2012-10-14

"美の構成学" 三井秀樹 著

美とは何か?こうした主観的概念への問いは、永遠に繰り返されるであろう。それは、精神そのものが得体の知れない抽象体であることの証であろうか。科学者は単純な理論を美しいと言う。数学者は単純な数式で世界を表せれば、それを美しいと言う。芸術家は本質的なものをうまく体現できた瞬間、新たな世界美に酔い痴れる。いずれも真理の探求とその苦悩から解放された結果であろうか。真理とはよほど心地良いものらしい。
何をするにしても、センスが良いというだけで惹きつけられるものがある。ファッションやインテリアばかりでなく、仕事スタイルやライフスタイル、そして思考のスタイルに。金持ち振りを見せびらかすのではなく、さり気なく演出されるしぐさや哲学に。これぞ美学というものであろうか。それにしても、芸術とは奇妙なものである。写生した絵画が芸術的な評価を受けても、実物には目もくれない。オーケストラの奏でる音はとても自然界ではありえないのに、高尚な趣味とされる。極めて人工的なものに目を奪われるのは、自然を征服したとでもいうのか?いや、永遠に満たされない虚しさを表明しているだけのことかもしれん。

人類は、古くから美しい形やプロポーションに憧れ、造形に対して調和の美を求めてきた。美の摂理は、伝統的な様式の踏襲と芸術家たちの直感に支えられてきた。どんなに複雑な形でも、対称性を示すだけでなんとなく和む。なにしろ、人体という入り組んだ形に対して、脚から頭までシンメトリーというだけで美人の概念が成り立つのだから。美に共感が生じるということは、そこになんらかの普遍的な感覚があるのだろう。構成学とは、まさに美の原理体系を学術的に模索しようとするものである。著者は、構成学という学問があまり認知されていないことを嘆く。電子工学や宇宙工学を学ぶためには、基礎である物理学の諸原理を学ばなければ話にならない。ところが、構成学を学ばなくてもグラフィックデザインやファッションデザインはできる。こうした背景が、構成学を魅力のない学問にしていると指摘している。確かに独学型のデザイナーは少なからずいる。国語教育から逸脱した小説家が大勢いるように。だからといって、基本を疎かにすることにはならない。独学ほど能動的な学び方はないだろう。学問には堅苦しい印象もあるが、実は、芸術と同じくらい自由とすこぶる相性がいい。おそらく構成学的な思考は古くからあり、独学的な歩みを遂げてきたのであろう。古代の建造物や美術品には、シンメトリーや黄金比やルート矩形といった数理的原理が多大に盛り込まれる。やはり、人間はユークリッド幾何学の純粋さに居心地の良さを感じるようだ。
しかし、学問として本格的に始まったのは、1919年ドイツの造形学校「バウハウス」からだそうな。そして、色の三要素、色彩対比、配色や単純な幾何学的形体を用いたリズムやコンポジションなどが盛んに研究されたという。ちょうど産業革命後、世界中に工業生産の波が押し寄せた時代と重なる。機械生産からは見出せない美的感覚の必要性から、構成学なるものが生じたという。その理念は、ネーミングからして後の構造主義に通ずるものを感じる。「構成」はドイツ語の「Gestaltung」、英語の「Construction」の翻訳というから、建築的発想を主眼にしているようだ。ちなみに、ガウディは自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家になり、建築家のみが他の芸術を支配する空間を組織できるとした。バウハウスは、ガウディ精神が受け継がれるように映る。

人間の造形に対する美的感覚は、極めて複雑な形を相手にする。人は奇妙な曲線美や不条理な形に芸術を感じる。日本の伝統美では、茶碗にみる釉薬の流れや、滲み、かすれ、あるいは偶発的に生じるひび割れや墨流しのようなパターンまで、わび、さびの表象としてきた。まさに芸術は、理不尽さを見せつける。
一方で、数学には複雑な形を分析する手法にフラクタル理論がある。その基本概念は、自己相似形を用いて、鏡映、回転、平行移動、拡大縮小といった幾何学操作にある。フラクタル幾何学の父ブノワ・マンデルブロは、雲と山の風景をデジタル数値のみで写真のようなリアルな映像を再現して世間の度肝を抜いた。以降、フラクタル・パターンが各国で次々と発見される。フラクタル理論は、どんな複雑系も定量化できる可能性を示唆している。実際、この偉大な数学者は、あるインタビューで経済学者を名乗り、株式市場の分析をやってのけた。構成学にも、鏡映や回転といった幾何学操作によって造形の美を解析しようとしてきた歴史がある。
本書は、バウハウスの理念からフラクタル理論までの構成学の歩みを概観してくれる。構成学とは、人間の美的感覚に数理的秩序を結びつけ、さらに哲学までも結びつけようとする学問というわけか。改めて科学と芸術の相性の良さを感じるのであった...

1. デザイン運動のはじまり
ヴィクトリア朝の時代、大量生産による安価で粗悪な商品が溢れたという。19世紀、産業革命によって引き起こされた工業生産に対抗して、アーツ・アンド・クラフツ運動が起こる。ウィリアム・モリスは画家や工芸家に働きかけた。機械生産は人間性を疎外すると。職人ギルドの造形精神を取り戻せと。しかし、彼は過去の伝統的様式に囚われない。機械生産を否定しつつも革新的なデザイン精神を模索したころから、モリスは近代デザインの父と呼ばれるそうな。デザイン運動はヨーロッパ各地に飛び火する。パリではアール・ヌーボー様式、そのオーストリア版でウィーンで結成されたのがゼセッション、ドイツではユーゲント様式がそれぞれ展開される。この時代、美を工学的に研究する教育分野を必要とした。この頃、工業製品の品質向上と効率化を図るための標準化運動が発生し、やがて規格化運動へと発展する。20世紀初頭に設立されたドイツ工作連盟(DWB)のムテジウスやベーレンスが起こした標準化運動は、日本工業規格(JIS)の原型になっているという。

2. バウハウスとメディアラボ
バウハウスとメディアラボとは、まったく関係なさそうだが、実は血統を受け継いでいるそうな。1919年、国立バウハウスは、ワイマール共和政の元で、世界初の本格的なデザイン教育機関として創立。もっとも19世紀中頃から、イギリスをはじめヨーロッパ各地に、専門的な職能技術を教える学校や工芸学校は存在したらしい。だが、職能に特化したものではなく、美術、建築、工業、手工業、工芸など広範な造形活動に共通する原理や理論が扱われたのは初めてだったという。初代学長ワルター・グロピウスには、芸術と技術の統合の最終的な姿は建築であるという信念があったという。彼もDWBの一員。フォトモンタージュや多重露光による超現実的表現、あるいは、カメラを使わないフォトグラムや、現像途中で故意に光線を入れ画像の反転現象を起こすソラリゼーションなど、光による新たな表現法が登場する。そして、平面から立体への展開、様々なテクスチャの試みなどが、構成教育のカリキュラムに組み込まれていく。タイポグラフィやグラフィックデザインが登場したのもこの頃。こうした試みが今日のコンピュータグラフィックスの礎となる。
ところが、1933年バウハウスはナチス政権下で弾圧され、ドイツを追われた教授陣はアメリカに渡る。その一人モホリ・ナジは、1937年シカゴにニューバウハウス(アメリカンスクール・オブ・デザイン)を設立。1939年シカゴ・デザイン学校に改名し、1949年にイリノイ工科大学に併合。ナジの弟子ギオルギー・ケペッシュは、マサチューセッツ工科大学に招聘され、メデイアラボの前身、高等視覚研究所を設立。こうして、IITとMITが世界の工業デザイン、建築デザインの最先端をいく教育機関として君臨することになったという。ケペッシュは、視覚伝達の重要性を説き、科学と芸術の共生による視覚言語の研究を行ったという。その意志を継ぐMITメディアラボは、マルチメディアの基礎研究を行い、マンマシンインターフェースの概念を生み出すことになる。

3. 黄金比と造形美の原理
「形体は機能に従う(Form follows function)」という機能主義、あるいは実用主義は古くからある。技術業界には "Keep it simple, stupid!" という思想があり、技術屋は不必要な複雑性を嫌う。単純化思想はあらゆる構成的なものに用いられ、美の基本理念とされてきた。古代遺跡にも、ピラミッドや古墳など単純な幾何学的原理が見られる。構成学では、分割やプロポーション、そして、シンメトリー、リズム、バランス、ハーモニー、コンポジションなどの美的原理を理解することが重要だという。そして、造形の中でも、最も重要な原理は分割とプロポーションだとしている。
黄金比は、パルテノン神殿からルネサンス美術など基本尺度とされてきた。
尚、黄金比とは、a : b = b : (a + b) の関係、具体的には、1 : (1 + √5) / 2 となる。
1 : 1 のシンメトリーな関係は安定して動きのない状態をイメージさせ、むしろ威圧的な印象を与える。宗教的な儀式や祭壇の境界の配置などは、すべてシンメトリーであり、これが調和の原点とされてきた。だが、物体の本質は静止よりも運動にあり、動きや変化には黄金比の方が視覚的に心地良いとされる。静止とは相対的に定義できる状態であり、人類は絶対静止なるものをいまだ知らない。古代ギリシア文明は、ユークリッド幾何学をはじめ、黄金比、シンメトリー、ルート矩形など、数理性の研究に優れた功績を残した。ミロのビーナスでは、当時の理想的な女体像を見ることができる。黄金比やルート比は日常にも見られるという。クリスマスカード、手紙や色紙の縦横サイズ、文字のレイアウト、生け花の按配、インテリアやファッションなど。ルート比では、1 : √2 の関係がよく用いられるという。
では、黄金比はなぜ美しく見えるのか?等差数列や等比数列のパターンも悪くないが、グラデーションを実現するパターンにフィボナッチ数列がある。それは、前項と次項を足したものが、その次の項となるような数列で、最初は荒っぽいが徐々に黄金比に近づいていく。おいらは擬似乱数を作る時や、ちょっとした気まぐれなパターンデータを作るのに重宝している。20世紀、生物学者ダーシー・トムソンらが、巻貝の螺旋形、ひまわりの種、サボテンの刺など、動植物の美しく見える配列がフィボナッチ数列になっていることを発見したという。黄金比をもつ相似性には、自然美に通ずるものがあるらしい。人間も自然界の生物だから、そこに美を感じても不思議はないか。ハナミズキの木は、120度ごとに同じ葉が出ていて、3分の1の自己同型になっているという。ホトギスの葉も、中心軸から左右に出て180度ごとに同じ形が現れ、2分の1の自己同型になっているという。
一方、日本文化では、1 : 1, 1 : 2, 1 : 3 といった単純な整数比が美の原理とされる。畳や建築基準も 1 : 2 で構成される。千利休は茶の道を「数奇道」とした。その意味では、日本の伝統美は静止の美と言えるのかもしれない。
ところで、古今東西、美人のプロポーションの探求は止むことがない。プロポーションにも数理的な原理がある。その証拠に、男性諸君は八頭身美人に弱い。これが整数比である意味は、女性は静的で物静かな性格が好まれるということか?ちなみに、昨夜は静かで知的なボディラインを求めて、夜の社交場へ繰り出したはずが...

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