2012-07-15

"言語音形論" Roman Jakobson & Linda R. Waugh 著

「一般言語学」の余韻を楽しみながら、ヤーコブソンをもう一冊。ただ、フォルマント構造体を理解せずに読むのは、ちと辛い。国際音声記号とやらと睨めっこしながら読み進めるものの...
口の形から発する周波数分析は、物理学的で音響工学的。摩擦音、鼻音、歯音、唇音などからスペクトルエネルギーの集中と拡散が考察される。その対象は、主要五ヶ国語はもちろん、アフリカ諸語、マヤ語、ヒンドゥースターニー語、エスキモー語、チェロキー語など世界の隅々にまで及び...なんと、グロソラリアまで!
口の発する音形のバリエーションには限りがないのか?口の形には個人差があり、発する周波数も年齢とともに変化する。おまけに、世代間で言葉が違えば、地域には方言なんて現象もある。時間的変化と空間的変化の二重性は、まるで時空の世界。もはや誰一人として同じ言葉を喋っている者はいない。ただ一つ、意思疎通で拠り所にできるものは、すべての音形はなんらかの二項対立によって生じるということぐらいか。
さて、ここで素朴な疑問がわく。人間は、なぜ10進数で物事を考えるのだろうか?年齢から借金まで、どっぷりと日常生活に馴染んでやがる。しかも、世界共通!これだけ言語が多元化しているのに。うちは3進数ですよ!いや、うちは6進数ですよ!なんて国があってもよさそうなもの。年齢を16進表記したいと言い張っても、戸籍では認められない。二項対立、すなわち対称性が宇宙法則だとすれば、2のべき乗や対数の方が自然のはず。現実に、コンピュータは2進数で計算し、技術者は設計の便宜上16進数や8進数で思考する。一方で両手の指で数えるならば、10の単位にも合理性がある。では、指はなぜ10本なのか?進化の過程で、10進数なんて中途半端な場所に居心地の良さがあるのか?確かに、テトラクテュスは三角形配列の中にある。いや、人間という種は宇宙法則に逆らう悪魔というだけのことかもしれん。

思考の領域ではすべてが二面的である。観念は二項的である。ヤヌスは批評の神話、天才のシンボルである。三角のものは、ただ神のみである。
...バルザック著「幻滅」より

ヤーコブソンは、言語の基本構造を「選択」「結合」であるとした。人間認識は、あらゆる思考の段階において二元的主体を構築し、それらの連係によって成り立っているというわけだ。プラトンは、対話篇「ピレボス」において、言語的(STOICHEIA)を分離と結合の対立性で示唆したという。絶対的認識を獲得できない知的生命体は、相対的な感覚を駆使しながら対称的認識を働かせるしかない。そして、対称性の原理を中庸の原理へと昇華させる。これが悟りの境地というものであろうか?思考の段階は、母音や子音などの音素から始まり、音節レベル、言語レベル、そして、行動レベルへと抽象度を高める。例えば、アルファベットは五十音に比べて数こそ少ないが、発音記号の視点から眺めると多彩である。音形が意味と結びついた時、言語が威力を発揮するとなれば、重要なのは文字表記よりも発音記号の方かもしれない。特殊例では、多くの日本人が、L と R の聞き分けに苦労したり、意のままに発音できないことが紹介される。日本語の音素が五十音と結びつきやすいことが、言語教育において音声よりも記述を重視させるのかもしれない。
確かに、言語は表現の手段に過ぎない。だが、言語が精神と結びついた時、これほど合理性を発揮するものもあるまい。ヤーコブソンは、その合理性の正体、すなわち「弁別素性」を言語音形に求める。尚、「一般言語学」で「特性」と訳されたものが、本書では「素性」と訳され、より自然的、本質的であることが強調される。
「知覚の階層性の中で、弁別素性は他のすべての素性に優越する。しかしだからといって、他のタイプの素性が知覚されないというようなことはけっしてない。」

ところで、ゲーテの詩的作品が翻訳ですら鮮やかな音調を保てるのはなぜか?もちろん翻訳者の能力を讃えたい。だが、それだけだろうか?言語芸術を翻訳のレベルにまで拡げるとは。音形の普遍原理のようなものを奏でているのかもしれない。翻訳者に自国語を自然に想起させるような、人類共通の精神リズムのようなものが...
本書は、まさにその精神の普遍的音形なるものを探求する。結局、例外と対峙することになるけど。言語研究では、本質的な二つの視点、すなわち、普遍性と変異性を分離させないことが重要だとしている。ここで言う普遍性とは、絶対的普遍性ではなく、相対的普遍性とでも言おうか、いわば、ほとんど普遍性といったところ。確かに、特殊性を認識できるから、崇高な普遍性なるものの存在をなんとなく信じることができる。もし、絶対的普遍性が認識できるならば、特殊性という認識も成り立たないのだろう。普遍性には、その陰に多様性なるものが原理として組み込まれているように映る。普遍性とは、近づこうとする努力であって、けして到達できるものではないのかもしれん。思考とは、まるで矛盾の蟻地獄よ!この世の学問に自己矛盾にまで達しえないものがあるとすれば、もはや学問ではなくなるのだろう。

What fetters the mind and benumbs the spirit is ever the dogged acceptance of absolutes.
(知性を拘束し精神を麻痺させるものは、常に絶対的価値の頑なな心棒である。)
...エドワード・サピア

1. 言語魔術とグロソラリア
母音と子音を基底にする音の三元性は、色の三原色に通ずるものがある。高音調と低音調は色彩の明と暗、音の濃密性と希薄性は色彩の濃と淡に対応する。そして、伝統的に育まれてきた音形は、光の神話的作用と重なるところがある。
人間社会で育まれてきた共感覚は忌み嫌わる言葉を追放し、社会のタブーは語彙追放という形で実践されてきた。心にないものは、言葉としても存在しえないのだろう。言語文化が人間社会の投影であるならば、言語は魔力ともなる。現実に、言葉の力を持つ者が先導者となり、民衆は言葉によって扇動されてきた。
一方で、俗世間から逸脱した言語の魔力がある。聖霊言語の類いで、グロソラリアというやつだ。神話的に異言を操る者、聖霊降臨と称する者、神の言葉を解すと称する者、彼らにとって人界と霊界を結びつける言葉があると都合がいい。神からは沈黙しか教えられないはず、なのに愚人は具体的な言葉を求める。神の言葉は、けして需要を失うことがない。詐欺師や自己宣伝者だと反証することもできなければ、信じるか信じないかの問題でしかない。おまけに、魔術的呪文は詩的効果を与える。音調に癒し系の言葉を重ね、心地良い周波数を反復することによって精神を惑わす。詩の魔術とは恐ろしいものよ。ピロートークもこの類いか。尚、言葉の反復は奇数回よりも偶数回の方が効果があるらしい。

2. 母音と子音、そしてスペクトルエネルギー
母音と子音は、どちらが意味的でどちらが記号的かという役割の違いがあるにせよ、この相対する二つの調音タイプの対立のない言語は知られていないという。母音と子音はそれぞれ、重音と鋭音、嬰音(sharp)と非嬰音(non sharp)、変音(flat)と非変音(non flat)とに分類される。第一、第二、第三フォルマントの絶対値だけでなく、母音と子音の優劣でフォルマント間の二項関係が示される。平たく言えば、重音と鋭音は、低い音と高い音という区別になろうか。あるいは、唇音と歯音にも対応するようだ。
高音調性と低音調性の対立は、大部分の言語で子音パターンと母音パターンの双方に現れ、そうでない言語であっても、どちらか一方には必ず現れるという。同じく普遍性の対立に、密音と散音があるという。ただし、母音と子音に関係しながら調音される。
密音性はスペクトルの中央域におけるエネルギーの集中で、散音性はスペクトルの広範囲におけるエネルギーの拡散である。唇音と歯茎音にはスペクトルエネルギーに拡散が見られ、唇音ではスペクトルの勾配が扁平からまたは低い周波数に向かって傾斜し、歯茎音では高い周波数に向かって傾斜するという。
対して、軟口蓋音は、スペクトルエネルギーが卓立した中央周波数に集中するという。そして、言語の普遍的構造として、「一般言語学」でも紹介された母音三角形(a,u,i)と子音三角形(k,p,t)が論じられる。英語のような四母音系では、a,u,i に、 æ(= /ae/)が加わって、四角体系(a,æ,u,i)となる。

3. 子音パターンの多彩性
特に、子音による対立性の方が多彩のようだ。ほぼ普遍的に存在する重音と鋭音の対立は、主に優勢フォルマントの下降から上昇的移行に関わるものだが、子音パターンには、他に二種類の両極的な音調性素性があり、それぞれスペクトル全体としての形を変えることなしに、劣勢フォルマントの主要な移行と優勢フォルマントの付随的な移行に関わりを持つという。
その第一の素性は、嬰音と非嬰音であり、もっぱら子音だけの対立によって担われ、第二の素性である変音と非変音は、種々の発音手段によって具現されるという。
対して、母音パターンの中で機能する音調素性は二つだけで、重音と鋭音、あるいは変音と非変音の対立だという。そして、後者は、円唇と非円唇母音の弁別によって作られるのが常だという。ちなみに、日本語のように円唇後方母音がある環境では、円唇性を失い、重音と鋭音の対立だけが動かずに保たれるという。
子音パターンの準普遍性の一つに、鼻音性の対立がある。有声の閉鎖音を、鼻音に変える現象である。鼻音と非鼻音の対立は、幼児が習得する最も初期の素性であるという。鼻歌がでるのも、幼児精神への回帰であろうか?
また、子音パターンに粗擦音と非粗擦音(円熟音)の対立がある。減衰と噪音のようなノイズ的な発声である。渡り音なんてものもあるらしい。母音へ移行する時に、はっきり発声することもあれば、黙音のようなものもある。有声なのか無声なのか?有標項なのか無標項なのか?母音のようで子音のような曖昧な存在で、「半母音」とも呼ばれる。
ただ、各言語において、それぞれの子音が同じ役割を果たすわけでもない。

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