればグローバル化の波に乗れるなんて単純なものでもなかろう。
ところで、日本の字幕の技術はかなり高いものがあるそうな。東京国際映画祭では、日本映画に英語字幕が義務づけられるという。その字幕のタイミングが酷くいい加減で、短い字幕が延々とスクリーンに出たりするらしい。せっかくの芝居のリズムも台無しで、その点、日本語字幕はタイミングが正確で心地良いという。

4. 字幕評論
「一秒三文字から四文字」という法則は、この道の先輩たちが試行錯誤のすえ編み出したものだという。人間の能力は、耳で聞くのと読むのとで明らかにスピードが違う。時間に制約があれば、意訳は当然の処置か。ただ、主観芸術だけに、意訳のやり過ぎは目障りとなる。映画評論家の中には、一字一句残さず訳すべきだという意見もある。それも一理ある。映画監督の思いは、台詞の隅々にまで行き届いているはずだから。だが、台詞通りに訳せば、字幕が溢れるというジレンマが襲う。字幕への批判は原文至上主義の立場から生まれてくるという。確かにそういう立場もあろう。だが、それだけだろうか?直訳では言葉の力を失い、ストーリー性を欠くことは、ほとんどの人が知っている。本書の言い分も分かるけど。昔は、映画館に行くだけでもお金がかかるし、一度しか観ない人が多数派であったろう。字幕という手段を使って、ほんの一瞬で内容を把握させて幸せにしたい、と配慮されるのはありがたい。その点、吹替の方が楽か。映画評論家が批評できるのは、何度も観れる贅沢な環境を持っているからだという。
しかし、今はちと時代が違う。映画館で公開されて数カ月もすればテレビ放映されるし、DVDもある。分かりにくいシーンを何度も観て味うことができ、目の肥えた観賞者が随分と増えたことだろう。したがって、今の字幕は、分かりやすくするところから、少し重点が移動しているのではなかろうか。英語に馴染む機会も増え、意訳は余計に目立つ。なるべく観賞者の主観に委ねた方がいいだろう。言葉が時代とともに変化するのだから、字幕も変化せざるを得ない。にもかかわらず、字幕が一度つくと、作品に組み込まれるかのように、ずっと付きまとう。歴史を紐解けば、字幕があるだけでもありがたいという時代もあったろうに。人間はますます贅沢になる。これが、技術文化の原動力ではあるのだけど。

5. ほされた「フルメタル・ジャケット」
スタンリー・キューブリック監督は、究極の完全主義者と言われるそうな。公開される国でのポスターのデザイン、宣伝文句、宣材のすべて、フィルムの現像の焼き上がりのチェックまで、すべてに目を通すという。字幕原稿では、逆翻訳を要求するのだとか。そのこだわりはプロ中のプロか。逆翻訳では、文字どおりに英語を並べることを要求するという。
"Go to hell, you son of a bitch!" に「貴様など地獄へ落ちろ!」と字幕をつけたとする。英語では、you しかないところを、日本語では、君、お前、てめぇ!、貴様!、こん畜生!くそったれ!...方言まで入れると、きさん!...これに対して、おいらの極貧ボキャでは、Hey You! Fuck You! ぐらいしか思いつかん。
著者は、son of a bitch は、「貴様」で十分表現できていると反論する。確かに、逆翻訳すれば貴様や畜生などの汚い言葉は、you で抽象化される。そうなると、翻訳したものを逆翻訳して、元の文章に戻すなんて至難の業か。いや、不可能かも。
そういえば、アメリカ人に日本語の表現は美しく、英語は汚いと言われたことがある。それは逆だろうと反論したけど。日本語は、相手を蔑視する人称表現が豊富で、わざわざ具体的に説明する必要がない。対して、人称代名詞が貧弱だと具体的に説明する必要がある。「ケツの穴でミルクを飲むまでしごき倒す!」なんて強烈な台詞も登場するわけだ。日本語では到底思いつかない発想だが、それはそれで感心させられる。ちなみに、「ケツの穴に手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタ言わせたろか!」はあくまでも関西語だ。
言語は民族文化そのものであり、歴史を背負っている。そもそも無理やり言葉を置き換えること自体無理があるのかもしれん。
「オリジナルのせりふをあくまで尊重しつつも、映画をトータルに楽しむために、この『余分な作業』は負担にならない程度のものであってほしい。そこにはおのずと正しいバランスがあるはずで、そのバランスに忠実であることが、字幕をつくる者のもつべき姿勢であり、責任であると思う。」
バランスされる位置も、時代とともに変化していくだろうけど。
結局、「フルメタル・ジャケット」の翻訳は、映画監督の原田真人が手がけることになった。しかし、人間社会には、大御所と意見が合わないだけで、恥をかかされたと煽る風潮がある。特に日本社会はその傾向が強い。黒澤映画「影武者」でも、勝新太郎がほされたことが大々的に報じられた。人を貶めて話題にする行為ほど愚かなものはあるまいに。そういえば、ワイドショー文化は日本発だとオーストラリア人に指摘されたことがある。
それはさておき、映画芸術が、映画監督のものであることは言うまでもない。全責任を背負うから自由に描く権利が与えられる。それでほされたからといって、なんのことはない。一つの芸術を共同で制作するからには、芸術家同士で意見を戦わせるのは当然である。

6. 酒の映画
映画を観終わった時に疲労感が残るのは、字幕が原因という場合も多い。字幕のおかげで消化不良なんてことも。これを観客は字幕のせいとせず、映画が難解だと誤解するという。ただ、ちょっと難しいぐらいの方が長く楽しめそう。
長い台詞を忠実に再現した事例も紹介してくれる。「シンドラーのリスト」でワインを注文するシーン。字数が厳しいにもかかわらず、「シャトー・ラトゥール '28年物、シャトー・マルゴー '29年物、ロマネ・コンティ '37年物」と台詞どおりに字幕をつけたという。強制収容所でユダヤ人が飢え細っているところに、ナチ高官の贅沢三昧ぶりが伝わる。
一昔前は、酒場で注文する台詞は「酒をくれ」で事足りたという。スコッチが好きかバーボンが好きかでも違った印象を与える。酒好きは、こういう台詞を観察している。著者の作品ではないが「エニグマ」で暗号解読に成功したシーン。犠牲が大きかったために、ご褒美にハーフボトル。ラベルには白馬の絵がちらり。ホワイトホースを飲みながら観る映画だとつくづく思う。ちなみに、先日プロジェクトのキックオフにハーフボトルの赤ワインを進呈したのは...特に意味はない。

1 コメント:

アル中ハイマー さんのコメント...

> 先日プロジェクトのキックオフにハーフボトルの赤ワインを進呈したのは...特に意味はない。

なるほど、ご指摘どおり血の色だ。しかも、どろどろした。... 奇遇だねぇ~

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