精神が自然物であるならば、精神空間において自由であってもいいはず。なのに、人工物である言語法則によって束縛を受けるのはなぜか?言語は、たかだか表現の道具に過ぎない。ところが、精神と強く結びつくと、恐ろしいほどの合理性を発揮する。民衆は言葉によって扇動され、言葉の力を持つ者が社会で優位に立つ。これに対抗して論理崇拝者は、言葉の反復性や同義牲、あるいは形容詞のような技巧を毛嫌いする。科学論文や技術論文に主観的な表現が少しでも混じろうものなら、まるで犯罪者であるかのように罵声を浴びせかける。酔っ払った天邪鬼はそんな批判にもめげず、ジョークの一つでも紛れ込ませなければ気が済まない。一方で文学作品では、感情的技法を積極的に用いる。それは、言語の持つ能力が論理性や客観性だけでは説明できないことを示している。
ところで、言語を研究するのに言語で記述するとは、なんとも自己矛盾に陥りそうな感がある。日本語を研究するのに英語で記述すればいいというものではない。言語があれば文化があり、文化があれば言語が生じる。言語の優劣を語るとは、文化の優劣を語るようなものであろう。ソフトウェア業界は用途に応じた合理的な言語を次々に編み出す。人工知能言語や数値演算言語やマークアップ言語などなど。あるいは、機械語のようにプリミティブな言語がある。だが、自然言語にはそんなものがない。
ただ、プログラミング言語には自己ホスティングという概念がある。その言語自身で処理系まで記述できる能力を持つわけだが、自然言語にもそうした試みが古くからある。すなわち、対象言語を上位から眺めるメタ言語的思考である。そして、自然言語がどこまでメタ言語となりうるか?これが問われることになる。つまり、言語の研究は精神の研究にほかならないのであって、精神の分析をメタ精神が行うに等しい。そりゃ、メタメタにもなろうよ!
「言語学」という分野がいつ誕生したかは知らん。その起源は古代ギリシアの弁論術や修辞学にまで遡るのだろう。現代言語学となると、20世紀のフェルディナン・ド・ソシュールで、構造言語学という分野になるらしい。ソシュールの思考には、ラングとパロールの分離がある。平たく言えば、コードとメッセージ、あるいは表現と意味を区別する。丸山圭三郎著「ソシュールの思想」では、パロールを能動的な個人的意思としていた。
さらに、ヤーコブソンは、ソシュールの言語モデルを乗り越えることを訴える。そして、コードとメッセージは相補関係にあり、分離不可能と主張する。量子論で言えば、粒子性と波動性の二重性のような関係になろうか。哲学で言えば、物質の最小単位は素粒子のような物的存在ではなく、固体と魂はけして分離できないモナド的存在ということになろうか。
このロシア人言語学者はプラハ学派に位置づけられる。プラハ学派とはソシュール系の構造主義言語学の一派。当時は青年文法学派、すなわち通時的に研究する方法論が優勢だったようで、その苦々しい思いが伝わる。彼は、共時性と通時性においても言語学の二重性を唱えている。構造主義といえば人類学者レヴィ=ストロースを思い浮かべるが、二人は第二次大戦から逃れてニューヨークで親しく交流したそうな。
また、ヤーコブソンは、ヨーロッパで逸早く音韻論の発展と確立に尽力した人物だという。本書にもその特徴がよく表れていて、コードを音素パターンとの関係から論じている。それは、子音と母音、音調の高低や長短、拍の強弱など、あらゆる音律的特性は二項対立の序列で成り立つとしている。言語の基本原理は、二項対立の選択と結合によって構成されるというわけだ。
言語の主な機能は、情報伝達の手段であることは疑いようがない。情報伝達を音波の観点から工学的に眺めると、サンプリングの概念を必要とする。ここでは、その原理を音素の変化とその序列に求めている。情報理論の父と呼ばれるクロード・シャノンは、著書「通信の数学的理論」で情報の本質はデジタルであるとの考えを披露した。デジタル信号は0と1の選択とその組み合わせによるデータ列で構成され、これも二項対立による離散的集合体である。現実に、分岐構造をもたないプログラミング言語はない。本書にも、シャノンの通信モデルとよく似た言語モデルが提示される。それは、言語伝達系における構成要素を、発信者、メッセージ、コンテキスト、コード、接触、受信者とするモデルで、しかも、符号化と復号化の概念が持ち込まれる。大きな違いは、自然言語では文脈依存性が強く、特に脈絡的な意味が生じることである。相対的な認識能力しか発揮できない人間にとって、何かを認識するには何かと対比する必要がある。時系列的に対比するか、空間的に対比するか。いずれにせよ、認識範囲を超えた領域で思考することはできない。となれば、思考を深めるためには認識範囲を広げるしかあるまい。音声の周波数スペクトルは認識能力とともに進化してきたのだろう。そして、究極の認識能力とは、無音ということになろうか。それがテレパシーなのかは知らん。ただ、高度な認識能力を持った知的生命体の社会は静かになりそうな気がする。
その帰結は...
人間認識は、対称性の原理を働かせながら、あらゆる階層レベルにおいて二元的主体を構築していることになろうか。その段階は、音素から音節レベル、言語レベル、そして行動レベルへと昇りつめる。所詮人間なんてものは、常に選択を強いられ、その結果を引きずりながら生きていくのよ。進学にせよ、就職にせよ、結婚にせよ、すべての選択は離散的であり、すべての選択を経験することは不可能だ。もし、すべてを経験しようとすれば、それは女性の数だけ愛のあるハーレムということになろう。きっと、そうに違いない!
1. 失語症と小児言語
失語症によって言語パターンが崩壊する過程は、小児が言語を獲得する過程と、まったく逆の順を辿るという。習得と喪失が鏡像を成すとは...成長と老化、そして痴呆症へ...年寄りのイライラは幼児化現象であろうか?老化が進むと、音素体系だけでなく、文法体系においても退行が見られる。固有名詞がなかなか思い浮かばず、「あれ」やら「それ」やらと代名詞を頻繁に使う。
失語症のタイプには二つあるという。選択能力が欠如し、結合能力が比較的安定している場合と、その逆の場合である。音素と意味は生活習慣の中で無意識に結びつけているが、どうやって生じたのだろうか?人間の思考は疑問から生じる。何か不確かな事に出会うと擬音めいたものを発声する。Who?, What?, When?, Where?, Why?, How?...ふぅ?わっ?うぇ?うぇぁ?わぃ?はぁ?...なんとなく幼児語じみている。
ところで、我が国の英語教育は、ひたすら翻訳機械のような法則性に仕向けられる。言いたいことを英語にするよりも、例題を翻訳することに努力が向けられる。翻訳機械は、内容を理解しないために文字どおりの直訳をする。だが、人間は言語から思惟する性質を持っている。文章にひとたび解釈が入り込むと、観察の道具と観察の対象との間で相補関係が生じる。言語を習得する場合、自分が何を言いたいかを表現する方が、はるかに実践的であろう。外国人を前にすると、特にそれを感じさせられる。プログラミング言語では、まず書いてみろ!と言われる。習うより慣れろ!だ。感覚的で経験的な性格の強い分野では、理屈よりも重要なものがあるのだろう。アル中ハイマーの英語力もある種の失語症であろうか。脈絡がない点では酔っ払いも同じで、単語を羅列して、ろれつが回らん!
2. 音韻論と音声学
言語分析では、複合的な発話単位を固有の意味を担った構成要素に分割し、更に意味を担う最小の媒介体や形態素を差別するに役立つ構成要素に解体するという。それは「弁別特性」と呼ばれる。弁別特性の基本には二項選択の対立と対比があり、これを「韻律特性」との関係から論じられる。韻律特性には、音調、強度、音量の三つの属性があり、すべて相対的な物理量として考察される。
さて、音韻論と音声学は似たような分野にも映るが、音声学では物理周波数に着目し、音韻論ではそれに内的認識が加わるという。音素には、音声の流れの中で存在が仮定されるものがある。西欧語に見られる摩擦音や無音といった現象は、日本語に慣れ親しんでいると不合理な特性にも映るが、発話のリズムを作る。また、音声には、語彙の表す情報以外に発話者の教養レベル、社会環境、年齢、心理などが表れる。実際、相手が特定できれば言葉の意味もイメージしやすく、初対面であれば人物像を勝手に想像したりする。テンポの違いで言葉のニュアンスも変われば、声の質や変化によって犯罪心理を分析する科学もある。恋の達人ともなれば、ウインク一つで語りやがる。真摯に!命がけで!などと発言し、重い言葉を軽くしやがる輩もいる。弁論術や修辞法を学ぶと、言葉が軽くなるのかは知らん。
弁別特性は音素という同時的な束に集結され、いかなる自由形式にも整数の音節が含まれるという。音節の中軸原理は、主に母音と子音の対比と、その反復性にあるという。反復特性を利用すれば、次に出現する音素の確率を予測しやすい。音素パターンが認識できなければ、言語習得の弊害にもなろう。日本語と英語の周波数帯が違うことも、大きな問題となる。周波数と意味を結びつけるという観点から、聞き流すだけで訓練になるという説もそれなりに説得力がある。ただ、認識能力とするためには、意識を能動的に作用させる必要があるだろう。
さらに言うなら、言葉が癒し系の音楽のようになる現象もある。ピロートークは穏やかに囁くからこそ効果がある。これを、意味よりも周波数が優先される重要な例として付け加えておこう。
3. 母音三角形と子音三角形
音節の唯一の普遍的な型は「子音 + 母音」であるという。母音は音響レベルにおいて明白で、音声器官が周波数スペクトルにおいて最大エネルギーを発する。エネルギーの大小の両極が母音と子音に現れる。小児の最初期段階で鼻子音と口子音の対立を習得するという。鼻歌がでるのも、幼児精神への回帰であろうか?
さらに、小児言語の初期段階で、pa と a、あるいは pa と ap の音が区別されるという。音素の基本パターンでは、高い集中したエネルギーの極 a が、低いエネルギーの閉鎖音 p,t と対比するという。p と t は、周波数スペクトルの優劣、あるいは低音調と高音調の極として対立する。そして、音素パターンの基底は a を頂点とする三角形 a,p,t で示される。
次に、エネルギーの上方集中と下方集中で二つの三角形に分裂する。上方が母音周波数帯で、下方が子音周波数帯である。辺 ap の間に u、辺 atの間に i、そして、底辺 pt と a の垂線の間に k を配置して、母音三角形 a,u,i と子音三角形 k,p,t を分ける。
音素の最少パターンは、低音調と高音調、集約と拡散の特性において区別される。音声のスペクトラム、すなわち周波数分析に「フォルマント構造」というものがあるらしい。それは、各ピークによって対立させる考え方である。ピークは、子音的と非子音的、鼻音的と口音的、エネルギーの集約的と拡散的、時間的急激性と連続性、粗擦的と非粗擦的などの両極で表される。
4. 音素相と文法相
本書は、能記体と所記体の二重性で議論すべきだと主張する。能記とは言語記号の音声面、所記とは言語記号の意味面。ソシュールの用語ではシニフィアンとシニフィエと呼ばれるやつで、知覚相と解釈相とでもしておこうか。
人が文章を組み立てる時、単語を最小単位として思考しているのだろう。しかし、単語の序列をさらに分割すると、それ自身が意味を担う最小の単位に辿り着く。それは形態素と呼ばれるもので、複数形や接辞のように何かの単位と結びついて機能するものもある。本書は、「最小形式単位」と呼び、意味最小体として議論している。
音素自体が弁別特性の集合体であるならば、意味最小体もまた弁別特性の集合体ということになろう。述語の重要性は、それ自体の意味ではなく、使われ方や例題として頭の中に構成されているような気がする。だから、単独で示された漢字の読みが分からなくても、小説の中では自然に読めたり、意味を解したりするのだろう。波長の合う小説に出会えば、数行読み飛ばしても文章が頭の中で再構築されるような気がするし、推理小説ともなるとページ単位で立体的に再構築されるような気がする。逆に、文章構成や語彙に慣れない文献に出会うと、読む速度が極端に落ちる。これも失語症のような現象であろうか?専門書ともなると、自分の専門なのに1ページ読むだけで一日がかりだ。これは、ちと意味が違うかぁ...
西欧人にしてみれば、日本語の文章を分割するのは難しいだろう。なにしろ単語の区切りがないのだから。句読点があるにはあるが、厳密な規則性はなく、執筆者の気まぐれに委ねられる。適当に漢字が入っていると読みやすい場合があるが、わざわざ平仮名だらけにして読みづらくする達人もいる。
言語は感化されやすいところがある。特許を書くと、しばらく特許調で喋ったりする。しつこく主語を付け、くどいほど時制を並べたりと、まったく日本語っぽくない話し方になり、変な外国人と間違えられることも。今日の日本語にしても、西洋語あるいは翻訳語に毒されて、純粋な日本語が分かる人もあまりいないのだろう。こうして記事を書いていても...とりあえずアル中ハイマー語とでもしておくか。誰一人として同じ言葉を喋っている人はいない。にもかかわらず互いに通じるのだから、言語法則だけでは説明できない何かがある。いや、通じていると信じているだけのことかもしれん。
5. 詩学と芸術
言語メッセージを芸術たらしめるものは何か?言語現象が、空間と時間において精神現象へ昇華させるものとは?言語文化には、必ず企図的、計画的、規範的であろうとする一面があるという。芸術性で仕掛ける達人は、多重人格的な側面を見せ、どこか冷たい領域から眺めているところがある。これも、メタ言語的思考であろうか。
文学作品の問題は、共時態と通時態の二群から成るという。歴史的な文学作品が、通時的だけとは言い切れない。古典芸術が再解釈されるとなれば共時的な研究にもなりうる。古典芸術が現代風に蘇ることはよくあるのだから。美だけを強調しても芸術美は生じない。美は醜との対比から現れ、強調は静寂との対比から生じる。この対称性には、二重性のコードから生じる何らかのメッセージが芸術家によって託されている。DNAコードの二重螺旋構造にも、何らかのメッセージが託されているのかもしれん。誰が託したかは知らんが。
「詩的機能は等価の原理を選択の軸から結合の軸へ投影する。」
詩学では、等価性は序列の構成手段へ昇格されるという。一つ一つの音節が、同じ序列の中のすべての音節と等価にされる。長音は長音どうしで、短音は短音どうしで、互いに等価の関係を保つ。対立する言葉であっても、音節において等価となる。そこに居心地の悪い語は一つとして存在しない。音律という自然の秩序が保たれるがごとく、あるいは暗黙の秩序とでも言おうか。反復もまた居心地がいい。詩だということを宣言しなくても、明らかに詩となる。
音文彩は、精密に規定することができるという。音素序列の諸切片の織り成す高い卓立と低い卓立との二項対比において、少なくとも一組を利用していると。音量式韻文では、長音節と短音節が卓立の高いものと低いものとして対立する。中国の古典漢詩では、抑揚をもつ音節(仄音: 曲がった声調)と抑揚のない音節(平音: 平らな声調)とが対立するという。声調式作詩法では、高声調音節主音と低声調音節主音の組み合わせで構成されるという。人の感覚は、明るさ、鋭さ、固さ、高さ、軽さ、速さ、高い調子などを経験的に一系列に関連付ける。これらに、暗さ、鈍さ、柔らかさ、低さ、重さ、遅さ、低い調子などを対比させる。低音調性と高音調性が夜と昼をイメージさせる。こうした精神現象には普遍法則があるのかもしれない。
韻律学の本質として、ウィムサットやビアズリーの言葉を紹介してくれる。
「一つの詩には多くの吟誦が存在し、互いの差異は多様である。一つの吟誦は一個の事象であるが、詩そのものは一種の永続的事物でなければならない。」
詩脚、頭韻、脚韻などの詩的な約束事を音の面だけに限定すると、経験的な裏付けを欠く机上の空論になる。等価の原理の序列への投影は、もっと深い意味でなければ趣を欠くことになろう。詩は二項的な韻文形式というわけだが、それだけに言語的に自由がなく強制される。秩序で強制されながら精神を解放するとは、奇妙な作法である。自由と強制もけして分離できない二重性ということであろうか。
2012-07-08
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